教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

今日は元気です

2006年01月28日 23時55分55秒 | Weblog
 何とか立ち直って早朝から出校しております。では、今日こそはがんばろう!
 ということで、がんばりました。今日は、まず「大日本教育会・帝国教育会の群像」を執筆。なぜかログインに手間取り、30分以上なんとなく無駄に(T_T)。ですが、なんとかログインに成功。なんと4ヶ月ぶり(!)に更新しました。先日から執筆していたのは東京府会員ですが、今日は広島県会員の続き。執筆したのは、広島県初の高等女学校の経営をリードした、山中正雄氏について。とりあえず手元の資料で書ける人を書いてしまおうというねらい。
 昼頃まで群像をいじくった後、サークル棟和室へ三味線の練習に行く。たまたま今日は現役邦楽部員(学部生)の練習日だったようで、邪魔しないように早々に退散。あまり練習できませんでしたが、とりあえず練習を始めることが大事なのでまあよし。そういう意味で、目的は達したという感じで立ち去る。
 ほか弁でスーパーのり弁当を買って戻り、昼食後、先日から読み続けている稲垣著を読む。今日は、第二部第二章第二節「浸透の実態」の「(一)学校レヴェルにおける教授実践・研究の体制」と「(二)教案の形式」を読みました。あいかわらず、所与の内容を云々、という論文内容ですが、明治三十年代後半以降の小学校教員による研究の体制・形式をかいまみることができました。本稿は、各種の研究体制において展開される教案の形式を明らかにすることが目的であるので、研究体制に焦点は絞られてはいないよう。ただ、私の当座のテーマは中央の研究体制なので、地方の一・二小学校の研究体制が明らかになったところで、背景のほんの一部が明らかになったにすぎない。けれども、少しは「目」が開いた、というべき。正直な感想は、「ほほぅ」である(笑)。
 次は、『「文検」の研究』を読む。今日は第三章第四節「乙竹岩造とその役割」。以前読んだ吉田熊次のくだりは、「文検」研究なのか吉田研究なのか不明な論文になってしまってましたが、この節は「文検」研究になっていると思います。乙竹は、戦前の有名な近世日本教育史研究者で、主著は『日本庶民教育史』(1929年)など。「三字教」という古い識字書を研究している我が研究室の先輩がひいていたので初めて知ったのですが、この『日本庶民教育史』に掲載されている幕末の識字教育の調査は貴重だと思います。ただし、そういう乙竹も、大正期以前は、他の教育学者と同じように西洋教育思潮の移入にも貢献しています。『文化教育学の新研究』(1926年)がその主著かな? こういった乙竹の学説が、「文検」の試験問題にダイレクトに反映している、というわけです。
 と、ここで、昨日の記事を見て心配してくださったのか、先輩に息抜きに誘われました。そして、研究と勉強のバランスについて、どちらかに集中した方がいいよとアドバイスをいただきました。う~ん、どうも私は欲張りなので、どちらも!という気分が抜けません。一点に集中した方がいいのはわかるんですがねぇ… 決心がつかないまま研究室に戻って読書するも、今ひとつノってこない。もともと夕方からは研究しようと思っていたので、思い切って研究に移行。
 今日は大日本教育会・帝国教育会の経費分析。地味で地道な数字の分析です(笑)。思った以上に作業は難航。資料に記された費目があまりに統一されていない、必要な情報が不足している、縦書きの漢数字が読みにくい(しかも千・百・拾・円・銭・厘などと書かれると…)、高額な雑収入・雑支出(何に使ったんだよ!)、そもそも理解できない費目がある(例えば一時取扱金・仮出金など。どっから金を出してきたんだぁ!)。数時間格闘して、ようやく分析視点がしぼられてきて、あまり細かく分析しても仕方ないことがわかりました(笑)。とりあえず、全体像は頭に入ったので、論述に必要最低限なデータ分析をすることにします。
 どうも数字を分析していると、ボケーっとデータを眺めるクセがある。おかげで帰宅のため学校を達つのは、29日の午前4時ごろになってしまいました。せっかく今日(28日)は早起きできたのに、また寝過ごしそう(-_-;)。
 まあいいや。ちょっと前進んだし。
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