これまで何度か銭壺山に登ったことがあります。その話を友達にすると行ってみたいとのこと。そこで久しぶりに銭壺山に登りました。天気予報では午前中曇りで午後回復との予報でした。ところが、とんでも天気でした。頂上に着く頃から雨が降り始めて頂上は暴風雨でした。
東屋で昼食休憩をとろうとしたのですが、袋やシートが吹き飛ぶような横殴りの暴風雨でした。座るどころではありません。暗黒の霧の中、景色はありません。そのため、天狗堂に引き返して休憩をしましたが、そのうち雷が落ち始めました。びくびくしながらの下山でした。こんな悪天候は超久しぶりでした。
東屋は暴風雨のため、天狗堂に避難して昼食休憩
思い返してみると、鳩子の滝のお地蔵様に着いた頃すでに霧が立ち込めていました。お地蔵様に安全を祈願したため怪我が無くて済みました。倒木だらけの竹林を抜けた時、足を滑らせて左足が小川に水没しました。この時に引き返せば良かったかも知れません。雨具を着ていたのですが、頂上では吹き上げる雨が首などから入ったようです。汗も加わってだいぶ濡れてしまいました。
鳩子の滝近くの棚田 霧に浮かぶお地蔵様 水量が多い鳩子の滝
登りは落葉が湿っているだけで滑る事はありませんでした。ところが、雨が強くなった午後は落葉の下が濡れていました。落葉に足を置くとツルリと滑ってしまうのです。何度も転んでしまいお尻や背中や肩は泥だらけです。おまけに増水した川に足を踏み入れざるを得ませんでした。
霧と大風と雨に包まれた東屋 何度も転んでしまった下り坂
鳩子の滝のお地蔵様に着くと、やっと安心しました。そこからは車が通るような歩きやすい道です。しかし山に何度も雷が落ちるので、その光や音にびくびくしながら急いで歩きました。そして、なんとかふれあいどころ437に着きました。その頃、あまりに寒いので足がつってしまいました。急いで家に帰ると、すぐに風呂を沸かして暖まりました。こんなに気持ち良いお風呂は久しぶりでした。生き返りました。
雨風雷の中を歩いた日積~銭壺山コース
我家の樹の伐採が終盤にさしかかりました。この調子ではあと一日で終わりそうです。私はほぼ毎日仕事などで家を出ます。その時に作業する方々に声をかけつつ、伐採の進捗を確認しています。今後は伐採した樹を細かく切って集積するだけです。そして、樹の枝葉が落ちた溝をさらうだけです。
伐採した樹の枝葉をいったん畑の傍に集積
残ったカイズカイブキは10本位です。この樹を全て切り倒せば伐採は終わりです。あとは伐採したカイズカイブキを1m位に細かく切断して捨て場に集積することになります。
しかしながら、数十年経って樹がこんなに茂ってしまうものだと改めて感じ入りました。1~3年の間は樹の成長に気が付きません。しかし、今回のように伐採してみると樹の成長の威力には驚きます。今後はもう樹を植えないつもりです。
伐採中の樹の隙間から家を見る 樹が伐採されて広く日が差す
田布施町郷土館では近日中に、元宰相岸信介の書を展示する予定です。一番の目玉は石城山の石碑に刻まれている奇兵隊の書です。石碑に刻まれた字の元になった半紙に書かれた書です。
それに関連して、8年前に周防大島の文殊堂訪れた時、確か岸信介か佐藤栄作の字が刻まれていた石碑があったような記憶がおぼろげながらありました。それを確かめるため文殊堂に行ってみました。
周防大島の文殊山から柳井市方面を見下ろして
文殊堂に行くためには曲がりくねった険しい谷沿いの道を進みます。険しい道を進んていると、なんと倒れた竹が道を通せんぼしていました。仕方なく車を降りてその倒れた竹を取り除きました。竹ではなく樹木だったら取り除けたか分かりません。その後、文殊堂近くにある駐車場に車を止めました。そして車を降りて文殊堂への石階段を登りました。
文殊堂への石階段 石碑に岸信介の書 文殊山途中の滝
文殊堂の近くに苔むした石碑がありました。それをよく確認すると「内閣総理大臣 岸信介 文殊・・・昭和三十三年・・・・」と刻んでありました。確かめることができたので文殊堂に来て良かったです。
その後、文珠山に登ってみました。30分位急登を歩くと山頂に着きました。柳井方面の眺めがとても良かったです。しばらく休憩した後、舗装道路を歩きながら駐車場まで下ります。駐車場から道の駅に行って食事をとり、ミカンなどを買って帰りました。
下る途中に小さな滝 ウォーキングした文殊堂周辺
このところの暖かさでミツバチの巣箱が賑やかになってきました。数日前に雄バチと思われる繭の蓋が巣門前でたくさんありました。そして今日、特徴的な姿の雄バチがみられるようになりました。雄バチの目は大きく黒いのです。また全体時に働きバチよりも大きく、色も黒っぽいです。そろそろ分蜂が始まるようです。
巣門の周りをうろうろしている雄バチ
以前周防大島の大積・小積の史跡を見に行った時、昭和の始めに大積・小積の中学生は佐連山を越えて外入に通学していたとのことを聞きました。その通学路はおよそ大積・小積~佐連山~地家室~外入です。
私の想像では、佐連山の頂上から地家室側を見下ろすと沖家室があり、その向こうに平郡などの島々が遠望できるのではないかと思いました。その佐連山に登ることにしました。しかし、子供達が通った山道は大自然に返っており探せませんでした。残念!
佐連山に向かう道すがら、沖家室方面を見下ろして
ところで、佐連山に向かう前に外内で腹ごしらえをしました。外内の湾内を見渡す海岸傍に変わった料理店(O-KUN)がありました。カンボジア料理を出すお店です。どんな料理なのか寄ってみました。料理についてよく知らないのでカンボジア風ラーメンと同チャーハンを頼みました。
外内湾に干されたひじき カンボジア料理店 ラーメンとチャーハン
ちなみにラーメンの上にはパクチーと呼ばれる野菜が乗っていました。そのパクチー名前は聞いたことがありますが初めて食べてみました。私の口にはあまり合いませんでした。セロリーのような味だったように思います。
外入が飼われている猫と山羊を訪問 佐連山への道が無くなる
ところで、カンボジア料理店で食事をした後、外入のある小屋を訪問しました。地域の方々が気軽に集まることができる小さな作業小屋です。その小屋に併設して山羊が飼われています。小屋におられた方に夕日がきれいな場所などのお話をお聞きしました。
佐連山を目指して歩き回ったた地家室周辺の山道
橿原神社からすぐの場所に竹細工をする方がいました。せっかくなので橿原神社についてお聞きしました。すると、昔は参道の端に古道があったのだが、その後車を通すために参道をぶつ切りするように車道が通ったとのことでした。車道を作るために古道や参道がぶつ切りにされる話をよく聞きます。ちなみに、作っている竹細工は里の厨に出しているとのことでした。その後、立野方面に向かって道を進みました。
正義霊社の次に訪れた立野神社
橿原神社から30分位歩くと正義霊社に着きました。半ば壊れた階段を登ると正義霊社のお堂が見えてきました。前回来た時には霊社に入ることができたのですが、今回は立ち入り禁止になっていました。倒壊の恐れがあるのでしょうか。立ち入らないで遠目に霊社を見学しました。その後、霊社の下の段にある幕末期に活躍した清水家の墓地を見学しました。
立ち入り禁止の正義霊社 倒壊寸前の難波家家屋 難波家の顕彰碑
正義霊社を過ぎると立野神社に行きました。拝殿を見終わると難波家の家屋に行きました。以前来た時よりもさらに倒壊寸前になっていました。当然ながら立ち入り禁止です。また、難波家脇に向山文庫の建物がありました。日本で最初期の図書館だったとのことです。しかし、この建物も倒壊の恐れがあるそうで図書は別の場所に避難しているそうです。この向山文庫脇で昼食休憩をしました。
倒壊が近い?向山文庫の建物 JR島田駅に向かって歩く
向山文庫を過ぎると、難波家の顕彰石碑を見学しました。そして、その傍にある大師堂(平和三十二番札所)を訪れました。そして、近くに安置されているお地蔵様を見ました。地元の方がお守りしているお地蔵様です。
その後、JR島田駅に向かって歩きました。天気が悪くなり風も吹いてた来たためやや速足で歩きました。今回の下見史跡巡りに参加された方、お疲れ様でした。
岩田~島田の史跡巡りウォーキングの下見コース
来月3月の史跡巡りウォーキングの下見に行ってきました。JR岩田駅からJR島田駅まで歩いてその間にある史跡を巡るコースです。何年間前に一度逆コースを下見したことがあります。その時はコースを変えて本番ウォーキングになったように記憶しています。
午前中は天気も良く風も無かったため歩きやすかったです。しかし、午後からは曇り空になり寒くなりました。そのため昼食休憩後は急ぎ足で終点のJR島田駅まで歩きました。
才役大師堂を過ぎて橿原神社に向かう
さて、JR岩田駅を出発すると丸久でトイレに行きました。そして、1人は昼食と飲物を購入しました。次にJRの線路を跨いで才役大師堂に向かいました。この大師堂は防陽霊場第七十五番札所です。比較的小さなお堂ですが、地元の方々が守っているようで綺麗に管理されていました。
スタートしたJR岩田駅 才役大師堂をお参り 才役大師堂のお地蔵様
才役大師堂を出ると橿原神社に向かって歩きました。神社まで軽い上り坂の舗装道路を歩きました。30分位歩くと道端にお地蔵様が安置されていました。お地蔵様があると言うことはこの道がかつての街道であることを示します。かつてはたくさんの人が行き来していたと思われます。そして、その道中にすぐ近くにある橿原神社にもお参りしたと思われます。道中の安寧を願って。
道端に安置されたお地蔵様 鳥居に鬼の足跡がある橿原神社
橿原神社の参道を道路が横切っています。その昔、自動車が通る舗装道路にした時に横切らずを得なかったようです。その参道の石鳥居に足跡のような窪みがあります。地元の方々にはそれが鬼の足跡と言い伝えられています。確かに足跡に見えなくもありません。
岩田~島田の史跡巡りウォーキングの下見コース
氷室岳の頂上で40分位でしょうか昼食兼休憩をとりました。風が吹かず天気が良かったためのんびり休むことができました。数年前に氷室岳に来たことがありますが、頂上周辺の樹木の背が今より低かったように思います。そのため、伊陸や祖生や玖珂方面がよく見えたように記憶しています。また、アンテナ設置工事をしていたように思います。当時を思い出しながら休憩しました。
下山中に歩きながら見下ろした柳井市伊陸方面
休憩が終わると来た道を降りました。軽自動車が通ることができる道なので横になって歩くことができます。小石に足を滑らせないように注意しながら歩きました。休憩時間をとらずに一気に下りました。1時間位でしょうか歩いていると奥畑の家々が見えてきました。
頂上に鎮座する祠 長いセメント階段 奥畑の棚田跡
奥畑の家の東側は谷になっており棚田の跡が連なっていました。数年前に氷室岳に来た時にはまだ田んぼは健在だったように思います。田んぼの草刈りだけはしているようでした。どこでもそうですが高齢化で田んぼをする人が少なくなってきているのでしょう。
奥畑の集落から氷室岳を振り返る 高山寺付近から見た氷室岳
12年前に始めた史跡巡りウォーキング、今は奇数月だけ実施しています。それだけ歩く機会が少なくなりました。そのため、それを補うように個人的に1人で歩いたり友達と歩くことがあります。低山登山と史跡を組み合わせたウォーキングです。歩き終わると心地良い疲れです。最近膝が痛くなることが増えました。いつまでウォーキングできるでしょうか。
柳井市伊陸の高山寺から氷室岳にかけて巡ったウォーキングルート
久し振りに柳井市伊陸の史跡巡りウォーキングに友達と行ってきました。歩いた地域は伊陸の高山寺から氷室岳間の史跡です。実質は氷室岳登山かも知れません。
まずは、高山寺を訪れました鎌倉時代に周防国鎮護寺として建てられたようでとても由緒ある寺です。庭に回ると氷室岳を富士山に見立てた庭が見事です。池や滝が乾いていましたが、水が流れていたならばもっと見ごたえがあるでしょう。その庭を見学し終わると氷室岳に向かって歩きました。
氷室岳頂上から見下ろした高照寺山や祖生方面
高山寺を過ぎて少し歩くと戸石川が見えてきました。その昔砥石が取れた川なのでしょうか。川底は枯草ばかりで目立ち石ころは見えませんでした。さらに歩くと奥畑の公民館が見えてきました。お堂と併設ではなかったかと思いました。今回は見学する時間がなく通り過ぎました。
庭を見学した高山寺 木漏れ日の林内を歩く パラグライダー基地
氷室岳とは面白い名前の山です。氷室とは冬にできた氷を夏に出荷するまえに貯蔵する蔵のことです。つまり氷を貯蔵する小屋のことです。かつては氷室があったのでしょうか。
頂上近くにパラグライダーの基地がありました。草が生い茂っていたので今は使われていないようです。パラグライダー基地から少し歩くと氷室岳頂上です。祖生や高照寺山が眺望できました。
柳井市伊陸の高山寺から氷室岳にかけて巡ったウォーキングルート
先日、約5年ぶりに石城山の神籠石を中心とした史跡巡りをしました。友達の一人が神籠石をより知りたいとのことで案内兼解説をしました。その友達は、石城山へは行ったことはあるが神籠石を全て回ったことが無いとのこと。まずは駐車場に車を止めて歩き始めました。石城山で一番高い高日峰(362m)に行きました。そこには祠があります。高日峰から降りると神籠石東水門に行きました。
神籠石は、戦国時代の石垣とは組み方が異なっています。かつては神域との境界を示す石垣、つまり神籠石と考えられていました。しかし、考古学的な調査の結果朝鮮式山城であることが分かっています。
石城山の苔むした神籠石の北水門にて
私が好きな場所は東水門と北水門がある神籠石です。共に高く積み上げられた石垣が見事です。今から千三百年位前に積まれた石、どのようにして積まれたのか謎です。この石城山の神籠石は完成を待たずに放置されました。未完成の理由は、朝鮮半島での戦いで倭と百済が負けた後、唐と新羅が攻めてくることが無くなったからだと言われています。元々この神籠石は、唐・新羅からの防御を目的として建築されたからだとか。
高日峰(362m)の祠 神籠石の東水門 神籠石の西水門付近
東水門、北水門、そして西水門を歩きました。途中に崩れた石垣が数か所ありました。また扉を開け閉めするための左右の柱の軸を置く沓石を見ました。以前柳井市で神籠石の解説を聞きに行ったことがあります。その時、石城山の神籠石が未完成だった証拠として沓石の説明がありました。沓石には本来扉の軸を置く穴があるはずなのが無いことがその証拠とのこと。石城山の神籠石が完成していればもしかして日本書記に記載されたかも知れません。
東屋跡から周防灘を望む 土砂に埋没した南水門
神籠石を案内して唯一残念だったのは、神籠石の中で一番立派で大きかった南水門が土砂で埋没していたことです。60年位前私が中学生だった頃、南水門の穴に入ったことがあります。左右に水流を誘導する岩が置かれていました。流水が多かったのでしょう。こうして神籠石について歴史解説しながら案内しました。お疲れさまでした。
石城山の神籠石を回りながら案内したルート
大岩の場所で30分位でしょうか、昼食兼休憩をとりました。日差しが柔らかくしかも風も吹かなかったため、大岩を背後にして穏やかに過ごせました。休憩をとりながら皆さんと近況について談笑しました。私の同級生が多く参加していたため、年齢的にどうしても親の介護や健康寿命などの話題が多くなります。健康寿命に達している私としては、こうして元気に歩くことができしかも楽しく会話ができる仲間がいることに感謝しています。
大岩を背後にして談笑しながら昼食兼休憩
大岩での楽しい休憩が終わると、次の史跡に向かって歩きました。まず竹重地区の道路わきにあるお地蔵様を訪れました。以前訪れた時には背後に稲が植えてあったのに、今はその田んぼが地面になっていました。いずれ宅地になるのでしょうか。
続いて奈良地区に入り西法寺に行きました。このお寺は元々は庵だったようです。その昔尼さんでも住んでいたのかも知れません。南平和霊場六番箇所札所でしたので、かつては巡礼者が多かったに違いありません。そして、地元の方々がその巡礼者をもてなしたと思われます。
竹重地区のお地蔵様 奈良地区の西方寺 立ち寄った麻郷公民館
西法寺を参拝し終わると麻郷公民館に向かって歩きました。麻郷小学校が見え始めた時、同級生N君が焚火をしているのが見えました。少しの間立ち寄って談笑しました。
その後麻郷公民館に立ち寄り少しの間休憩を取りました。麻郷公民館からはひたすらスタート地点の交流館に向かって歩きました。一部を除いて歩道を歩きました。ここ10年位の間にずいぶんと歩道が整備されました。車に気を使わずのんびり歩くことができます。30分位歩いて交流館に着きました。参加された方々お疲れ様でした。程よい疲れで夜はぐっすり寝ることができました。
田布施町麻郷奥周辺の史跡巡りウォーキングコース
今年最初の史跡巡りウォーキングをしてきました。12月に下見ウォーキングをしましたが、ほぼ同じコースをたどりました。久しぶりに田布施町交流館に集合して10:00きっかりに歩きだしました。最初に訪れたのは西条稲荷神社です。私は何度かこの神社を訪れましたが、皆さんを案内したのは初めてです。城電気に接する山の頂上に鎮座しています。参道は落葉が少しあるだけで綺麗に掃除されていました。お社は何年か前に建て替えられたとのことです。地元の方々に大事にされているのでしょう。
今年最初に訪れた西条稲荷神社、綺麗に管理されている
西条稲荷神社を過ぎると奈良の大岩に向かって歩きました。途中、古い街道記念碑が建っていました。石の記念碑は風化しており建立した人々の名前は読めました。しかし、建立年月は読めませんでした。おそらく明治時代に建てられたのではないかと思います。
田布施町交流館 古い街道記念碑 やっと着いた奈良の大岩
街道記念碑を過ぎて山の間の道に入りました。しばらく歩くと奈良の大岩に到着しました。この大岩について、地元の小学校で由来や伝説をお話しをたことがあります。また、この大岩の鉱物名やなぜ丸いのかなども含めて2時間位お話をしました。
大岩の周りを見回った後に腰を下ろして昼食兼休憩をとりました。
田布施町麻郷奥周辺の史跡巡りウォーキングコース
12年前に婆様と娘を連れて車で上盛山に行ったことがあります。その1年後に初めて歩いて上盛山に登りました。そして今、婆様は施設で生活しており娘は2児の母親になりました。
今回、11年ぶりにその上盛山に友達と歩いて登りました。11年前に歩いた山道はもう草ぼうぼうで歩けないのではないかと思っていました。しかし歩けました。今でも歩いている人がいるからでしょう。
しかし、上盛山頂上はだいぶ変わっていました。一番変わったのは風車がすぐそばに建っていたことです。たまたま風が弱いためか回っていましたが、風車が回っていたらうるさかったことでしょう。
風車越しに長島の四代や祝島方面を見て
車は道の駅に止めました。そして、鳩子の湯前を通って上関大橋を渡り長島に渡りました。橋の袂に吉田松陰の石碑(原文,読み下し文,現代文)が建っていました。ただし、人が入れないように囲いがしてありました。そのため、石碑を遠目に見ただけですぐに橋を渡りました。その後、砂浜の海岸に降りて海水に手を浸しました。
海岸から離れて車道に合流した所に、人が一人通ることができる山道がありました。その山道をしばらく登ると、人家跡や溜池跡がありました。溜池には20cm位の水が溜まっていました。
吉田松陰の石碑 砂浜で海水に手を浸す ポツンと一軒屋
さらに歩くと、ポツンと一軒家がありその周りにミカン園がありました。人は住んではいないようでしたが、その一軒家は農作業小屋として使われているようでした。その後車道に合流して上盛山頂上に登りました。
頂上の展望台に上り、景色を堪能しました。その後、展望台下の長椅子に座った昼食を取りました。30分位休憩後、来た道を戻りました。途中、御汗観音堂に寄りました。下りは車道を歩きましたが11年前とだいぶ変わっていました。道の駅に戻ると、車に乗って帰りました。
上盛山展望台から上関町街を見下ろして 立ち寄った御汗観音堂
来年1月の史跡巡りウォーキングの下見に行ってきました。去年から山を登るような史跡巡りウォーキングを少なくしてきました。参加する方々の年齢が上がり、足腰が悪くなったりする方が増えたためです。そして、容易に歩くことができる平地の史跡巡りを多くしてきました。
来年も今年同様に、奇数月に本番ウォーキングを偶数月に下見ウォーキングをすることにしています。そのため今回12月は1月ウォーキングの下見です。
麻郷奈良地区の南平和霊場第六番札所西法寺
集合したのは交流館で、10:00に奈良の大岩を目指してスタートしました。大岩は何度も来たことがあるのですが思いがけず道を間違えてしまいました。同じ道を何度も行き来しました。そして、地元の方に聞いてようやく大岩への道が分かりました。
休憩した奈良の大岩 西法寺からの奈良地区 麻郷公民館付近の道
大岩にたどり着くと休憩にしました。スタートした時はパラパラの小雨でしたが、大岩に着いた頃には晴れて、暖かい日差しが当たるようになりました。続いて麻郷公民館を目指して歩きました。公民館に着くとトイレ休憩を取りました。休憩が終わると、スタートした交流館を目指して歩きました。下見に参加された方、お疲れ様でした。
麻郷奥を中心とした史跡巡りウォーキング下見コース
柳井市に入ってしばらく山沿いを歩いていると、灸川に架かっている石橋に着きました。下見時に分かっていましたが、橋脚の一部が傾いており渡ることが禁止になっていました。ですが、見ていると自転車で渡っている方がいました。車だけが渡れないようで、人がすり抜けることができる幅に隙間が設けられていました。
その石橋を注意深く渡った頃、ちょうどお昼になりました。そのため、灸川の堤防に座って昼食休憩を取りました。
灸川の堤防に座ってのんびりと昼食休憩
昼食休憩を終えると、灸川の下流に向かって堤防沿いの道を歩きました。舗装されていないとても歩きやすい小道でした。暑くもなく寒くもないウォーキング日和でした。歩いていると暑くなったため上着を脱ぎました。しばらく歩いていると灸川の河口が見えました。この河口からは田布施川となります。
橋脚が傾いた石橋 灸川から田布施川に出る 田布施川沿いを歩く
江戸時代後半の幕末期、灸川河口近くの田布施川中洲に刑場がありました。20年位前に田布施川の改修で、その中洲はすっかり無くなりました。
私が子供の頃まだ中洲がありました。当時潮が満ちてくると中洲が見えなくなりました。今はありませんがこの近くに人島橋が架かっていました。この橋を渡って平生と麻郷を往復していました。
子供の頃によく散髪した床屋さん 終点の平生Maxvalueに到着
田布施川から別れて人島地区内を歩きました。江戸時代、この周辺が海だった頃に人島は島でした。田布施川を作った時に堤防にするために掘削したため島影が無くなりました。唯一高さ数mの岩が民家の庭石としてなごりをとどめています。
人島地区から平生町街に入りました。私が子供の頃に通った床屋さん前を通りました。その床屋さんは休みでした。その床屋さんを過ぎると、終点の平生Maxvalueに着きました。参加された方々、お疲れ様でした。
平生~竪ヶ浜~田布施川史跡巡りウォーキングのコース