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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

秋のポジフィルム

2013-10-10 | 写真
去年、弟にもらった期限切れのポジのフィルムが6本くらいあって、
秋頃に撮って現像だけしてもらったんだけど、
プリントする写真を選ぶのに、
ライトボックス?を人に借りなきゃなぁと、何ヶ月も思ってたけど、
ふと、iPhoneのアプリでいいやん、と気づいた。
懐中電灯とかのアプリで液晶光ればいいだけやん。
今頃気づくのろさ・・・。
それで1年近くたってやっと
現像しっぱなしで、ほったらかしてたのを、ゆっくり見た。
去年の秋のはじまりの頃を思い出すなあ。


自分の目が何をどう見て撮ったのか、全部思い出す。
プリントするものを選ぼうかと思ったけど、
でも何のために?と自問自答。

自分が見るだけなら、フイルムのままで、構わないというか、
ポジフィルムはライトボックスの上で見るのがきれいだし。
フィルムはあるわけだから、デジタルデータより、安心な気分もある。
でも、ただ、もう少し大きめにプリントしたい気も。

パソコンやiPhoneの中の写真は、どこでも見られて何千枚でも持ち運べて便利だけど、
やっぱり結局データだと思ってしまう。
電気がないと、意味のないもの。
モノのやたら壊れる国に長く住んでたわたしには、
それは不確実で不安なモノなのよねぇ。

だから、ネガのものは、プリントしとこうと思うんだけど、ポジは少し悩む。
この小さくて鮮やかな35ミリの世界は、
そのままで、こんなに美しくてリアルだもんな。
だけどライトボックスなしでは隅々まで、クリアに見ることができないし、
わたしは電気を信じてないから、やっぱりプリントしようか。

秋に撮った写真は、自分でも好きなものが多い。
秋は葉っぱばかり見てるけど。夏は眩しくて、あまり何も見てないから。
下手でも凡庸でも、自分の銀塩スナップ写真を大事でかわいく思うのは、
自分の料理を美味しく思うのと似てるな。
プロのものとは違うけど、自分の日常に根ざしていて、
馴染みがあってほっとする感じの、好き。

写真の展示に際して

2013-10-08 | 写真
前に、人の写真展を見に行った時に、
3人でのグループ展みたいなのだったんだけど、その時にいたひとりの子が、
僕はほかの二人とスタンスが違うんです、と言ってたのを思い出した。
ほかの二人はどんどん撮ってどんどんプリントして発表するけど、
自分は撮った時点で結構満足してしまうって。
自分の表現を発表したい見てほしいみたいな欲求があまりないんです、
というようなことを言ってたのを思い出した。

わたしは絵は成り行きで何度かグループ展や小さい個展をやってきたけど
写真をどこかで展示することは考えたこともなくて、今回誘っていただいて、
なんだかプロの方と一緒に展示していただくことになって、
いざ、初めてちゃんとプリントしようとすると、何もわからずおたおた。
結局フィルム写真のネガをスキャンしたデータを送って、
プロの方が調整してプリントしてくれることになったんだけど、
データサイズや形式をどうすればいいのかもわからずおろおろ。
間に合わなかったら、デジイチの方の写真から選んで送るか、
ネガのをどこかでプリントしてもらうか、とかばたばたしました。
写真屋さんは、手焼きでプリントする方がきれいですよと言うし、
プロの方はスキャンデータをフォトショで整えてプリントした方が、
安く思い通りにきれいにできるというし、でも
でもどっちにしろ、仕上がりはある程度人任せになるんだな、
と思った時に、わかったんだけど、
わたしは人任せがそんなにいやじゃない。
すごいこだわり、みたいなものがないんですね。
撮る時は考えて撮ることも多いけど、
自分もまた発表する見てもらうということに
意欲的になれないのだなと思った。

いや、絵も写真も文章書く時も、
自分のPCの中にあるものは、自分なりに加工しますよ。
文章だと助詞を一文字変えるのも、うんうん悩む。
だけど人に見せるという形にする時、
プロの人などが直してくれるのは、そんなにイヤじゃないかも。
作ることにこだわりはあるけど、
自分は発表する時にこだわりはないんだなぁと思った。
そこに、何かの情熱や欲があれば、
日本画も写真も、きちんとアウトプットできるところまで自分でやったろう。
でもやろうとしてこなかったし、
これからもしないんじゃないかなぁ。

多分日本画を始めたのも、写真を撮りはじめたのも、20代だったら、
違ってたかもしれないとは思う。
まだ壊れてもあきらめても捨ててもなかった頃。
今からそういうことに情熱を持つことは、もうないだろうなぁ。

写真祭

2013-09-30 | 写真
10月に友だちのカフェギャラリーでやる写真展の搬入に行ってきました。




ここ数年見に行ってる→KOBE☆HEARTSのメンバーの
プロの方々を先生に、アマチュアも混じっての面白い展示になっています。
ひとり1枚ずつ、テーマも特になしの写真というのは
先日見に行った大阪のギャラリーCASOでの→「写真。vol.2」展と似ていますが
(枚数もほぼ同じ)
B0の大きな写真を、白くて広ーいスペースに展示したCASOでの展示と違い
こちらは居心地のいいこじんまりしたカフェで
それだけに写真に取り囲まれた気持ちのいい空間になってると思います。


ちなみに今回の展示を監修?していただいた→北畠さん
CASOにも出してらっしゃいました。
そしてわたしの店にも北畠さんの写真が1枚飾ってあります。
ご本人は気さくでやさしくて楽しい人ですが(お酒好き!)
写真はとても端正で繊細できれいです。

今回搬入の時にしみじみ思ったんだけど
こういう大人数の展示って、やってる本人達が一番楽しいよなぁ。
大人数でテーマもないので、やや気楽だし、たくさんいると
本当になんだかお祭りのようで、
そして写真を見ても知ってる人が多いので
背景もほのかにわかり、興味深い。
無関係のひとが見てもバラエティがあって楽しいけど
メンバーの人が見るともっと楽しいなぁと思いました。

10月はいくつかの撮影会にいく予定だし
この写真祭の展示のワークショップもあるし
お手伝いしてる宝塚映画祭のプレイベントでも写真関係があるし
写真いっぱいの月になりそうです。
写真の秋です。

作品の後ろ

2013-09-05 | 写真
写真や絵のグループ展に行っても作品じゃなく作家について考えてしまう。
わたしはわりと人嫌いだと思うんだけど、
出来事より人の方に興味が行く傾向はある。
例えば年配の方の戦争の話や震災の話を聞いても、
その時の悲惨さよりその後のその人の人生を知りたくなる。
九月一日の朝刊で97歳の女性が
90年前の関東大震災のことを語る記事が一面に載ってて、
それは死んだ弟を知らずにおぶっているお母さんとの再会とか
とても悲惨な体験だったんだけど、
その記事自体より、その後のこの方の人生が知りたくなって、
しばらくあれこれ考えてしまった。
その後どういう風に育ったんだろう、
結婚はされたんだろうか、
子どもや孫はいらっしゃるのだろうか。

人の過去だけじゃなく、これからのことも考えてしまう。
電車で向かいに座った人の様子や会話のきれぎれから、
これまでの人生やこれからの人生を、あれこれ思いめぐらすことは多い、
というか、いつもそれ。
若い人でも赤ちゃんでもお年寄りでも。
人間に対する好奇心は全然強い方じゃないと思うし、
どう考えても自分はかなり人嫌いで、
人間と言うものに諦めている部分が多いのに、なんでかなぁ。

写真展などで私的な感じのする写真やスナップ風の写真を見ると、
そういうところがフル回転する。
それを撮った人やその背景を、想像したくなるのが止まらない。
安易な物語を作って勝手に納得するのはよくないと思うので、
具体的なことは何も決めずに
ぼんやりと思いめぐらすだけにしてるけど。

東京行って来た:写真展

2013-09-03 | 写真
夏休みで、仕事の都合もついたので
今回は2泊したのですが、
金曜の朝家を出て、昼にはチェックインし
夕食までの時間2つの美術館で写真展をみました。

ひとつは東京都写真美術館の「米田知子」展
もうひとつは国立新美術館の「グルスキー」展

米田知子は、歴史上の有名人の関連する原稿などを、
その有名人のメガネ越しに撮った写真のシリーズだけは
大阪などで何度か目にしたのだけど
他の写真は、生で見るのは初めてでした。
好きな写真も多くて、ぴんと来る写真家です。
手法はいろいろでカメラもいろいろのようだし
カラーもモノクロもある写真ですが、
一貫して記憶や時間、歴史に関連した作品を撮っている方です。
(ちなみにわたしと同じ年、関係ないけど。笑)

展覧会のタイトルは「暗なきところで逢えれば」
これはジョージ・オーウェルの小説「1984年」の中のセリフで
「We shall meet in the place where there is no darkness」の訳。
この小説は、それはそれは気の滅入る未来小説で
(今の時点では過去ですが、書かれた時点からは未来だったわけです)
完全に管理された恐ろしいほど息の詰まる、そして怖い世界を書いたものです。
そこから来たタイトルだということで
彼女の透明感のあるきれいな写真に
不穏なひんやりとした空気をかんじたりします。
図録の写真集は紙も印刷もよくて
これは、たまたまやってたから見たんだけど
行ってよかった写真展でした。

「グルスキー」展は、東京行きが決まって行くつもりだった時に
来年大阪にも来ることがわかって、どうしようか迷ったんだけど
まあせっかくだし、旬だし、と行ってきました。


こちらも素晴らしかったけど、まあ予想外に驚くものは特になかったかも。
でも期待していただけのものはあると思います。
グルスキーの写真について、すべてが等価に広がる世界、
みたいな言い方をよくされてるけど、いつも
それは大きな問題じゃない気がするんですよねぇ、わたしは。
彼の作品はむしろ丁寧に仕上げた絵画に近い。
隅々まで緻密に予定され、計算され、調節され、コントロールされて
作り上げられる作品です。
作品にコンセプチュアルなメッセージがないとは言わないけど、
作家が一番に耽溺しているのは
(視覚のもたらす)美の陶酔なのではないかと思う。
有名な大きな作品の前に立つと、くらくらするのはその美しさだ。
そこに潜んでいるものが何であれ、
表面の美しさにくらっとする。
わたしが作家なら、作業をしている時は、それ以外考えてないと思う。
色と形とバランスをひたすらいじって美しく完全にしていく。
それだけでいいんじゃないかな。
現代社会のなんとか性とかのコンセプトも、勝手に内包されるだろうけど。

個人的な好みでいえば、完全に米田知子の方に満足したけど
(もっとゆっくり見たかった)
グルスキー展やってる国立新美術館の建物も見られてよかったです。



あと2つほどギャラリーの写真展をみたかったけど
時間切れだった。
東京の地下鉄はエスカレーターないところも多いし、
乗り換え歩くところも多いし
(大阪もだけど、大阪では地下鉄あまり乗らない)
この日は朝家を出てから10回くらい電車の乗り換えをして足が棒でした。
友だちと飲みに行って、生ビールのあと何だか全然酔わないモヒートを
何杯かわからないくらい飲んだら、足が痛いのも忘れたけど。笑

毎年同じものを

2013-08-24 | 写真
毎年毎年、ナンキンハゼの柔らかい葉っぱの
明るい色と形の重なりに感心してうれしくなる。
ムクゲが咲くと、なんてきれいな色だろうと感心し、
色はきれいなくせに、もさもさと枝を伸ばし葉っぱを茂らす旺盛さに舌を巻き、
道にはみ出して、歩きにくくなるのが、うれしくなる。
苦手な夏でも、夏らしいきつい日差しのつくる影が、面白い効果を作っていると、
やっぱりうれしくなる。
そうして毎年同じようなものを写真に撮ってしまう。
メタセコイヤの葉っぱもあんなにやさしいのに、
木としてみると大きくて凶暴なくらい陰影の強い茂り方で、
晴れて空の青いときのコントラストに、うきうきする。

毎年、毎週、毎日でも、同じものを見て、同じようにうれしくなって、
同じような写真を撮ってしまうけど、まあ、それでいいやと思ってる。
好きな場所の好きな構図は、本当に毎日のように撮ってて、
後で見るとどれがどれかわかんないし、つまらない写真の方が多いけど、
でも、撮るのは飽きないので、また撮っちゃう。
本当にちんまりした人間なので、小さい敷地の中でも
こんなに世界がきれいでうれしくて、
つまらない同じような写真を何枚も撮っちゃって、
これはこれで仕方ないし、それでいいやと
毎年毎年、思う。

片思いと写真

2013-06-08 | 写真
最近カフェの方、金曜日だけわたしがやることにしました。
今は日替わりカフェで曜日ごとに違う方がやってるのだけど
とりあえず金曜日は、わたしが入ってますので
ご用のある方はいつでもどうぞ。

カフェは大体ひまなので、
お客さんがいる間にも、2年くらい前の「Coyote」の
ホンマタカシ特集号を隅々まで読んじゃって、
ライアン・マッギンレーを特集してた「フォトグラフィカ」を隅々まで読んで、
さらに美術手帖のホンマタカシ特集号に取り掛かったりする時間があります。

家に帰ればまた、写真の本などを読んでるんだけど、
だからといって賢くもならないし、写真うまくもなりません。
これはつまり、片思いやね。

バイオリンにはまってた時も、片思いでした。
あれは写真よりひどかった。
全く見むきもされんかったもんなぁ。(笑)
音楽の素養も才能も、平均をはるかに下回るわたしですから・・・(^_^;)

写真はこれでもまだマシなのです。
楽しく撮ってるし、自分なりに好きな写真もたまに撮れるし。
バイオリンは弾けば弾くほど自分の音が悲しくて、つらい片思いだったなぁ。
今も聴くのは大好きで、楽器の中で一番好きだけど。

日本画描いてたときは、初めての画材なのに、
勘だけでわりとすいすい描けて、
あなたは技術的なことはできてて、すでにお手のものでしょうから、
表現の部分をもっと、とか先生に言われた。
お手のものも何も、日本画をはじめてほんの2、3枚目の絵だったりしました。
絵は人並みの勘があって、初めてでもちゃんと手が動いて形になった、
音楽と違って。

でも、そんな日本画もそれ以上は続けられませんでした。
好きだけど、ある程度大きな絵でしか描きたいものがないのに、
大きな絵はもう描きたくないという矛盾で。
しかも、場所をとるし手間がかかりすぎる。

写真は、だからしみじみと、ラクだなぁと思う。
もちろん全然ラクじゃない、すごい写真もたくさんあって
大きなテーマを追いながら、大判カメラで撮って、
プリントも自分で焼いてるような人は手間も時間もかかってるけど
わたしのような素人がスナップで楽しむのには、本当にラクです。
しかも今の時代気楽にweb上などにアップできて
人に見てもらうのも簡単だし
気楽に趣味にするのに本当にいいと思う。
今はカメラも賢いから、たくさんの人が写真を撮ってるなぁと思う。

そのくせ、たまに大きなテーマを追ってみようかとか
つい、しんどくなる方に行きたくなるのは何なんでしょうね。
そうなると、きっとまた片思いになるので
今のところ気楽なスナップでがまんしています。

畠山直哉の言葉

2013-05-30 | 写真
畠山直哉さんといえば、
採掘現場や工場、地下水路などの、なんだか大掛かり?な写真が有名ですが
この前買った写真集はそういうのと少し違って
本人も、震災がなければ出すことのなかったかもしれない写真と書いてる
彼の故郷の、震災前の写真が前半
震災後の写真が後半に載っている。
安っぽい感傷はなく、
静かに、切実さが胸に迫る写真集です。

この人は語る言葉もよくて
彼の講演などを集めた本も、今ぼちぼち読んでいますが
以下、彼のインタビューよりいくつか覚え書き。

《今だからこそ、美学と倫理の関係を注意深く掘り下げ、
 ロマンチシズムと政治性の関係をもっと批判的に考察すべきなのです。
 アートに関わる者がその努力を怠るなら、
 それこそが今回の災害に対するアートの敗北なのだと、
 僕は思います》/畠山直哉
 
《文学には絶大なる信頼を置いています。というのは..........
 僕たちがまず、言葉の人間だからなんですね。
 人によっては「私は映像の人間で言葉の人間じゃない」なんていう人が
 いますけれども、僕はすべての人間は言葉の人間だと思っているんです。
 ちょっと極端かもしれませんが。/畠山直哉

インタビュアー「私にとって、詩や歌は換喩とかメタファーというよりも、
 物事に名を付ける作業だと思うんです。
 だとすれば、写真もある種の詩だと言えるのではないでしょうか。
 イメージを作り、物事を名付ける。」に対して
《美しいですね。その表現そのものがもう既に
 ポエティックな何かではないでしょうか。
 今の話でよく例にあげられるのは、ロラン・バルトが、
 俳句と写真の共通点を語っていることなどでしょうかね。
 物事を指差すだけで表現が成立する、
 非常にシンプルで効率的な象徴作用という、
 そういう共通点は確かにあると思いますよ。/畠山直哉

《カルヴィーノは「ものがない」という状態に対するセンスが
 ずば抜けていると思います。
 何かを描くときに、それがない状態を描くことで、
 その何かがありありと浮かび上がってくるという、
 そこら辺がとても上手な人ですよね。
 不在を通じて存在を描く。/畠山直哉

《それは写真のありように近いことのようにも思われますね。/畠山直哉

《心を強調する人たちの話は退屈で聞いていられなかった。
 今の言葉で言ったら「癒される」くらい退屈なものでしょう。
 若い僕はそんなものより、心の外にあって、
 心を挑発するようなものの方が好きだったんですね。/畠山直哉

ホントににそう思うわ。
アートにおいて、「癒される」って退屈やもんな。

写真を語る言葉や、写真家の言葉は興味深すぎる。
やはり絵画を語る言葉より、わたしにはずっとピンと来る。
それは写真の方が「今」に近いせいかな・・・
絵画は、言葉で語らなくても、それでいいやと思うことが多い。
わたしが日本画の人間だから思うことかもしれないけど。

写真集をたくさん買おうと

2013-05-26 | 写真
たまには、けちけちしないで写真集をどっと
大人買いしようと,本屋へ出かけた。

写真集って、たとえば3000円くらいのものも多いけど
普通の本と比べると高く感じてしまう。
たまたま入った本屋で、うーん、と悩んで
ビニールパックしてあって中身見えないし
お店の人に,中を見せてくださいと言ったら
これは元々こうなっているので、あけて
見せることはできませんと、すごく感じ悪く断られて
(最寄り駅の紀○国屋さんは、若いバイトの子は感じいいのに
 社員?店長?らしい年配の男性が、いつも
 すごく偉そうで人をバカにした感じの悪い対応で
 いやになる)
じゃ、もういいよ!と買わずに帰ってくることが多い。
(ちなみに同じ紀伊○屋でも梅田だと
 普通に中を見せてくれますけど、どうなってるんだ?)

でも、よし、たくさん買うぞー!とお金を下ろして
図書券に換えて(割引の分でコーヒー代が浮く)みると
3万円で、かなりたくさん買えるよなぁ、と気がつく。

2000円くらいのものから8000円くらいのものまで
6、7冊、もっと買えるんじゃないかな?
(1万円超えるものは中々買えない貧乏性・・・)
そう思うと高くない気が(笑)。
スーツやコートを買ったと思えば。
息子の毎月の塾代が、もういらないと思えば。ね。

結局2時間くらいうろうろして
買ったのは前から買うつもりだった2冊だけ。
あとは写真論みたいな本ばかり何冊も買ってしまって
予算の半分くらいですみました。




写真論や写真エッセイの本も、写真集より小さいのに
2~3000円とかして、結構高いですけどね。

本を読むのが遅いので,中々進まないし
読んで、ほー!なるほどー!とか思っても
すぐ忘れちゃうので
たくさん買って読んでも全然賢くもなりませんが
写真を見て、写真のことを読んで、考えて、また写真を見て、と
繰り返して行くうちに
うまく説明できないままでも,少しずつ見えることが増えて
写真がわかってくるのではないかと、くじけず読みます。

ただ、あんまり現在の写真アートの現状や流れがわかっても
それは自分の撮る写真に関係はないと思います。
流行のあるものは長持ちしないし
自分が自分で楽しむ写真は100年前のスタイルでも今のはやりでも
関係ないことだしな。

■写真集を読む6:日本の写真集

2013-05-09 | 写真
この前やっと書き終わった去年の「写真集を読む」シリーズですが
続きと言うか、別の講座も受けたので、
今回は1年もためずに書こうと思います。

まずは飯沢耕太郎さんによる日本の写真集について。
無造作に何を話そうかなぁと始められるのだけど
やはり圧倒的な知識で、大変興味深く聞かせていただきました。
実物の写真集を見ながら聞けて
講義の前後には自由に見ることもできるので楽しいです。


1990年代に日本の写真集に注目が集まりはじめた。
70年代にもNYで日本の写真を紹介するムーブメントあったが、
その時は単発的でしかなかった。
でも90年代くらいからマーティン・パーなどにより
日本の写真集はレベルが高いことが知られるようになった。
マーティン・パーは自身も写真家の
写真集収集オタクのような人です。

欧米ではずっと、写真発表の最終形態は展示、展覧会で
写真集は展覧会のカタログ的位置づけでしかなかった。
しかし、日本では最終的目標が写真集という意識が強かった時期が
60ー70年代にあり、その頃写真集の
クオリティが高くなり特別なこだわりの写真集が多く出版された。
またグラフィックデザイナーとも関わりも強く
センスや力のいれ方が突出している。
この時代の写真集に関しては日本がナンバー1だった。
このように写真集が日本独特の発達をし、
この流れが続いて今も日本の写真集のクオリティは高い。
飯沢さんは、だから日本の写真集は、
いいと思ったら迷わずどんどん買いなさい、と
本棚のスペースに迷うわたしの背中を押すようなことを言う(笑)。



「初夏神経」小石清(1933オリジナル2000年代に復刻版)
金属の表紙・スパイラル綴じ・写真は10枚だけという大判写真集。
多重露光.フォトグラム多用の写真は、今見るとなんということないが
写真集自体をオブジェにしてしまうなど
ユニークな試みの写真集である。


「鎌鼬(土方巽写真集)」細江英公(vivo)
日本の芸術の最先端とコラボして作られた写真集で
グラフィックは田中一光。
この頃の写真集はグラビア印刷で
今のオフセットのアミ点ではなく黒の強さ、インクの重量感が違う。


「地図」川田喜久治
グラフィックデザイナーとのかかわりの強い写真集。
グラフィックは杉浦康平。
これも本自体がオブジェとなるようなデザイン。


「都市へ」高梨豊
プロボーグ時代の集大成
自費出版で写真集の大箱の内部にくりぬいたようなところに
もう1冊小さい写真集「東京人」が入ってる。


「11時02分NAGASAKI」東松照明/1968
森山大道や中平卓馬にも影響を与えた写真集。
群写真という手法で
ストーリーに沿ってスムーズに続くのではなく、行きつ戻りつ
枝分かれや入れ子構造するような
流れ、群れ、イメージや感覚的な飛躍で写真を並べる。

こういうストーリー否定は日本の写真集の一つの典型で
近年はこの手法を用いる外国人写真家も増えてきた。


「流れの歌」鈴木清/1972
自費出版。
自費出版というのは、出してくれる出版社がないと言う
やむを得ずの側面もあるが、一方
可能性は広がり自由やりたいことをやれると言う点があり
ユニークで意欲的な試みがされることが多い。
この写真集は、写真家がコピーで作るダミー本があり
試行錯誤のあとが写真集自体よりむしろ興味深い。


「センチメンタルな旅」荒木経惟/1971年
70年代前半は日本の写真集にとって重要な時期で
中でもこの写真集は大変重要。
自分たちの新婚旅行の写真で1000部限定、1000円で自費出版されたもの。


その他
奈良原一高『映像の現代1王国』
荒木経惟『ノスタルジアの夜』などを見せていただきました。
ああ、面白かった。

京都グラフィーと小野規さん

2013-05-07 | 写真
4月の終わりに、一日京都で遊んだのですが
朝一番に、京都グラフィーという写真のイベントの展示をいくつか見ました。

京都グラフィーというのは、京都の古い家や蔵で
いろんな写真家の作品を展示する写真のフェスティバルのようなもので
3週間くらいやってたかな。
今年が1回目のようで、会場がこまごま多い割には
写真の規模的にはまださびしい気もするし
地図はデザイン重視で非常に見にくいし
電話はつながらないし
問い合わせへの返事も1日以上かかるし
いろいろと不備は多かったように思うけど
京都という街と写真というのは、中々いい組み合わせだと思うので
今後ますます発展して行くといいなぁと思います。
個人的には、各会場で自転車の貸し出しとかしてくれると
まわりやすかったのになぁと思います。
歩いて回るのは大変だし、GWの京都は渋滞でバスも難しいし
自転車あると楽しいと思うんですけどね。

さて、
10会場以上ある中で、いくつか行きやすいものと見たいものを選びました。

お昼に名古屋から来ている義姉とランチをしたあとで
三条のあたりを回るつもりだったので
その前に、百万遍のへんの日仏会館での
(今は、アンスティテュユフランセ?)
小野規さんの展示を見ました。
小野規さんのサイト

今回の京都グラフィーの写真は、バラエティに富んでて
たとえば1960年代のアフリカの写真があったり
明治頃に日本に来た外国人の写真があったりするのですが、
わたしは主に現在の写真の方に興味があって
小野規さんのサイトがとてもよかったので
早朝に出かけてみてきました。

展示は期待以上で、とても美しいんだけど、
美しさは二次的なもので
他心なく悲しい事も現実も淡々と記録する目があるものでした。
人間の作った無機的なものが
自然の驚異で破壊されたあとの様子が、
まるで有機的な何物かに戻ったように見えると言う。
それを、古代の遺跡を見る外側の人のような視点で記録した写真。

あまりによかったので後日小野さん自らが解説して下さる
ガイドツアーがあると知り、
改めて京都へ行ってしまった。
行ってよかったです。
小野さんはとても感じのいい素敵な人で
お話も、すごくわかりやすく理解できるもので
大変いい経験になりました。
写真家と言うものは、画家以上に
本人に会ってみたいものなのです、わたしには。

・・・・写真は排除のメディアである。
1枚の写真を撮ると言うことは
その周りに無限のものを排除する行為なのだと、そう言われるのを聞いて
老荘に似た話があったなと思いました。

1つの音を選ぶと言うことは、その他の無限の音を選ばないということ、って
なんかそういう話(うろおぼえですみません~)
わかるなぁ。

膨大な歴史のアーカイブの中から選び取るのだとも言ってたなぁ。
音楽で言えばDJのようなものかもと。
表現より記録ありき、なんだな。
自我の前に、まず、その対象がある、彼には。

たくさん面白くて、よくわかることをおっしゃってたのに
覚えてられないわたしのバカ・・・

とにかく彼は
当事者性から離れて、自分の表現と言うことからも離れて
記録と言うことにこだわって写真を撮っている。
なのに、いちいち大変美しくて、
こんなにきれいでもいいのかしらんと困ってしまうけど。

自分の表現と言うことに、ガツガツしていない人の写真は
本当に気持ちいい。
個性とか表現とか、わたしはもういらない。
でも今時は、ほとんどのものに、入っているんだよなぁ、それ。

100年もつフィルム

2013-03-15 | 写真
日本画の先生や修復の仕事をされてる先生は、
安くて美しくて扱いやすくて効果も出しやすい新しい画材については、
それ300年もたないでしょ、で終わりだった。
わたしの個人的な絵に関しては300年持つ必要は全くないので(笑)
水干絵の具のかわりに安いポスターカラーで下塗りしてもいいんだけど。

映画のデジタル化に関するインタビューを集めたドキュメンタリー映画
「サイドバイサイド」でも、フィルムは百年もつと言ってた人がいたな。
百年前のフィルムの映画は見ることができるって。
傷んでダメなものの方が多いだろうけど保存に気をつければ大丈夫と。
一方、今は誰もフロッピーディスクは使わない。
デジタルの規格はどんどん変わってしまうから。
フィルムは手に取ることのできるものだから複製も保存も、手間もお金もかかる。
でも実体があるから、
(コンピュータに比べれば仕組のずっと)簡単な映写機があれば
いつまでも見ることができる。
デジタルはほんとうに信号でしかないんだと思うと、
全部デジタル化してしまうのは心もとないよねぇ。

デジタルで撮ってデジタルで保存されたものは、
ごく一部の評価されたもの以外は消えて行ってしまうだろうな。
デジタル作品は作るのに、フィルムに比べると全然お金がかからない。
素人でも誰でも作れて、膨大な量の作品がどんどん誕生するので
残すべきものは元々少ないだろうけど、
規格が変るたびに、残して行くものはますます限られて行くだろう。

でも
マイナーなものや特別な評価のなかったものがどんどん消えていくと思うと
ヘンテコなものや無駄なものがない歴史は、ちょっとつまらないなぁ。

写真だって、たとえば40年前のわたしの姿は古い写真の中に見られるけど、
わたしが死んだら、大人になってからのPCの中のわたしの写真は
霧散しちゃうだけだろうな。
今は誰でもデジカメで大量に写真を撮る。
世の中で撮られている写真の量はフィルム時代に比べてどれだけ多いだろう。
そしてプリントされるのはずっと少ないだろう。
写真もプリントするまではデータでしかないよね。
その中に100年残したいものも、そうでないものもごちゃごちゃだろう。
こんなにたくさん写真が撮られるようになってるのに
100年残るものはフィルム時代よりずっと少ないんだろうなと思う。

わたしがフィルムカメラでいいかげんに撮る写真も全部はプリントしないし、
ずっと残るべきものでもないんだけど、
銀塩でもデジカメでも、年にアルバム1冊分くらいはプリントしておきたいなぁと思う。
めんどくさいしお金もかかるけど、
50年後にいい感じに古くなった写真を見かえすのを楽しみに。
100年後どこかに紛れ込んでた色あせた写真を誰かが見て
わー100年経った写真だ~、100年前の人が撮って触った写真だって
ちょっとおもしろがってくれるといいな。
家のプリンタで普通にプリントしても、濡れちゃうとアウトだったりするから、
写真屋さんに行きます。

100年もつ必要のあるものはあまりないけど
100年もつものが、少しは、ほしいのよね。

■写真集を読む5:現代美術

2013-02-24 | 写真
5回シリーズの講座の最終回。
1年もほったらかしてたんだけど、やっと終わりそうです。
とはいえ、昨日から、また続きの講座を受けているので
それは1年後くらいにまとめるのかも・・・(遅い)。
続きでは、今回の5回シリーズで軽く触れたもの、
ファッション、ドキュメンタリー、ポートレイトなどを
もう少し詳しく見るようです。
ジャンル分けは、一応のもので
現代美術にジェンダーが関わるものも多いし
きっちりした固定的なものではないですが、一応の目安ですね。
とりあえず5回シリーズの最終回は現代美術。


杉本博司(1948~)
明確な哲学のあるコンセプトを、しっかりした技術で
戦略的に作品にする方法で、初期の3部作で認められる。
「ジオラマ」シリーズ
NYで働きながらアートを学んでいたとき
自然史博物館でジオラマを片目で見ると遠近感が消えて
見え方が違い、
カメラでも肉眼よりも写真がかえって本物っぽいと気づき
それでジオラマを撮る。
「シアター(劇場)」シリーズ
映画1本分シャッターあけたままで絞り開放というバルブ撮影。
映画1本分の時間が1枚の写真に蓄積されている。
「シースケープ(海景)」シリーズ
画面を水平線で上下に分けて構成。静かな海の表面と空のモノクロ写真。
「アーキテクチャー(建築)」シリーズ
ピントをぼかした写真で、そのもの本来のイメージをさぐる。
「恐怖の館」シリーズ
マダム・タッソの作る蝋人形の写真
「観念の形」
数理模型と機構モデル群を撮影
「陰影礼賛」
ろうそくの炎だけを大きく写した写真。
「フォトジェニック・ドローイング(光子的素描)」シリーズ
写真発明したタルボットの
日光写真のようなネガであるが、形が写るという驚きと期待に満ちた
初期のネガを買い取ってプリントした。
「放電場」シリーズ
印画紙に通電、光が定着した写真。

などなど、説明だけではどんな写真かわからないと思うので
こちらを参考に→杉本博司サイト
それぞれのシリーズについて、わかりやすくまとめられています。


米田知子
コンセプトは記憶、歴史的記憶。
昔の作家の原稿などを、その作家ゆかりのメガネを通して撮った。
フロイトのメガネでユングの本を、
マーラーのメガネでシンフォニーの楽譜を撮影。
歴史的な事件のあった部屋を撮ったもののシリーズは
ヒトラーの泊まったホテルや
マッカーサーの執務室などを撮ったもの。


渡辺剛
Border、国境をテーマとし、
世界各地にある境界線で隔てられた二つの土地を撮影した
「Border and Sight」シリーズなど。
カトリックとプロテスタントの間の壁など、
人間の作った壁を意識した写真。


鷹野隆大(1963~
男性ヌードのポートレート写真を通して
ジェンダーを問う。
男性器部分は法律により?カットされている。
「ただのポルノじゃないか」と難じられたら、
「その通り」と答えられるようなものにしたいと思っている。」


澤田知子(1977ー
キャノンの若手写真家登竜門である写真新世紀出身。
セルフポートレイト写真で
自分の外見を多様に変身させた写真を撮る。
「ID400」は証明写真の機械で
400人分の変装をした自分自身の写真。


森村泰昌(1951ー
上述の澤田知子と同じくセルフポートレートの手法だけど、
扮するのは世界的に有名な絵画や有名人たち。
似た手法のシンディ・シャーマンは写真家と思ってたのに
なぜか、わたしは彼を写真家ではなく現代美術家と思ってたので
写真家の中に並ぶと不思議な感じがする。


Cindy Sherman(1954ー
コスチュームをつけた自分を撮影するセルフポートレイで
一番有名なのは彼女かもしれません。
1977年から1980年まで室外で制作されたモノクロ写真による
“アンタイトルズ・フィルム・スティール"シリーズは
仮想の映画スティール写真で、50年代のハリウッド映画の ワンシーンを
マリリン・モンローやソフィア・ローレン などに扮して撮影したもので、
まだ10代だったわたしにも、とても強い印象を与えました。
だから80年代半ば過ぎに森村泰昌(上記↑)の作品を見たときは
アメリカ美術のパクリだなぁと思ったのを覚えています。
バブルに乗じて、二番煎じが出てきたなぁと(笑)。
森村さんは今もばりばり活躍されて、
今や日本の現代美術会では大先生かもしれないけど(笑)。


Sandy Skogland
自分で舞台のすべてを構成して撮るメイクフォト。
作り込まれたセットの中に鮮やかに彩色されたマネキンやフィギュア、
人間を配置して撮る鮮烈な写真です。
元々彫刻家で、小道具類にもその影響はあるかも。


やなぎみわ
染色出身の写真家。
エレベーターガールをモチーフにした写真作品や、
若い女性が自らの半世紀後の姿を演じる写真作品、
少女と老女の物語をテーマにした写真と映像のシリーズ
「フェアリーテール」などで知られる。


Loretta Lux (1969ー/ドイツ)
子どものポートレイトのシリーズ
絵画っぽい不思議な遠近感がある写真。
きれいな色使いで、かわいい子どものシンプルなポートレイトなのに
複雑なものが隠されているように見えて、印象的で、
美術館で見たのをよく覚えています。
作品と、自分のことを語った言葉の動画



Walfgang Tillmansドイツ(1968-/ドイツ)
若者文化をとらえたスナップから出発し
現在では現代アート作家としてみられることが多い。
無造作でとりとめもないスナップのようでいて計算されている写真。
展示の方法、大きさを意図的にバラバラにして
配置によるインスタレーションとして表現も。


Thomas Deman(1964ー/ドイツ)
一見普通のオフィスや室内に見えるが
実はデスクも椅子も壁も窓もライトもすべて紙で作った模型。
という写真で有名。


寺田真由美
がらんとしたシンプルな部屋に
風や光の差し込むモノクロ写真に見えるけど
これも実は、全部ミニチュアで、
ミニチュアを作ってセットして撮っている写真。
静かで美しい写真ですが、どこかに潜んでいる違和感が
奥行きをもたらしている。


横溝静
コンセプチュアルアート手法の写真。
まず、気に入った窓を見つけてその住所に手紙を出す。
そこで、その窓にいついつ10分間立っていて下さいとお願いし
その時間に訪ねて
そこに人がいて了解してもらえたなら写真を撮る、という方法。


Rineke Dijkstra (1957ーオランダ)
海の前にすとんと立った人のポートレートが知られている。
生まれたての赤ちゃんを抱いたポートレートや
闘牛のポートレートは闘牛直後、の血しぶきを浴びたものなど。
(女性写真家の項でもリネケ・ダイクストラとして触れています)


ベッヒャー夫妻
ベルント&ヒラ・ベッヒャーは50年代の終わりからモノクロで、
給水塔、冷却塔、溶鉱炉、鉱山などを撮りはじめた写真家。
大判カメラで正面からの構図、曇りの日にしか撮影しないという写真を
70年に『無名の彫刻-建造技術の類型学(タイポロジー)』としてまとめ、
ミニマリズムやコンセプチュアル・アートの文脈で高い評価を受ける。
ベッヒャー夫妻に影響を受けた写真家も多い。

■写真集を読む4:女性写真家

2013-02-22 | 写真
1970年代アメリカで女性解放の波がアートや写真に波及し
なぜ偉大な女性アーティスト(写真家)が
存在しなかったのかという問いが起こる。
1971リンダ・ノックリーの論文によると、
それまでの女性アーティストの研究では
元々ある偉大なアーティストの枠組み自体が
男性のみを想定されてた(西洋白人)せいだから
その枠組み自体を変えよう、と
別の視点で美術史を見直す、書き直す取り組みをはじめる。


(1)ポートレイト、身体、ヌード
ジュリア・マーガレット・キャメロン(英)
最初に出てくる女性写真家。
1815年に家族友人にプレゼントするため身近な人達の写真を撮りはじめた。
判事の妻で高価なカメラをもらって、有名人も撮った。
まず、19世紀半ばまで女性アーティストには芸術家になる環境がなく
親がアーティストかなどの環境でないと無理だった時代に、
大変恵まれた環境だったと言える。
ヴァージニア・ウルフの大叔母にあたる。
19世紀の古写真


ローリー・トビー・エディスン(米)
デザイナーが家族に何人かいる環境で育ち、自らも宝飾デザインをするが
30代でフェミニズムと出会い、ファットフェミニズムの活動をはじめる。
「woman en large」はとても太った女性ばかりのヌード写真集。
この写真集を見て、わたしは近所の温泉につかりながら
いろいろ考えました。(笑)
写真家のサイト
温泉で考えたこと

ハンナ・ウィルケ(米)
ウーマンリブの先頭を走る写真家で、
女性としてのセクシュアリティやエロティシズムを追求し、
自分の体を撮ったが、モデルのようにきれいな人だったため、
それまでの男性の作り出してきた規範と変わりがなく見え
美しい自分を表現したいだけと女性から非難される。
晩年は癌になった自分の写真を撮った。

キャサリン・オピー(1961~
同性愛であることをカムアウトし
ドラァグキング&トランスジェンダーのポートレート写真や
大量のボディピアスと、胸や腕の皮膚に文字を切り刻んで書いた
過激なセルフポートレートなどの作品で知られる。

ジュディ・データ(1941~ 米)
ウーマンリブ時代のフェミニスト。
イモージン・カニンガムら女性写真家紹介したことで知られる。
カニンガムに関しては下記ファインアートの項参照。

ジョー・スペンス(1934-1992・英)
乳がん後の自分の自伝的セルフポートレイト写真集
「putting myself in the picture」
フォトセラピーという概念を心理学の医者と組んで広めようとした。


2)ジャーナリズム
マーガレット・バーク・ホワイト(1904-1971・米)
Lifeの創刊号表紙を撮った女性報道写真家の草分け。
戦場カメラマンとして活躍し、
戦後はインドやアフリカなど発展途上国の写真も多く撮った。

ドロシア・ラング(1985-1965・米)
大恐慌時代の作品で知られる写真家。
社会の貧困問題に深く関わり、調査する夫とともに
極貧地域の人々の写真を撮った。
日系アメリカ人の強制収容所に連行される人の様子をを撮影し
軍に没収される、など正義感と反骨の人であったようです。

グラシエラ・イトゥルビデ(1942~ メキシコ)
メキシコで、最も重要な写真家の一人。
モノクロでメキシコ先住民族の人々の写真を撮る。

ベレニス・アボット(1898-1991・米)
モダンで都会的、都市の変容に関心を持ち
かわりゆくニューヨークを撮った「Changing NY」が有名。
マン・レイの弟子としてパリにいた時
アジェの写真をアメリカに紹介した。


3)ファッション
ルイーズ・ダール・ウォルフ(1895-1989)
ハーパース・バザー、ヴォーグ表紙を何十回も飾った。
30年代から、カラー写真にも積極的に取り組み、
計算された画面構成の美しい写真で
主に40年代50年代に活躍。

サラ・ムーン(1941ー ・仏)
ファッションモデルから写真家へ。
幻想的で繊細な写真は日本の広告にも多く使われた。
サラ・ムーンの写真は少女の頃に、きれいで憧れましたが
広告っぽさにいやになって、でも今また
きれいなぁとうっとりしています。

デボラ・ターバヴィル
日本ではパルコの広告などに使われ、バブル時代に超売れっ子だった。
アートよりの前衛的な雰囲気の繊細なファッション写真。
2012年のヴァレンチノのキャンペーンも彼女である。

ベッティナ・ランス(1952ー ・仏)
ポートレイトやヌードを中心で
現代の性をテーマにした作品が多い。
代表作の一つ「シャンブル クローズ」は架空の男性の視線を意識した
フィクションの秘密の部屋の写真集。
ストレートなポートレイトのファッション写真に定評。

ダイアン・アーバス(1923-1971)
「ヴォーグ」や「ハーパースバザー」などで
ファッションカメラマンとして活躍した後
1960年代には自己表現を探求するようになり
フリークスと呼ばれる人々を撮影。徐々に評価されるが
心のバランスを崩し、自殺する。


4)ファインアート
イモージン・カニンガム(1883-1976)
最も有名なアメリカ女性写真家のひとり。
幅広い手法、モチーフで作品を作った。
カメラでしか出来ない表現を探り
植物をマクロで絞り込んで撮ったモダンな造形のシリーズなどがある。

ハンナ・ヘッヒ(独)(1889-1978)
ベルリンで活躍したダダイスト。
写真によるコラージュ、フォトモンタージュを始めた一人。

山沢栄子(1899-1995)
日本女性写真家の先駆け。
日常の物を置いて構成したものを撮る手法で
新たな美を生み出す構成写真(constructed photo)。
抽象的な形態のモティーフを組み合わせた
「What I'm doing」のシリーズなど。
戦後アメリカで写真を学び
帰国後は60歳まではスタジオでポートレートを撮っていたが
その後好きな写真を表現として制作。
カメラを通したアート作品として撮影した。

バーバラ・キャスティン(1936-
コンストラクテッドフォト。
建築+ライティングで効果を出す。

サンディ・スコグランド
作り込まれたセットの中に鮮やかに彩色されたマネキンやフィギュア、
人間を配置して撮る鮮烈な写真。

その他日本では、今道子や石内都など。


5)ジェンダー
キャリー・メイ・ウィームス(1953ー
アフリカ系アメリカ人の国家や世界との関係や、
文化的・社会的な歴史、DV などの家族の問題などがテーマ。
古い黒人写真をアレンジし直して撮る手法など。

シンディ・シャーマン(1954ー
コスチュームをつけ変装した自分を撮影したセルフポートレイトで
日本でも有名な写真家。

バーバラ・クルーガー(1945ー
画像と文字という二つの要素を伴う作品を発表。
既存の雑誌などから集めたモノクロの写真に
簡潔かつ攻撃的なメッセージ(文字)を配置した作風が知られる。
日本ではユニクロのUTシリーズに登場したことで話題となりました。

やなぎみわ(1967ー
エレベーターガールをモチーフにした写真作品や、
若い女性が自らの半世紀後の姿を演じる写真作品、
少女と老女の物語をテーマにした写真と映像のシリーズ
「フェアリーテール」などで知られる。

6)コンテンポラリー・フォトグラファーズ
リネケ・ダイクストラ(1957ーオランダ)
ティーネイジャーと若年成人を被写体とした、ポートレート・シリーズで
思春期の不安定さを表現した。
海辺などのシンプルな背景に無造作に立った人物の写真が多い。
ダイアン・アーバスなどの系譜で語られることもある。

ナン・ゴールディン(1953ー・米)
周囲のドラァグクイーン、ゲイ、トランスセクシュアルの
友人達へのオマージュとして写真を撮り始める。
「性的依存のバラード」はゲイサブカルチャー、ポストパンク、
ニューウェイブシーンのドラッグ、暴力、過激なカップル達や、
自叙伝的な瞬間を撮影している作品集。
「アンダーグラウンドやドラッグカルチャーを写していると誤解
されますが、私は、人間でいることやその痛み、生きていくことの
難しさを写しているつもりです。」


一方日本では
Hiromix、長島有里枝、蜷川実花
の3人が女子写真ブームの火付け役となった。
彼女らはナン・ゴールディンのスタイルに近く、
露出やピントや技術的なことより、感覚で自分のまわりの日常を撮った。
女子学生の間で「写るんです」などのインスタント写真のブームが
起こっていたことも関連している。
3人揃って木村伊兵衛賞をとっている。

他に、川内倫子、米田知子、澤田知子、梅佳代などが
女性写真家としては有名。

■写真集を読む3:風景写真

2013-02-21 | 写真
風景と言っても、雄大な大自然だけじゃなく
アウトドアの景色のポートレートみたいなものもありますね。
そして人物ポートレート以上にバリエーションがあります。
わたしは風景写真をどう見ていいのかわからず
ましてや撮るのは全くわからなかったのですが
この講義を聞いて、なんだか少し取っ掛かりが出来たような気がします。


入江泰吉
奈良、大和路の風景写真で有名。
1950年代という早い時期からカラーフィルムを使い撮影。
望遠レンズを使い、撮りたいものをきれいに入れて
余分なものをぼかして隠し
1枚でも成立する構図の美しい写真を撮る。


岩宮武二
日本の美しいものを撮る写真家だが
入江と対照的に、風景ではなくものの造形をクローズアップし
意図的にかなりモチーフに近づき切り取る写真。
造形への興味から抽象へと進み
アブストラクトシリーズへ。


アンセル・アダムス(Ansel Adams)1902~
入江と同世代の、アメリカの代表的な風景写真家
ヨセミテ国立公園が有名。
モノクロ写真を8×10で絞り64まで絞って、
肉眼以上にピントのあっている写真を撮る。
元々はピアニスト志望で、写真は独自に研究した。
ラチチュードについてゾーンシステムを考え出す。
これは明暗各所の露出をはかり撮影することで
白~黒までの諧調をすべて滑らかにいかそうというもの?
ネガは楽譜だ、情報がすべて入っている
プリントは演奏だ、と言った。


柴田敏雄
自然の中の放置された人工建造物を撮った「日本典型」。
元は絵画出身で洋画油絵を描いていた。
8×10で絞り込んだ写真。
空を入れると情緒的になるので空を入れないことにした。
当時珍しかった大きなサイズにプリントし展示した。
近年はカラーも撮る。


宮本隆司
柴田と同年代
解体されて行く建築物写真を80年代に
スクラップ&ビルドの過程を記録。
ホームレスの段ボールハウスを撮影。
滑らかで、ぬるんとしたプリン
アンセル・アダムスとは違い、一定の範囲、一定の範囲内の階調で撮影。


小林のりお
ニュータウンの造成後を撮る
赤土の表面や家が建つまでの様子を
カラーリバーサルで鮮やかでコントラストの強い写真。


畠山直哉(1958~
日本を代表する風景写真家。
石灰岩の山「ライムヒルズ」を宇宙的な美しさで撮った。
石灰岩のその後、コンクリ造る工場、機械、システムをを撮る
「ライムワークス」、
35㎜で高速スピードで撮った「ブラスト」(爆発)
は初期3部作と呼ばれる。
コンクリに囲まれた水、下水のシリーズ「アンダーグラウンドシリーズ」は
全く光源のない所に光源を持ち込んで撮った。
大都会のコンクリ、ビル街を俯瞰で撮るシリーズ、
大阪城球場が亡くなるまでのシリーズ、
模型のシリーズ「scale」、など
水脈を遡るようにテーマが繋がって変って行く彼のスタイルは
日本の作家には珍しいタイプ。
今は故郷の陸前高田の震災後の写真を撮っている。


松江泰治(1963生~
東大の地学出身で地表の写真を撮る。
わかりやすく特徴づけるものを排除し
階調を狭くしニュートラルなグレーの中
ディテールだけをきめ細かく、
地球の表面というものを8×10のモノクロで撮る。
カラーで撮った静岡上空の空撮写真集「JP22」。
カラー写真ではよりグラフィカルに。


鈴木理策
ロードムービー風の写真。
セントヴィクトワール山の写真集は
セザールの描いた山(6×7、8×10で)で
露出開いてピント浅め、自分の視点で撮られた写真集。
木の1本1本まで、そう言われるとセザールの絵だなぁと
思いながら写真集を見ました。
彼について書いた日記は→鈴木理策


野口里佳
キャノン写真新世紀でデビュー。ベルリン在住。
鳥を見るシリーズ
富士山のシリーズ


小林伸一郎
廃墟の写真集。
カラーネガで、長時間露光。
肉眼では見えないカラーバランスの写真。


本城直季
スモールプラネット
大型カメラであおり機能で
実際の景色をジオラマのように見せる。


Terri Weifenbach
アメリカ、ワシントンDC在住
すべて縦位置で
大型カメラを用い、浅いピントで印象イメージを写す。
大型カメラでこういうことをした人は少なかった。


Michael Kenna
アメリカのイギリス人
モノクロ・ランドスケープの大変美しい写真にファンも多い。
すごくきれいな写真です。


今井智己
「まひる」というタイトルだけど
長時間露光の夜の写真も含む作品集。


石川直樹
探検家、写真家。
「The Void」ニュージーランドの原生林をじっくり撮った写真集。
カメラはマキナの6×7で。
この人の小さな写真集持っています。
小さなサイズでも悪くない写真たちだなあと思う。


津田直
講演に行ったときの日記→津田直さん講演