明治前期の国民教育制度の創設過程は、かなり複雑です。昨年、貝塚茂樹・広岡義之編『教育の歴史と思想』(ミネルヴァ書房、2020年)の第8章で、その流れをまとめることを試みました。そこでの記述は文字数の関係でかなりシンプルな文章で活字化したのですが、少し説明不足の感があります。もう少し触れておきたかったことを加えた論旨が以下のものです(文字数度外視で執筆したときの原稿)。
最近は自由民権期の教育史を研究する人も少なくなってきましたが、このような教育史像を前提とすると、まだまだ研究課題が残っていると思います。とくに府県会の教育費論争は、1960・70年代の戦後教育学・国民権運動の枠組みを超えて、新しい枠組みで再検討すべきではないでしょうか。そこから明らかになることは、文部省や政府の教育事務形成過程や府県の就学告諭、大小の学事会議、教育会の研究にも刺激を与えるだろうと思っています。
とくに1880年代ごろまでは、「教育」や「普通教育」という概念が指す意味は、論争的なものでした。これまでの教育制度を相対化して時代に応じて新しく教育制度を創っていくため、または従来のやり方に必要以上にとらわれずに新しいやり方に真剣に向き合っていくためには、こういう歴史的事実こそが役立つと思います。
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(2)「教育」とは何かをめぐって
19世紀、欧米列強は自らを文明国と位置づけて、他国を「未開」・「野蛮」と見なして序列化・植民地化した。明治初期の日本は、欧米列強の圧力にさらされて独立の危機にあった。このような世界情勢における国民の重要性に気づいた人物の一人に、福沢諭吉がいる。福沢は、自国独立を目的とし、文明を方法とし、文明を人の智徳の進歩に見出した(福沢1995)。また、「一身独立して一国独立する」ので、その国のすべての人民が貴賤貧富上下の別なくみな学問(人間普通日用に近い実学)をして、それぞれ家業を営んで独立し、才徳を備えて自由になり、その国を自分のこととして引き受けるようになることを求めた(福沢1942)。福沢にとって、不安定な世界情勢のなかで日本が独立するには、すべての人が実学に取り組み、智徳をみがいて国民になる場が必要であった。福沢の問題意識を著した『学問のすゝめ』(1872~76)などは、当時のベストセラーとなって全国に広がった。
文部省は国民教育の場としての学校をつくろうとしたが、政府内においても学校のあり方をめぐって議論が絶えなかった。1874(明治7)年に文部大輔になって文部当局の中心人物であった田中不二麿は、学術や学校を指す「学」(learning、study、science、school等)と、教えるだけでなく育てることも含む「教育」(education)との違いを明確に意識して、学校だけでなく書籍館(図書館)、博物館、幼稚園、家庭の教育などをも対象とする「教育事務」または「教育行政」を打ち立てようとしていた(湯川2017)。政府内には、中学校以上において専門的知識を段階的に学ぶことを重視する「人材養成」に重点を置く人々も多かったが、田中をはじめとする文部省は、小学校段階において貴賤・貧富・宗派・男女の別を越えて人民に共通の教育を提供する「普通教育」に重点を置いた。学校をめぐって人材養成路線と普通教育路線の議論は続いたが、1879(明治12)年、政府は普通教育のための小学校を全国に整備するために、いったん学制を廃止し、教育令(第一次教育令)を公布した。
第一次教育令は、小学校を「普通ノ教育ヲ児童ニ授クル所」とし、中学校を「高等ナル普通学科ヲ授クル所」と定義した。このうちの「普通」という概念が、学校のあり方をめぐる議論を引き起こした。例えば、1880(明治13)年の東京府会では、県立中学・師範学校および郡小学補助の予算審議が行われた。人材育成を重視する民権派の議員たちは、「普通」のための公立学校の効果を疑問視し、寺子屋や私塾などの旧教育施設の信頼感を背景にして人材育成は私立学校で十分できると断じて、普通教育関係の予算を全額削除する決議を行った(白石2017)。同年の福島県会では、上級学校への階梯として優秀な少数の生徒を教育しようと県立中学を推す県当局と、人民を目覚めさせるために運営を人民の協議に任せるべきと考えて郡立中学を推す民権派議員との間で議論が起こった(黒崎1980)。自由民権運動は、1874(明治7)年以来、様々な結社を設けて組織的な学習を行った。その学習活動は、おおむね、西洋の近代的思想をただの知識としてではなく自主独立の人民になるために学び、演説・討論を通して学んだ知識を活用し、気力を興奮させて精神を発達させようとするものであった(片桐1990)。1880年前後の府県会における学校論争は、明治初年に入ってもなお活動を続けていた旧教育施設や1870年代に勃興した民権運動の学習活動などの経験を根拠とする地域住民や民権派などの教育観と、人材養成に止まらずに欧米にならって国民教育・普通教育を推し進めようとする文部省や府県当局の教育観とが、公然とぶつかり合った事例と見るべきだろう。
以上のように、明治期の教育は極めて複雑な様相をもって出発した。国民教育を始めようとする試みは、まず人材養成の要求や明治初年の地域における教育改革、民権運動の学習活動などを根拠とした異質の教育観と衝突した。明治期における国民教育の始動は容易ではなかったのである。
参考文献
・片桐芳雄『自由民権期教育史研究―近代公教育と民衆』東京大学出版会、1990年。
・黒崎勲『公教育費の研究』青木書店、1980年。
・白石崇人『明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良―資質向上への指導的教員の動員』溪水社、2017年。
・福沢諭吉『学問のすゝめ』岩波書店、1942年(初出1872~1876)。
・福沢諭吉『文明論之概略』岩波書店、1995年(初出1875)。
・湯川文彦『立法と事務の明治維新―官民共治の構想と展開』東京大学出版会、2017年。
※ 上記原稿は白石崇人『教育の理論④教育の制度と経営―社会の中の教育―』広島文教大学(私家版)、初版2020年・改訂版2021年、20~21頁に掲載。この原稿を省略して簡潔にしたものが、白石崇人「国民教育の始動―明治期の教育」貝塚茂樹・広岡義之編『教育の歴史と思想』ミネルヴァ書房、2020年、117~118頁です。
最近は自由民権期の教育史を研究する人も少なくなってきましたが、このような教育史像を前提とすると、まだまだ研究課題が残っていると思います。とくに府県会の教育費論争は、1960・70年代の戦後教育学・国民権運動の枠組みを超えて、新しい枠組みで再検討すべきではないでしょうか。そこから明らかになることは、文部省や政府の教育事務形成過程や府県の就学告諭、大小の学事会議、教育会の研究にも刺激を与えるだろうと思っています。
とくに1880年代ごろまでは、「教育」や「普通教育」という概念が指す意味は、論争的なものでした。これまでの教育制度を相対化して時代に応じて新しく教育制度を創っていくため、または従来のやり方に必要以上にとらわれずに新しいやり方に真剣に向き合っていくためには、こういう歴史的事実こそが役立つと思います。
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(2)「教育」とは何かをめぐって
19世紀、欧米列強は自らを文明国と位置づけて、他国を「未開」・「野蛮」と見なして序列化・植民地化した。明治初期の日本は、欧米列強の圧力にさらされて独立の危機にあった。このような世界情勢における国民の重要性に気づいた人物の一人に、福沢諭吉がいる。福沢は、自国独立を目的とし、文明を方法とし、文明を人の智徳の進歩に見出した(福沢1995)。また、「一身独立して一国独立する」ので、その国のすべての人民が貴賤貧富上下の別なくみな学問(人間普通日用に近い実学)をして、それぞれ家業を営んで独立し、才徳を備えて自由になり、その国を自分のこととして引き受けるようになることを求めた(福沢1942)。福沢にとって、不安定な世界情勢のなかで日本が独立するには、すべての人が実学に取り組み、智徳をみがいて国民になる場が必要であった。福沢の問題意識を著した『学問のすゝめ』(1872~76)などは、当時のベストセラーとなって全国に広がった。
文部省は国民教育の場としての学校をつくろうとしたが、政府内においても学校のあり方をめぐって議論が絶えなかった。1874(明治7)年に文部大輔になって文部当局の中心人物であった田中不二麿は、学術や学校を指す「学」(learning、study、science、school等)と、教えるだけでなく育てることも含む「教育」(education)との違いを明確に意識して、学校だけでなく書籍館(図書館)、博物館、幼稚園、家庭の教育などをも対象とする「教育事務」または「教育行政」を打ち立てようとしていた(湯川2017)。政府内には、中学校以上において専門的知識を段階的に学ぶことを重視する「人材養成」に重点を置く人々も多かったが、田中をはじめとする文部省は、小学校段階において貴賤・貧富・宗派・男女の別を越えて人民に共通の教育を提供する「普通教育」に重点を置いた。学校をめぐって人材養成路線と普通教育路線の議論は続いたが、1879(明治12)年、政府は普通教育のための小学校を全国に整備するために、いったん学制を廃止し、教育令(第一次教育令)を公布した。
第一次教育令は、小学校を「普通ノ教育ヲ児童ニ授クル所」とし、中学校を「高等ナル普通学科ヲ授クル所」と定義した。このうちの「普通」という概念が、学校のあり方をめぐる議論を引き起こした。例えば、1880(明治13)年の東京府会では、県立中学・師範学校および郡小学補助の予算審議が行われた。人材育成を重視する民権派の議員たちは、「普通」のための公立学校の効果を疑問視し、寺子屋や私塾などの旧教育施設の信頼感を背景にして人材育成は私立学校で十分できると断じて、普通教育関係の予算を全額削除する決議を行った(白石2017)。同年の福島県会では、上級学校への階梯として優秀な少数の生徒を教育しようと県立中学を推す県当局と、人民を目覚めさせるために運営を人民の協議に任せるべきと考えて郡立中学を推す民権派議員との間で議論が起こった(黒崎1980)。自由民権運動は、1874(明治7)年以来、様々な結社を設けて組織的な学習を行った。その学習活動は、おおむね、西洋の近代的思想をただの知識としてではなく自主独立の人民になるために学び、演説・討論を通して学んだ知識を活用し、気力を興奮させて精神を発達させようとするものであった(片桐1990)。1880年前後の府県会における学校論争は、明治初年に入ってもなお活動を続けていた旧教育施設や1870年代に勃興した民権運動の学習活動などの経験を根拠とする地域住民や民権派などの教育観と、人材養成に止まらずに欧米にならって国民教育・普通教育を推し進めようとする文部省や府県当局の教育観とが、公然とぶつかり合った事例と見るべきだろう。
以上のように、明治期の教育は極めて複雑な様相をもって出発した。国民教育を始めようとする試みは、まず人材養成の要求や明治初年の地域における教育改革、民権運動の学習活動などを根拠とした異質の教育観と衝突した。明治期における国民教育の始動は容易ではなかったのである。
参考文献
・片桐芳雄『自由民権期教育史研究―近代公教育と民衆』東京大学出版会、1990年。
・黒崎勲『公教育費の研究』青木書店、1980年。
・白石崇人『明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良―資質向上への指導的教員の動員』溪水社、2017年。
・福沢諭吉『学問のすゝめ』岩波書店、1942年(初出1872~1876)。
・福沢諭吉『文明論之概略』岩波書店、1995年(初出1875)。
・湯川文彦『立法と事務の明治維新―官民共治の構想と展開』東京大学出版会、2017年。
※ 上記原稿は白石崇人『教育の理論④教育の制度と経営―社会の中の教育―』広島文教大学(私家版)、初版2020年・改訂版2021年、20~21頁に掲載。この原稿を省略して簡潔にしたものが、白石崇人「国民教育の始動―明治期の教育」貝塚茂樹・広岡義之編『教育の歴史と思想』ミネルヴァ書房、2020年、117~118頁です。
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