東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

京都市 幕末・明治維新に思いをはせる旅(4/8) 池田屋,近江屋

2015年10月12日 | 歴史探訪他ウォーキング

訪れた京都市内の幕末・明治維新に関わる史跡などです。それぞれをクリックしてください。
 1.寺田屋,伏見    2.三十三間堂,南禅寺  3.水路閣,吉田松陰詩碑
 4.池田屋,近江屋  5.壬生屯所跡,蛤御門  6.京都霊山護国神社
 7.霊山歴史館     8.佐久間象山遭難碑

 吉田松陰の詩碑を見た後、平安神宮から京都市役所に向けて歩きました。ところで、京都市街は街路樹が少ないように思いました。神社仏閣周辺はは緑が多いのですが、市街はあまり緑が多くありません。大阪もそうですが、昔の都市は街路樹や花畑の考え方が少なかったのでしょうか。

   平安神宮の街路樹        こんな所に有隣館       がま口のお店
  

 市役所に向けて通りを歩いていると、「有隣館」と書かれた変わった建物を見つけました。八角形のお堂が建物の上にあるのです。私は「有隣」と言うと、幕末志士の一人である富永有隣を一番に思い出します。その建物に興味を持った私は、その建物に行ってみました。たまたま門横に立っている人がいました。お話をうかがうと、今日は休館日とのことでした。この「有隣館」は、中国古美術を展示しているそうです。いつか京都に再来する時があれば、訪れようと思います。

                まつひろ内で、がま口の部品を嬉しそうに見る家内


 この有隣館に行って分かったことは、「有隣」は論語の一説「徳不孤必有隣」から取ったことです。今、田布施町郷土館で「富永有隣と明治維新に関わる人達」の展示会をしていますが、富永有隣が愛読していた論語の一部を展示しています。おそらく、彼は論語などの漢詩に通じていたために、自らを富永有隣と称するようになったのではないでしょうか。

土佐藩の武市半平太の居跡     佐久間象山の居跡        桂小五郎の銅像
  

 論語「徳不孤必有隣」の意味は、「徳のある人の周りには、その徳を慕って人が集まる」との意味だそうです。他にも有隣を称している幕末の人がいました。例えば、明倫館で水戸学を教えた笠間藩(茨城県)加藤有隣です。彼は高杉晋作と交流があり、長州藩に招聘されたとのこと。

幕末志士が襲われた池田屋    象山と大村の遭難碑       坂本竜馬遭難碑
  

 さて、有隣館を過ぎて、家内が行きたかった店「まつひろ」に行きました。このお店は、がま口だけを扱っているお店です。色とりどりの大小さまざまな、がま口を売られていました。また、がま口を作る人のための材料も売られていました。この頃、少し歩き疲れたため喫茶店に入って休みました。
 続いて、土佐藩士の武市半平太の居跡や佐久間象山の居跡に行きました。武市半平太は土佐藩でも下士出身ですが、土佐勤王等を創設し幕末に活躍した一人でした。坂本竜馬とも親交がありました。

             三条名店街で色々なお店を散策、お土産を購入


 続いて、桂小五郎の銅像を見ました。そして、長州藩士などの幕末志士が新撰組に襲われた池田屋に向かいました。襲われて亡くなった志士達の名前が書かれていました。その後、佐久間象山と大村益次郎が襲われた場所に行きました。そして、坂本竜馬が襲われた近江屋にも行きました。この付近は幕末志士の史跡がたくさんあります。

 昼食を京料理「一の傳」で   最初の前菜盛り合わせ  京料理を堪能する家内と息子
  

 坂本竜馬や中岡新太郎が襲撃された近江屋付近はとても賑やかでした。その後しばらく、三条名店街で色々なお店を楽しみました。お土産を買うなど時間をつぶした後、京料理の「一の傳」に行きました。そして、個室でコース料理をいただきました。特に美味しかったのは銀だらの蔵味噌焼きでした。京料理を堪能すると、次に新撰組が駐屯していた壬生屯所跡に向かいました。

                 今回訪れた京都の町並みとコース


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