教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

大規模講義においていかに「学び」を発生させるか

2010年12月27日 22時54分33秒 | 教育研究メモ

 大学教師にとっての難題。すなわち、100名を超える大規模講義において、いかに学生たちに「学び」を発生させるか。

 「学び」を発生させるには、学生と教材との対話、学生と教師との対話、学生と学生との対話を発生させなくてはならない。60名程度までならなんとかできないこともない。しかし、100名を超えるとそう簡単ではない。この場合、一人ひとりの理解をコーチングすることは、ほとんど不可能である。机間巡視しても、よほどの程度の者を数人指導できるにすぎない。対話を発生させるために学生に当てたとしても、ただ当てただけでは、当てた学生の周辺で若干集中が高まるだけで、教室全体としてはほとんど効果がないことも多い。

 たしかに、講義をしている際に、学生全体が教師の話にぐっとひきこまれて、集中していることを感じる瞬間はある。ただ、これは、学生と教材または教師との対話のきっかけを作ったにすぎない。その次へ進めるのが問題なのである。対話を進め、理解を深めていくところまでもっていくにはどうしたらよいか。クラス規模が大規模になると、学生たちの「学び」を維持、または「学び」から脱落させないことはとても難しい。

 大規模講義において「学び」を発生させるには、教師一人が「いい話」をするだけしかないのか。大規模講義の先例であるモニトリアルシステムや単級教授法のように、規律遵守、助教制、自学的並行的学習などを取り入れていくしかないのか。

 そもそも、大規模講義において、深い「学び」を求めることそのものが間違っているのだろうか。もしそうだとすれば、理論系講義は、学生一人ひとりに各種問題を深く考えさせなくてはならないと思うのだが、理論系講義のクラス編成が100名を超えるような大規模クラスにしか編成にしかできないのでは、まずその目標を達成することは至難である。

 こんな問題を問うのは、不毛のような気もする。しかし、それでも問うのは、単純な願いからである。学生たち一人ひとりの「学び」を豊かにしたいのである。「学び」から逃げ続けている学生たちを、「学び」へと導きたいのである。

 (お察しの通り、上記の「学び」の概念は、佐藤学氏の概念を参考にしています)

コメント (2)
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