散歩者goo 

タイトルのgooは、同名のHPやブログと区別の為付けてます。HPの「散歩者」はこのブログ筆者の私とは全く無関係です。

私の簡易履歴(追)

2013年05月01日 19時22分56秒 | 私的思い出・生き方・生活住環境
昨日記で履歴書のことに触れ、書いているうちに思い出話が長くなったので、昨日記からカットすることにした。
書きかけの履歴は、今後私自身も参考にもなるので、独立したタイトルとして改めて概要を書き足してみた。
(正式書類としての、技術経歴書や業務経歴書を作成しています。<非公開>)
こうした理由以外に、もう一つ書く理由がある。
というのは、初対面の人から以前は何をしていたのかとよく聞かれることが多かった。
しかし説明しだすと、長くてうんざりされるのだ。(多数の職歴があり説明に時間がかかる。)
これを、機会に私の履歴の概要を書き公開することにした。
ここに記載した経歴は、すべてあいまいな記憶でなく、証拠書類を基に作成した。(年金記録、手帳のメモ類・日記、名刺、会社の辞令や契約書)

私は、40歳になるまでに、技術者として3つの会社に就職している。
一つ目の会社は、理化学機器・環境試験装置の会社で、入社時は町工場だったが、今は東証一部上場企業である。
会社が急成長するに従い、設計部門の後輩は大卒で占められるようになった。
実務上は、問題なかったが、大学に行くともっと高度な技術が学べると思い、夜間大学に入学した。
夜間大学(短大)を卒業したが、レベル的には、それほど収穫はなかった。
専門分野に関しては、専門書を読みこなせは、学歴の差は全く無いことに気づいた。
それは今も同じ思いである。
例えば、考古学に関しては、私は学歴上全くの専門外であるが、今はその分野の大学生程度なら、それなりに太刀打ちできると思っているし、美術に関してもそれはいえる。
その会社で、基本的な技術を学び、新しいシーケンス設計方法を開発展開したり、技術開発したり、専門以外の冷凍技術や現場作業や検査を学び、板金、電気、冷凍設計や製品開発・研究をしながら約10年勤めた。
仕事はハードで残業も多かったが、待遇も良く問題はなかった。
辞める、1-2年前から、技術部と工場をを移転するという話が具体化し始め、大阪に残りたいので退社した。
この会社で、最先端の技術と様々な分野のを幅広い技術を身につけ、技術者として大きな自信を持っていた。

二つ目の会社は農事用温暖機や石油ストーブのメーカーで、2年ほど勤めたが業績不振で辞めたが、その後倒産した。

その後の失業期間中に、発掘作業のアルバイトをしたのが、考古学古代史が趣味になるきっかけであった。

三つ目の会社は入社時は、零細企業で技術的にも未熟な食品機械メーカーであった。
そこでは、後半になって会社の技術力も上がり、コーヒーマシンやオーブンやディスペンサーその他多様な国産品の開発設計をした。
又、輸入品を含むサービスメンテナンスやクレーム処理その他の業務処理の指導標準化もし、事業も拡大した。
製造工程の大きな改革や、より高度な品質管理の導入を図り検査方法も設定した。
10年間ほど勤め、技術部門の責任者もし、それなりの給与も貰っていたが、お金もたまり40歳になるのを機に自分の技術で独立しようと思って退職した。
だが、明確な独立プラン=経営プランは作っていなかったことで、その後の迷走が始まった。

三つ目の会社では、管理職になってから超多忙な日々を送っていて、休日出勤も当たり前で、日曜ですら開発のため家で関連技術を研究したり、問題点の対策を考えたりして、仕事中心の生活になって実質的に休めなかったが、自分で仕事を動かしているという責任感と充実感はあった。
盆正月もクレーム等の緊急事態に備え交代で出勤したり、休日の連絡先を報告する状態であった。
従って、管理職や幹部になってからは、平日に同僚と飲みに行く以外は、休日は遊びに行くこともなく、ほとんど金を使わなかった。

退職するまで、働きづめの生活のため、お金にも余裕があったので1-2ヶ月遊ぶつもりで、語学留学でアメリカのシカゴに行った。
英語学校は、全米展開チェーンの学校で、最も経費の安いシカゴ校にした。
(後で、その学校は元アメリカ政府が関係した、移民のための学校であったという話を聞いたことがある。)
学校は、シカゴ郊外のオークパーク近くにあり、初めてその回りの住宅環境を見たときは、映画を見ているように思える程、すばらしかった。
英語学校では、寄宿舎で生活し、ルームメイトはアメリカ人であった。
アメリカ人のルームメイトを通じ、現在も交流のある友人もできた。
寄宿舎および英語学校での生活は、勉強が進まない点を除けば、楽しく申し分なかった。
ところが、英語の初歩のクラスすら落第して進まず、日常会話もおぼつかない状態なので、ある程度英語が理解でき、話せるようになるまでとどまることにした。

結局、その英語学校では、何度か落第しながら9ヶ月在籍して、その後シカゴ市内のイリノイ大学付属英語学校で3コーター(1コーター 10週間)学んだ。
イリノイ大学付属英語学校では、前の英語学校の友人のポンコツ車を買い、イリノイ州の運転免許を取得し、自立した生活を送った。
休日は、車でドライブし食料品もスーパーで買い込み、自炊した。
当時、英語はそれなりに読み書きできるようになったが、日本に帰って20年以上英語に接することがなかったので、今では初級クラスの実力になってしまった。

イリノイ大学付属の英語学校を卒業すると、イリノイ大学に入学できると聞いたしその目的で来ている人も多かった。
多分更に2コーターも在籍すればその条件はパスできたと思っている。
(10枚以上のリサーチペーパーを書きOKは出ていたが、他の分野が落第点だった。)
しかし、日本で自分でビジネスをすることが目的なので、大学進学は考えないようにした。(資金的には問題なかった。)

その後、アメリカ人の親友の奥さんの紹介でメキシコのクエルナバカにあるスペイン語学校に入学し、初歩のスペイン語を習得したが、実際はほとんど話せなかった。
ホームステイ先の一家とは、非常に親密な関係を築くことができ、特にその一家の次男とは、一時メキシコでのビジネスパートナーになってもらったことがあるし、グアテマラでの民芸雑貨買い付けにも同行し様々な支援をしてもらった。
メキシコでの生活は、非常に楽しかったが、文字通り毎日がフエスタ式(パーティー)の生活スタイルには驚いたし、だれでもアミーゴ(友人)になる習慣にも驚かされた。
約束を守らないことも多くイライラしたこともあった。
よく言われるが、ラテン系の人たちにとっては、仕事よりも家族や恋人が大切で、どんな場面でも1-2時間の遅れは、当たり前と思っておいたほうがよい。
お金を貸すと帰ってこない、というのは一般的な話で、貸すことは与えることと考えた方がよいかもしれない。

メキシコで民芸雑貨を集めた後、南米各国の首都をすべて回って民芸品を集め帰国した。
この旅行では、様々な思い出や奇妙な体験や危険だったのかもしれない体験もした。
ペルーでは、飛行機の中で隣り合わせた日本人の武道家の方とご縁があり、日系2世のグループと懇意になりお世話になった。
その他、コロンビアでも知人のお宅に2週間ほどお世話になった。
ベネゼラでは、アメリカ人の元ルームメイトが、シカゴ大学の大学院で、社会学の研究で貧民街で宗教(プロテスタントとカトリック)と社会構造の研究のフィールドワークをするため、カラカスのスラムで暮らしていた。
彼がアマゾン流域の冒険ツアーをセットしてくれて、彼と一緒にコロンビアとブラジル国境のプエルトアヤクチョ?近くのオリノコ川一帯に住む人々の生活を知ることができ、現地ガイドの家にもお邪魔した。 

帰国後、会社を設立し、喫茶店や民芸雑貨店やギャラリーを、それぞれ順次開業廃業を繰り返し、2000年にほぼ10年間営業したギャラリーを閉鎖し、会社を廃業した。
ギャラリーは、はじめ近鉄上本町駅の南にある雑居ビルの2階で5年間営業し、その後西天満の老松通りで5年間営業した。
その間に、様々な出来事があり、阪神淡路大震災の後に母も亡くなり、蓄えも使い果たし借金が残り、廃業することになった。
廃業するのも、現状復帰等のお金がかかり、解体やゴミの処理や、残った物の保管等で家の中は、本当に寝る場所も無くなったり、撤収は大変な仕事になった。
更に、翌日から収入の当てもなく、日々生活するためのお金の心配をしながら職探しに走り回り、日々借金は膨らみ続けた。
その後、破産するまで、その苦しみは続いた。

それでも、ギャラリーを営業したおかげで、今も美術に関して趣味の鑑賞者として係わり続けていられることは、私にとって大きな財産である。
(退職したサラリーマンが、なすことなく無趣味で生きがいを失い、ぶらぶらしているのを多く知っている。)

その後は、非正規社員として、調査員、技術者、営業マン、警備員、掃除人、自営業、介護、等様々な職業を経験した。

ギャラリーを廃業して、職安に行くとすぐに失業対策事業として、短期契約で調査員<国家プロジェクトの工業団地への工場移転条件調査をし、経営者または幹部に面接調査をする仕事で、有名シンクタンクの下請け>の仕事があった。
年度末までの半年以上のプロジェクトに係わる仕事であったが、途中から営業支援の仕事も兼任するようになり、以前の技術者としての経歴を生かすことで、訪問先の会社の幹部と話をつなぐことができ、いくつか大きな実績も上げた。
(調査員チームの向かいに、銀行やゼネコンや役所のエリートの出向者を集めた精鋭営業チームの部屋があった。彼らの支援チームとして、失業対策事業の調査チームはシンクタンク幹部の指示で単独で調査活動に従事していた。営業がほぼ見込み無しとしていた大工場の誘致成功の足がかりを築いたこともあり、非常にやりがいのある仕事であった。)
その仕事では、多くの優良中小企業の社長や幹部に面会することができ、いい経験になった。

調査員のプロジェクトも終了し、再び職安通いの不安な日々となった。
職安帰りに当てもなく西天満を歩いていると、顔見知りの人に会い、遊園地でのコンピュータ関係の短期の契約社員仕事を紹介してもらった。
期間は半年もなく、短かったが待遇はよかったし、巨大遊園地のバックヤードを見ることができた。

その後約一年近く、家にこもり、ネットショップ作成を目標に、HTMLの習得をし、ホームページの構築に取り組んだが、結局ホームページも満足な物はできず、ネットショップも完成せず、大失敗に終わった。
その間、タイピングの練習をし、かなり早くなったが、今から思うと無駄な一年を過ごしたと思う。

いよいよ生活に困窮し、再び職安に行き失業対策事業で、学校警備の仕事を紹介してもらった。
そこは警察と関係のある警備業協会の直轄事業で、隊組織になっていて、半年近く東大阪市の小学校の複数の校下を自転車で巡回した。

その後も短期の失業対策事業で、自転車で街路灯や電柱の調査をする仕事をやった。
電柱調査も終了し、次の仕事を探していて、介護の仕事が多いのに気付いて職安に相談すると、ホームヘルパー2級の職業訓練を紹介してくれた。
職業訓練を知ったのが、失業保険が切れた後であったので、失業給付は受けられなかったが、無理してホームヘルパーの職業訓練に通った。
職安からの職業訓練でホームヘルパー2級を取得し、その後ホームヘルパーとして、就職活動を行ったが、当時は男性のホームヘルパーの実績は少なく、ニーズがなかった。ホームヘルパーの経験を積むために、1ヶ月間ボランティアでデイサービスの介護に入らせてもらい、デイサービスの仕事や、入浴介護を行った

そうした失業対策事業の仕事の終了後、職安の紹介で、立て続けに東大阪のブラック企業と思われる企業には2社勤めた。
そこでは、残業、休日出勤が月100時間程度になることもあった。
契約社員として雇い、月給制という名目で、低賃金で働かせ、連日夜9時から11時まで働き、休日も出勤しても契約社員ということで、残業代は出さないのだ。

最初の会社は、東大阪の試験装置メーカーの会社で、契約社員として働いた。
開発や設計を担当した。
設計部門が中心で、全員9時10時過ぎまで働き土曜も出勤することが多かった。
設計リーダーが若くて知ったかぶりすることが多く、間違いをたまに指摘すると、窓際に追いやられた。
更に、設計で私はキャドを使った経験がなかったので、足手まといになり、会社を辞めることになった。

次に、やはり職安の紹介で、照明器具の下請け専門会社に勤めた。
工場改善がその業務であった。
若い担当者に、工場管理の技術を習得させるのが目的だったらしい。
そこでも、夜も工場終了後改善作業を行い、社長が無理難題を突きつけ、こちらの工場改善の提案は受け付けず、些細な汚れでも長時間叱責したり、古い設備を新品同様にせよというようなことをいい、盆休みも休み無しで働かせたり、日曜出勤も当たり前であった。
無論、給料は定額である。
この会社も、半年の契約期間満了で退社した。
退社時に、別の会社幹部が、私の業績を評価し金一封をくれたのが、せめてもの救いであった。
私は、その会社に、多くの貢献をしてやったと思っている。

その後、再び職安に行き、約2年間社労士・保険関連の会社で営業職で働いた。
この仕事は、営業らしい仕事で、業績も上げ順調であった。
事務所は御堂筋にあり、毎日そこを基点に社労士と協力して営業活動をした。
私が所属した営業では、住宅地図片手に自転車に乗り大阪府下の中小零細工場を回り就業規則作成、助成金等の受給支援等の社労士の仕事受注の営業活動を行うのである。

余談になるが、自転車で回った地域は、大阪市北部から豊中や尼崎や伊丹にまで及び、雨の日も、猛暑の日も、寒波の日も町の隅々まで中小零細工場を訪問した。
自転車は会社の自転車で担当地域まで乗っていき、帰りは駅の有料駐輪場に止めておき、翌日から電車でその駅まで行き、自転車を使って回るのである。
阪急沿線では、レンタサイクルを利用した。
尼崎の脱線転覆事故が起きたときに、事故現場から1kmも離れていないところを回っていた。
事故には気づかなかったが、突然あちらこちらで通行止めになり疑問に思いながら帰って事故を知った。
また、伊丹方面に行くときには、事故現場を通る線に乗っていた。

最終契約は、社労士が直接企業と面談し、その後の手続きや書類作成は社労士がすべて行う。
私が担当した中で、高度なものでは、経営革新助成基金のサポート作業を社労士と共同で行い成功させたことがあった。(取得のハードルが高かく、私の技術の知識も生かすことができ、私も技術関係書類作成支援を行った。<経営革新の申請の支援は社労士業務とは直接のかかわりはなく、行政書士とか他のコンサルタントも行っている。>)
そこには、高度な経営・営業・技術の専門知識が必要であった。

私が勤めている会社の、事業が順調に拡大しているときに、社労士協会から突然社労士と協力して営業活動をするビジネスモデルを禁止するという横槍が入った。
そのため、営業は社労士と協力して仕事ができなくなり、私は会社を辞め自営業として自立する道を選んだ。


自営業として、様々な企業と協力して、BtoBの販売代行の仕事を開始した。
どの仕事も鮮明に覚えていて、それぞれ真剣に取り組み、自営業のときは沢山の情報収集を行い、商品のことを勉強し独自の営業資料も作った。
健康食品(水素水<学術的エビデンス有り>)や健康機器(イオン発生器 空気清浄機 香り発生器)や業務用地下水浄化装置、業務用カラーコピー機レンタルや光電話(大手通信会社)等扱い、その他、太陽温水器や障がい者用排泄物全自動処理装置や強力無公害天然素材の洗剤も扱ったことがある。

かなりの商品で、資料作成過程でその製品の効用の有用性に疑問を持って、取り扱いを止めたり(震動マシン・デトックス機器等 健康食品)、消費者である対象企業を回って、競争力や需要のなさに気づき(業務用カラーコピー機 ITソフト<電話受信処理システム:発信者の詳細情報表示>)取り扱いをやめたものも多い。
結局、飛び込み営業や顧客先を絞っての営業活動を行ったがほとんど成功することなく終わった。

自営業を始めて2年目、借金の過払い請求が話題になっていたので、司法書士に相談したところ、自己破産を勧められ、それに従い、自己破産を申請し、裁判所で認められた。
負債は、金融機関のみで個人的にほとんど迷惑を掛けることがなかったのがせめてもの救いであった。

その後自営業も開店休業状態のときに、シルバー人材センターの紹介で、公園の清掃の仕事もし、最も汚れる便所掃除の仕事もこなした。(ブログに掲載済み)
そして、開店休業状態の自営業もやめ、生活保護に近い年金を受給しつつ、現在に至っている。


コメント (1)

昨日記130430火(20/14曇 臨時職員応募書類作成・提出)

2013年05月01日 16時29分51秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
昨日は、午前中先、週見つけたある企業の臨時職員の応募書類作成をした。
履歴書を書くときにいつも頭を悩ます問題がある。

私の、職歴が非常に複雑なのである。
職歴の内容は、かなり長くなったし、今後の参考にしたいので別ブログに記載する。
とにかく、履歴書に書くと書ききれないし、説明しても非常に話が長くなる。

どの仕事も鮮明に覚えていて、それぞれ真剣に取り組み、自営業のときは沢山の情報収集を行い、商品のことを勉強し独自の営業資料も作った。
いくつかの商品で、資料作成過程でその製品の効用の有用性に疑問を持って、取り扱いを止めたり(震動マシン・デトックス機器等 健康食品)、消費者である対象企業を回って、競争力や需要のなさに気づき(業務用カラーコピー機 ITソフト<電話受信処理システム:発信者の詳細情報表示>)取り扱いをやめたものも多い。

そのほか応募用紙に書く、志望動機も数日前から考えていたが、数行でまとめるのは至難の業である。
結局、満足のいかない履歴書と申込用紙を提出する羽目になった。
手書きの文書を作るのは久しぶりであった。
丁寧に応募書類を書いて、急いで提出に行った。
そのせいか、その後なんとなく疲れた感じであった。
コメント