今日は久々に院生らしい記事です(笑)。
今日は早くないし遅くもない時間の午前中に登校。まず、広島大学文書館に差し上げる資料群を移動する仕事(めちゃめちゃ重い段ボールを持っていく仕事)を先輩と一緒にこなし、その後は教育学講座付けのコピーカードを使い切るため、戦後出版された各府県市教育史に載っている教育会の論文をコピー(必要だし)。それから、東京高等師範学校の研究活動を調べるために鈴木博雄『東京教育大学百年史』や『茗渓会百年史』を借りてくる。ううむ、高等教育研究センターにもなかったけど、筑波大学って年史作ってないんですか? 東京高師の研究活動の自己評価が知りたかったんだけどなあ。その後、以下の論文を読みました。
奥田真丈「教育改革の理念と構想」(奥田真丈監修『教科教育百年史』第一部「序論」第一章、建帛社、1985年)を読みました。構成は、「一 国家・社会の発展と教育の改革」「二 第一期の教育改革」「三 第二期の教育改革」「四 第三期の教育改革」です。第一節では、教育の変化と社会の変化を対応させ、初等段階を中心に学校制度改革を叙述するという本章のねらいが示されています。二~四の時期区分である第一期(明治元年明治維新~昭和20年WW2敗戦)・第二期(昭和21年占領期~昭和45年)・第三期(昭和45年~昭和60年)は、昭和46年の中央教育審議会答申前文における時期区分に依拠しています。この章は、教科教育の基礎である近代学校制度の概要を示す形になっていると思われます。内容を見ると、第一期は学制・教育令・小学校令および教則関係の法令の制定・改正の叙述、第二期・第三期は教育視察団報告書・教育基本法・学校教育法・各種審議会答申等・委員会答申等の叙述(初等に限らず)。変化した学校制度の結果だけ簡潔に知るには、良い概説だと思います。ただ、なぜ変化したのかという原因はほとんど不明だし(本論に書いているんでしょうが…)、戦後については答申が述べている原因のみなので不満が残ります。そもそも第一期78年間・第二期25年間・第三期15年間という時期区分とくに第二期・第三期の区分は、政治的な処理を経て成立した中央教育審議会答申に基づいたものですから、学術的な検討による区分ではないですし、内容的にもそんなに劇的に変化しているとは思えません。「うーん、これでいいかなあ…」と疑問が残ります。そもそも単純に第一期に比べて短すぎますよねぇ。
佐藤照雄「教科教育についての課題の提起」(同上、第一部第二章)も読みました。構成は、「一 教科教育学成立への動き」「二 教科教育学の前史」「三 教科教育の課題の提起」です。第一節は三項立てです。「(一)『教科教育学』の教育全体における位置」では、教科教育学の理論が、実践から抽出し実践を方向付けるものとして実践に帰る性格をもつ理論であることが指示されました。「(二)『教科教育学』成立への経過」では、昭和三十年代から五十年代にかけて、教員養成における理論と実践の統合の問題と、教員養成大学・学部の存在理由の両側面から、教科教育学が意識化されてきたと指摘しています。「(三)教育実践の側からの課題意識-教科教育学の基盤」では、教科教育学は、教師の側からの教育目標・教科設定・教科内容構成・教科編成と、生徒の側からの学習を通した能力育成とを見通したカリキュラムを研究対象とするとしました。第二節は二項立てです。「(一)近代教育における教科教育-教授学の展開」では、明治期から昭和戦前期までの教育方法研究の発達の概要と、知識の伝授つまり教授中心主義の学習観・教授段階方式について触れています。「(二)明治後半期の教授学の確立」では、白井毅『学級教授術』(明治20年刊)と明治30年代の教授法書を取り上げ、知識付与と能力開発、学習主体者としての生徒観、教科統合の思想をもって教科教育に関する学習理論の原型としました。第三節は三項立てです。「(一)教科教育の科学的研究-『教科教育学』への課題」では、教育理論と教育実践との統合、教科教育法研究と教材研究における課題があげられています。「(二)学習の変革-教科教育の構造検討を通して」では、教科教育は、教科内容伝授ではなく、児童生徒の主体的学習活動を中心に考える構造となる必要があるとしています。「(三)現代の課題に応じた教科教育」では、教科教育については、既存の教科内容の学習指導といった技術論だけではなく、教科全体の学習活動を通して人間性と世界認識と学力を身につける具体策まで研究されねばならないと提案しています。以上、一節一項ずつ要約してきました。
とくに第一部第二章を読んで、思ったこと。とりあえず教科教育学という学問は、学校教育における教科教育における児童生徒の学習活動という限定された領域において、研究・実践両面における教育理論と教育実践の統合をめざす学問であるといえましょうか。なお、本文中では教育の機能を知識付与と能力形成の二つに分けて、教科教育においては能力形成の重視を提唱していますが、それを強調しすぎて、知識付与の位置づけが不明になってしまっているように思います。まあ、そんな話はおいといて、私がいちばん注目するのは、明治後期において教科教育学の原型がみられるという指摘です。明治20年の白井毅『学級教授術』が最初期の原型であるというようにも読みとれますが、この本は教授法研究史のなかでは、開発主義教授法の伝統に位置するものだと思います。ここではそれ以降の明治二十年代のものをすっとばして、明治32年の樋口勘治郎『統合主義新教授法』や森岡常蔵『小学校教授法』などを挙げています。はてこれでいいのでしょうか? 樋口や森岡の研究は、明治二十年代後半の混沌としたヘルバルト主義教授法研究を批判して、さらにすすんでヘルバルト主義教授法を研究したものじゃあなかったっけ。明治二十年代後半のものをすっとばしては、白井と樋口や森岡らの研究は連続したものとしては捉えられないのでは? 実は、次の論文のエッセンスとして、この辺に注目してるんです。
最近、私がよく居る第二資料室がやけに寒い。備え付けの暖房機は期限がきて使えなくなってしまったし、かといってストーブをつけるのも大げさな感じ。一人で暖房使うのも、大学の光熱費節約運動(?)にケンカを売っているようだしなあ(笑)。
今日は早くないし遅くもない時間の午前中に登校。まず、広島大学文書館に差し上げる資料群を移動する仕事(めちゃめちゃ重い段ボールを持っていく仕事)を先輩と一緒にこなし、その後は教育学講座付けのコピーカードを使い切るため、戦後出版された各府県市教育史に載っている教育会の論文をコピー(必要だし)。それから、東京高等師範学校の研究活動を調べるために鈴木博雄『東京教育大学百年史』や『茗渓会百年史』を借りてくる。ううむ、高等教育研究センターにもなかったけど、筑波大学って年史作ってないんですか? 東京高師の研究活動の自己評価が知りたかったんだけどなあ。その後、以下の論文を読みました。
奥田真丈「教育改革の理念と構想」(奥田真丈監修『教科教育百年史』第一部「序論」第一章、建帛社、1985年)を読みました。構成は、「一 国家・社会の発展と教育の改革」「二 第一期の教育改革」「三 第二期の教育改革」「四 第三期の教育改革」です。第一節では、教育の変化と社会の変化を対応させ、初等段階を中心に学校制度改革を叙述するという本章のねらいが示されています。二~四の時期区分である第一期(明治元年明治維新~昭和20年WW2敗戦)・第二期(昭和21年占領期~昭和45年)・第三期(昭和45年~昭和60年)は、昭和46年の中央教育審議会答申前文における時期区分に依拠しています。この章は、教科教育の基礎である近代学校制度の概要を示す形になっていると思われます。内容を見ると、第一期は学制・教育令・小学校令および教則関係の法令の制定・改正の叙述、第二期・第三期は教育視察団報告書・教育基本法・学校教育法・各種審議会答申等・委員会答申等の叙述(初等に限らず)。変化した学校制度の結果だけ簡潔に知るには、良い概説だと思います。ただ、なぜ変化したのかという原因はほとんど不明だし(本論に書いているんでしょうが…)、戦後については答申が述べている原因のみなので不満が残ります。そもそも第一期78年間・第二期25年間・第三期15年間という時期区分とくに第二期・第三期の区分は、政治的な処理を経て成立した中央教育審議会答申に基づいたものですから、学術的な検討による区分ではないですし、内容的にもそんなに劇的に変化しているとは思えません。「うーん、これでいいかなあ…」と疑問が残ります。そもそも単純に第一期に比べて短すぎますよねぇ。
佐藤照雄「教科教育についての課題の提起」(同上、第一部第二章)も読みました。構成は、「一 教科教育学成立への動き」「二 教科教育学の前史」「三 教科教育の課題の提起」です。第一節は三項立てです。「(一)『教科教育学』の教育全体における位置」では、教科教育学の理論が、実践から抽出し実践を方向付けるものとして実践に帰る性格をもつ理論であることが指示されました。「(二)『教科教育学』成立への経過」では、昭和三十年代から五十年代にかけて、教員養成における理論と実践の統合の問題と、教員養成大学・学部の存在理由の両側面から、教科教育学が意識化されてきたと指摘しています。「(三)教育実践の側からの課題意識-教科教育学の基盤」では、教科教育学は、教師の側からの教育目標・教科設定・教科内容構成・教科編成と、生徒の側からの学習を通した能力育成とを見通したカリキュラムを研究対象とするとしました。第二節は二項立てです。「(一)近代教育における教科教育-教授学の展開」では、明治期から昭和戦前期までの教育方法研究の発達の概要と、知識の伝授つまり教授中心主義の学習観・教授段階方式について触れています。「(二)明治後半期の教授学の確立」では、白井毅『学級教授術』(明治20年刊)と明治30年代の教授法書を取り上げ、知識付与と能力開発、学習主体者としての生徒観、教科統合の思想をもって教科教育に関する学習理論の原型としました。第三節は三項立てです。「(一)教科教育の科学的研究-『教科教育学』への課題」では、教育理論と教育実践との統合、教科教育法研究と教材研究における課題があげられています。「(二)学習の変革-教科教育の構造検討を通して」では、教科教育は、教科内容伝授ではなく、児童生徒の主体的学習活動を中心に考える構造となる必要があるとしています。「(三)現代の課題に応じた教科教育」では、教科教育については、既存の教科内容の学習指導といった技術論だけではなく、教科全体の学習活動を通して人間性と世界認識と学力を身につける具体策まで研究されねばならないと提案しています。以上、一節一項ずつ要約してきました。
とくに第一部第二章を読んで、思ったこと。とりあえず教科教育学という学問は、学校教育における教科教育における児童生徒の学習活動という限定された領域において、研究・実践両面における教育理論と教育実践の統合をめざす学問であるといえましょうか。なお、本文中では教育の機能を知識付与と能力形成の二つに分けて、教科教育においては能力形成の重視を提唱していますが、それを強調しすぎて、知識付与の位置づけが不明になってしまっているように思います。まあ、そんな話はおいといて、私がいちばん注目するのは、明治後期において教科教育学の原型がみられるという指摘です。明治20年の白井毅『学級教授術』が最初期の原型であるというようにも読みとれますが、この本は教授法研究史のなかでは、開発主義教授法の伝統に位置するものだと思います。ここではそれ以降の明治二十年代のものをすっとばして、明治32年の樋口勘治郎『統合主義新教授法』や森岡常蔵『小学校教授法』などを挙げています。はてこれでいいのでしょうか? 樋口や森岡の研究は、明治二十年代後半の混沌としたヘルバルト主義教授法研究を批判して、さらにすすんでヘルバルト主義教授法を研究したものじゃあなかったっけ。明治二十年代後半のものをすっとばしては、白井と樋口や森岡らの研究は連続したものとしては捉えられないのでは? 実は、次の論文のエッセンスとして、この辺に注目してるんです。
最近、私がよく居る第二資料室がやけに寒い。備え付けの暖房機は期限がきて使えなくなってしまったし、かといってストーブをつけるのも大げさな感じ。一人で暖房使うのも、大学の光熱費節約運動(?)にケンカを売っているようだしなあ(笑)。
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