東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 麻郷 八海の渡し船と初代八海橋

2014年06月21日 | ふるさと

 明治時代に国木田独歩が書いた小説帰去来に出てくる、田布路木から高塔までの道のりを調査したことがあります。その後、かつてあった渡し舟や初代八海橋などについてさらに知ることができました。
 さて、今の八海橋が三代目の橋であることを知っている人は、麻郷の方でもわずかになりました。今、この三代目の八海橋の上流に、半分朽ち落ちた二代目八海橋があります。三代目八海橋の下流にさらに古い石橋(初代八海橋)があります。そして、さらにその昔、その初代八海橋が無かった頃(江戸時代と明治時代初期)に対岸を結ぶ渡船場がありました。

           二代目八海橋、後ろは高塔山  昭和30年頃


 その渡船の仕事をしていた家の屋号は「わたしば」と言い、その渡し船を生業にしていた家(現加藤家)がありました。加藤家の曾祖母の時代に渡し船と駄菓子屋を営んでいたそうです。そして、渡し船は伝馬船で、渡りたい人が来ると舟を出していたそうです。架橋された後もしばらく、船が流れないようにロープを結びつけておく棒が建っていたとのことです。

 この初代八海橋(石橋)の写真が八海公会堂に展示されています。この初代八海橋はキジヤ台風(1950)とルース台風(1951)で倒壊したとのことです。その頃すでに二代目八海橋ができていたため、初代八海橋は修復されず廃棄されます。この倒壊した初代八海橋の残骸の一部が今、八海地区の方々の庭石の一部として使われているとのことです。なお、初代八海橋を渡った三新化学側はバラス置き場となっていて、近くに一本松と呼ばれる大きな松が生えていたとのことです。この松の幹には穴が開いており、ふくろうの巣があったそうです。当時この松の下にほいとが住んでいて、子供達は怖がっていたそうです。
 昭和13年頃のことです。平生女学校(今の熊毛南高等学校)に通っていた鳥越の井上やすこ(又はやすえ)さんが、この初代八海橋を渡り終えた直後に、ドーンと言う大きな音がして橋の一部が倒壊したそうです。その女学生(存命ならば91歳とのこと)が無事だったので、みんな安堵したそうです。

      初代八海橋と一本松              八海公会堂前のお地蔵様
 

 ところで、この初代八海橋の袂に一体のお地蔵様が安置されていました。最初は八海橋袂の下流側にあったそうですが、いつしか上流側に置かれたとのことです。そして、今から10年ほど前、高潮対策のための堤防工事時に今の八海公会堂前に置かれ今に至っています。
 なお、このお地蔵様の右隣に小さなお地蔵様が置かれています。この小さなお地蔵様は、明治時代八海地区に住んでいた早川龍之介と呼ばれる子供が初代八海橋袂で泳いでいたところ、足に固いものが当たったそうです。その固いものを掘り上げたらこの小さなお地蔵様だったそうです。
 このお地蔵様を観察すると、割れたお地蔵様の上部のように見えます。なぜ割れたのか、なぜ初代八海橋の袂に捨てられた(落ちた)のか不思議です。下部がまだ八海の底に眠っていると思われます。もしかして、今のお地蔵様が元々置かれていた初代八海橋袂に置かれていて、それが誤って海に落ちたものではないでしょうか、謎です。

 毎年8月裏盆に、八海地区でこのお地蔵様を祀る催しがあります。参加されていた方に聞くと、天保8年(1837年)にお地蔵様が初代八海袂に置かれたと代々言い伝えられているとのことです。天保8年に石橋が作られたとは思えないので、渡し船が開かれた頃に作られたようにも思われますが不明です。石橋の前に木造の橋があったのかなど、知っている方はもういません。なお、このお地蔵様を祀っている方は千坊山光福寺の住職です。

               お地蔵様を祀っている千坊山光福寺のご住職
 

 なお、初代八海橋から上流500m位の場所に、今は無き人島橋がありました。その橋は、架橋年代が分かっています。この橋は、最初文化9年1812年に架橋され、昭和2年に再架橋されました。それぞれ石碑が立っています。なお、昭和30年に改修されたとのことです。昭和30年に改修工事で、それまでの人島橋に比べて橋脚がだいぶ高く立派な橋になったそうです。しかし、10年後には壊れて渡れなくなりました。

                 人島橋、右上は石城山 昭和40年頃


  江戸時代、人島橋付近が西浜などより先行して開作されたたたため、人島橋が架橋されたのではないでしょうか。続いて平生の西浜付近が開作され、さらに新市に町ができた頃に、八海に渡し船ができたのではないでしょうか。その後交通量が増えて、渡し船でさばききれなくなり、初代八海橋が架橋されたのではないかと思われます。

 さて、この初代八海橋の橋脚構造を写真で見る限り、柳井の伊保庄に残っている旭橋にとてもよく似ています。旭橋は平成24年時点で歩いてだけは渡ることができました。しかし今、平成25年には通行不可となり倒壊するのを待つだけです。

     初代八海橋に構造がとても似ている柳井伊保庄の旭橋、現在通行不可


 ところで、初代八海橋と対になるように三新化学側に「こくぼ橋」(漢字で小久保か小窪かは不明、ここでは小久保とする)がまだ残っています。初代八海橋が倒壊後何十年も誰も渡らなかったため、橋かどうかわからないほど雑草で覆われています。その草をかき分けると、低い橋の手すりがあります。なお、小久保橋近くに中川橋があったそうですが、壊されたのか埋められているようです。今となっては分かりません。初代八海橋を渡った人は、小久保橋を渡り、中川橋を渡って平生方面に行ったとのことです。

       草に覆われた小久保橋               小久保橋袂そばの御旅所
 

 その小久保橋の袂近くに、御旅所(おたびしょ)があります。この御旅所には、沼八幡宮からやって来たおみこしが置かれるとのことです。この御旅所は、この付近が開作された頃に置かれたのでしょうか、又は塩田に関係していたものでしょうか。この御旅所の周りは石台で囲まれており、端の四か所に窪みがあります。柱状の物が建っていたか、お祓い用の縄を張った竹竿を立てたようです。かつては屋根があったのかも知れません。
 なお去年訪れた時、この御旅所を囲むように先端を縄でつながれた朽ちた竹竿2本が倒れていました。お祓いか何かがあったような形跡である。今でもおみこしか何かがこの御旅所に来るようです。

 御旅所から10m位平生側に行った所に、お地蔵様があります。お地蔵様の横に文字が刻まれていますので、その文字を読み取れば御旅所との関係が分かるかも知れません。なお、ブロックに囲まれているためその文字を読むことができません。なお昭和の初め、八海地区の子供達は肝試しのため真夜中に初代八海橋を渡ってこのお地蔵様まで行ったそうです。このお地蔵様のゆうれいが出るとのうわさがあったそうです。

                      御旅所近くの地蔵様
 

 なお、このお地蔵様は、今は八海公会堂前に置かれている初代八海橋袂のお地蔵様に大きさなどがよく似ています。何か関連があるのかも知れません。この付近が開作された頃に八海の渡船場に一つ、小久保橋に一つお地蔵様が作られたのではないかと思われます。
 
下図は、八海地区の昭和50年頃の航空写真です。

   1:二代目八海橋 2:三代目八海橋 3:初代八海橋と渡し船 4:八海公会堂
        5:お地蔵様6:小久保橋 7:中川橋 8:御旅所 9:お地蔵様
      10:八海天神 11:かつての高塔山の峠 12:高塔山 13:一本松

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