穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

科学哲学は知の形而上学 ??

2014-05-08 10:17:36 | 書評
前回のアップを確認する意味でインターネットを漁っていたら妙な記事が多い。記事がおかしいのか、私がおかしいのか。

昔は形而上学と科学哲学は天敵だった。てっきり今でもそうだと思ったが。すくなくとも野家先生の「科学の解釈学」を拾い読みする限りこのセンチメントは変わっていないと思ったから、その前提で最近何回かの記事を書いたのだが。

科学哲学者の書いた「知の形而上学」という本まであるらしい。インターネットでも科学の形而上学が科学哲学だというのが非常に多いので驚いている次第。ちょっと理解に苦しんだので前回の補足という意味で書きました。

私の前提は「科学哲学者」と「形而上学者」は天敵という理解になっております。

なお、じゃあ彼らはどういう考えなのかと記事をいくつか開いてみましたが内容のある記事はありませんでしたので、どういうことなのか確認出来ませんでした、残念。


最先端科学は根本において形而上学となる

2014-05-08 09:15:10 | 書評
素粒子理論や天文学などの最先端自然科学研究の根本は必然的に形而上学的あるいは第一哲学的になる。

この問題は下記のような分野で問題をおこす。

*観察者の問題、観察者の観測が対象データに変化をもたらし、そのデータの変化を固定する。データの振る舞いから伝統的な意味での因果関係を引き出すことができない。統計的なアプローチしかできない。(量子力学)
ここから相補性という形而上学的概念が創案された。

*観察機器の問題、この問題に触れている例はあまり見ないが、いずれにしても超微細、超巨大(天文学)対象の観測は日常的なセンスデータに頼ることは出来ず、超高度な科学技術で作られた観測機器を経由する。データへの干渉要因は考えるべきだろう。(ある意味できわめて人為的に「つくられた」データ)。これらのデータはいずれにしても日常のセンスデータに還元しなければ我々には利用出来ないが、その過程でなにがおこっているのかの検証。

*仮説あるいは理論の空隙を埋めるための形而上学的概念

量子力学における相補性の概念などがこれにあたる。また、天文学でビック・バンとかブラック・ホールなどという考えは考えてみれば荒唐無稽な形而上学的概念と言える。ビック・バンはカントが指摘した形而上学でしか応えを提供出来ないはずの「世界の終わりと始まり」に関するアポリアである。

ブラック・ホールなど自己を否定する論理的矛盾でしかなく、まさに形而上学的奇形である。ウィトゲンシュタインだったらなんと言うか興味が有る。最近ではこれを正当化(証明)するために、ブラック・マター(暗黒物質)が発見された(高精密度の観測機器で)という報道があるがどうだか。

といって、最先端科学が形而上学に依存する訳ではなく、研究者がアポリア、パラドックス脱出のために自発的に考えた概念が形而上学的になるということである。