教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

1970年代の音楽教育の問題点

2005年12月11日 21時15分41秒 | 純邦楽
 今日は、鼻づまりがひどく、昼過ぎまで寝た上に寝覚めの悪い日でした。無呼吸治療の機械は鼻から空気を送るので、鼻がつまると治療もうまくいかないのです。どうも寝ていると寝返りで布団がずれるようで、軽い風邪をひいてしまいます。さらに、息苦しいからさらに寝返りを打つのでタチが悪いし。
 寒い日がニクい(笑)
 昼過ぎに昼食を買って登校。今日は何となく自分の専門の勉強をするのが嫌で、自分の知識というか教養というか、そういったものを高めようと思いました。昨日の延長として、今日は小泉文夫『日本の音-世界のなかの日本音楽』(青土社、1977年)を読みました。これは、当時、東京芸術大学で教育と研究に従事していた小泉文夫氏(1927~1983)が、「これからの社会に私たちの伝統音楽がどう活き続けていくか」を問題意識として、現代と過去、日本とアジア・ヨーロッパ、音楽と他の芸術・文化などの軸によって日本音楽を比較分析した論文集です。

 今日はその中の3論文、「世界のなかの日本音楽」「日本音楽の今日と明日」「日本文化のなかの伝統音楽」を読みました。「世界のなかの日本音楽」では、従来言われてきた日本音楽の特殊性をアジア音楽を含めた国際的比較によって批判し、むしろヨーロッパ音楽の方が特殊だとしています。「日本音楽の今日と明日」では、日本音楽の国際化(外国人の中から優秀な研究者や演奏家が出てきたこと)、若い世代の伝統音楽離れ、が論じられました。「日本文化のなかの伝統音楽」は、建築・文学・演劇と音楽の相違点と共通点を浮かび上がらせた論文です。
 小泉論文中の興味深かった部分を取り出してみます。「日本音楽の今日と明日」の中で、若い世代が伝統音楽から離れる理由が論じられています。その理由は、「新しい芸術の価値体系を求めて」離れたのではない、「自国の伝統からシャット・アウトされた状況の中で、外国の価値体系を求めざるを得なかったためである」としています。そのような状況に陥った理由として、小泉氏は特に日本音楽に対する無知を形成した従来の教育の問題だとしました。
 「日本文化のなかの伝統音楽」では、音楽も歴史的にそれ自体で自律的な体系を持つのではなく、日本人の芸術的表現のあらゆる側面と極めて密接に結びついたものであるとしました。伝統的な建築・文学・演劇は、いずれもある一定の「型」を組み合わせて作り上げられ、音楽もまたそうであったといいます。しかし、音楽は、建築とは違って実生活との結びつきが弱く、実用性に欠けているため、伝統的要素は簡単に破棄され、文学・演劇とは違って日本語という言語や学期・音階・リズムを放棄し、西洋音楽の「型」や「素材」に転換してしまったとしました。そのため、「ひとり音楽だけが伝統とまったく切り離された形で教育の場で取り扱われ、いきなり何の社会的・身体的・言語的裏づけもないまま、西洋音楽の成果としての体系が日本の子ども達に押しつけられた」として、やはり音楽教育の問題として問題提起がなされています。
 小泉氏の論文の中には、無自覚に日本人が西洋音楽(欧米)を追い求める姿勢を問い直すこと、という問題意識が深く根付いていると思います。たびたびあらわれる、日本の音楽教育における西洋音楽教育の偏重に対する批判は、その証左ではないでしょうか。小泉氏は、『日本音楽の再発見』(講談社現代新書、1976年)で、次のように言っています。ちょっと長いですが、小泉氏の問題意識がよくわかるので引用します。

 「ある民族の音楽文化は音楽だけでなりたっているものではなく、言葉だとか、身体的運動だとか、さらには自然環境、歴史的風土、社会的慣習など、要するに、その民族の文化全体と密接な関係のなかでそだってきているはずなのに、そういうことをほとんど考慮せずに、明治以来西洋音楽を基本とする音楽教育が、国家的な規模で行われてきました。
 音楽だけ純粋に取り出して、西洋音楽を基本とした教育体系を作り、国家的な規模で熱心に行っているというのは、どう考えてもわれわれの常識を越えていて、黙ってはいられない問題です。
 こういう大胆な実験を行っている民族は、私の知る範囲では、世界に日本人だけです。まともな音楽教育を受けた日本人は、インテリであればあるほど自分たちの国の音楽について無知であり、また無関心です。欧米の音楽については大きな関心と愛着をもっているのに、自分の国の文化になると、とたんに背を向ける。これがかりに、自分の国の文化がよくわかっていて、しかも、その文化のもついろいろな歴史的弊害を克服していこうというばあいには、外国の音楽を調べることは非常に大切かもしれません。ところが自国の文化に対する基礎的な知識すらもたないで、無関心でいたり、それを否定するというのは、特異な現象です。こういう状況を作りだした音楽教育について、われわれの発言を促す理由はたくさんあります。」(『日本音楽の再発見』、8~9頁より)

 小泉氏がこの論文を書いた1960年代~70年代における日本音楽の状況と、現代における状況とでは違います。現代では、学習指導要領への日本音楽の導入や、音楽科教員養成課程における邦楽実習の導入などが進んできています。しかし、それらは何か付け足しのようになってはいないでしょうか。小泉氏のいう日本の音楽教育の問題は、まだ十分に解決されていないような気がします。小泉氏も問題提起してますが、教員養成の見直し、教材の開発、カリキュラムの見直しなどによって、「日本の音楽教育」を再構築する必要性があると思います。そのためにも、戦前戦後を通した、音楽教育の歴史(カリキュラム、教員養成、実践など)を研究し、小泉氏の把握した問題の実証が必要な気がします。
 結局印象論ですみません…
コメント (2)
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