sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

1月の写真集:鈴木理策

2012-02-05 | 写真
鈴木理策「PILES OF TIME」
これも木村伊兵衛賞作家
この作家のインタビューを読んだら
写真と言うものについて
なんとなくもやもやしてたことがひとつ、
すっきりしたような気がした。
大学の先生らしく、わかりやすい言葉で語っていて
なんだか何かが腑に落ちて、写真自体の印象よりそちらが興味深い。


インタビューより抜粋。
>人は必要なことしか見ないから、何が写っているかわかると
>自動的に見ることを止めるんです。
>つまり写真の情報を伝えるという得意な部分が
>写真の本性を隠してしまっていて、
>僕は写真の本性を隠していることが気になっている。


彼は写真の、情報を伝えるという以外の部分を
大事にしたいんですね。
その部分と言うのは、人が実際にものを見るときの視点で
情報ではなく印象や自分の記憶の経験や
あいまいなものだったりすると言っています。
それを大事にするために↓
>今までの写真史のなかのある種の方法論を、
>僕はできるだけ削除したいという気持ちがあるんです。
>フレーミングによる安定した構図や絵画的な方法論を削除していくと、
>あたかもその場で自分がモノを見ている状態に重なってきたんです。
>だから、ある場所に行ったときに、自分がその場所で目にしたものや、
>ピントを合わせた場所にカメラをセットしておいて、
>構図をできるだけ考えないようにしているんです。
>シャッターを押すタイミングも自分自身が決定すると、
>決定したことが写真に写りこんでしまうように見えるので、
>たとえば風が吹いたり、鳥が鳴いたり、
>自分が体を動かした瞬間に折れた小枝の音だったり、
>自分の外にある要因でシャッターを押すようにしているんです。


これはつまり、写真を偶然性にゆだねているというよりも
自分の意志が関わるのを注意深く避けているということでしょう。
見えてわかって安心する情報を提示するのではなく、
そうすることで自分の枠の外のものも写し取り
自分の枠を無限に広げているということかな。
表現って、「自分」が見えちゃううちは
あざといものだと思うからなぁ。
>そうすることで、見る側からすると何が写っているのか一目ではわからない。
>写真を読み解かないとわからないから、写真に関わろうとする。
>そのことで、あたかも自分がそこに立っている錯覚が起こると思うんです。
>写真はイリュージョンだから、
>錯覚を誘発しなければならない。

>人はピントの合っていない絵を見ると、ピントを合わせたくて彷徨うんです。
>でも合わないんです。
>目では合っているんだけど、ピントがぼけている状態だから
>合っているところを探すんですよ。
>僕は必ずピントの合っているところを作っておくから、
>必ず見つけてピントの合っているところにとどまるんです。
>人はそこで絵が見えたと思うんです。

>フォーカスがあってないほうが人は焦る
>焦ったほうが感覚を開く


これは、無作為だったりピントがずらしたりした写真を
錯覚を誘発するものとして
新しい感覚を開くものとしてとらえているのですね。
現代美術見る時に、わたしは同じように思います。

>デジカメが動画と比較されて、写真の延長線上にあるというより、
>僕は動画の止まっている静止画として考えます。
>ちょっとカメラとは違う感じがしますよね。
>緊張感無しに生まれてきた写真に対して、僕は興味が持てないんです。

>暗いところが見えてしまうと、人は想像しなくなる。
>デジカメは、ある種の闇を無くしているんです。


結局、写真というものの一番の役割は情報ではなく
想像の余地、というか
想像を誘発するものと、この作家は考えているということですね。

このインタビューを読んだ後で
最初の佐内さんの写真集について改めて考えると
少し納得が行く感じがしました。

hope the stories that begin here continue on into your dreams.
(この物語があなたの夢の中へつづいていくことを)
これはこの写真集の冒頭のことばです。

写真は息子の学校。

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