ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

減量には単に体重を落とすだけでなく、感覚を異常に鋭敏にする・・・

2010年09月15日 | Weblog
「スポーツマンガの身体」齋藤孝著より。

齋藤氏によれば、『巨人の星』と『あしたのジョー』はスポーツマンガの二大巨頭だという。とはいっても、最近の若い人にはほとんどなじみがないかもしれないが。

前者の原作者は梶原一騎で後者は高森朝雄だった。ところがこの両者は同一人物だったのだ。ファンなら当然のこととして知っていたのだろうが、私は知らなかった。どちらかと言うと『あしたのジョー』のほうが大人っぽい雰囲気があったようだ。

さて、ここでは『あしたのジョー』からのフレーズだった。ボクシングには減量はつきものだ。だから、試合そのものよりも、減量しながらハードワークをこなしていく練習のほうがきついという。ボクシングとハングリーは切り離せないのだろう。

肉体から余計なものがそぎ落とされていくにしたがって、感覚も研ぎ澄まされていくらしい。もちろん、それを素人がやればとんでもないことになるのだろう。そのためにトレーナーや資格をもったプロの指導者がいる。

減量しながら完全燃焼するということは、とてつもなく苦痛や苦労を伴うのだろうな。並みの精神の人間には決してチャレンジなどできない。それに比べれば、ダイエットなど軽く思えてくるが、それさえも難しい・・・

『巨人の星』には、昭和の日本の時代風景が色濃く見られる。

2010年09月14日 | Weblog
「スポーツマンガの身体」齋藤孝著より。

このマンガはたんにスポ根マンガとしてだけしかみていなかったが、そういえば、そんな見方もあるものかと気づかせられた。ストーリー自体も奇想天外で面白いものがあるが、時代背景も今から考えるとレトロ感があるものと言えそうだ。

ただし、このマンガに親しんだ世代はもう50代以降ではないだろうか。原作者の梶原一騎は長嶋や王、川上監督ら実在の人物をストーリーに織り交ぜているところも得意技だったらしい。

実際に試合中に起きた事件などもストーリーの中に組み込まれていたのだ。そうすることでリアル感も出てくる。また齋藤氏は、このマンガには時代の身体性がよくにじんでいるといい、次の3点を挙げていた。

1、身体に無理をきかせて最後にはぶっ倒れる。2、汁の多い身体(涙、汗、血のことだった)。3、父の身体(からだを張るという意味で)。とくに「やりすぎる」というのがこのマンガの登場人物の特徴だったようだ。

いずれにしても、このマンガのストーリーを通して、昭和30年代から40年代の昭和の風景を懐かしめるかもしれない。そうそう、(星)飛雄馬という主人公の名前が、ヒューマニズムから来ていた、ということもここで初めて知った次第。

スポーツマンガを、景気づけに読む・・・

2010年09月13日 | Weblog
「スポーツマンガの身体」齋藤孝著より。

この本のタイトル自体が何となくユニークに思えて手に取ってしまった。齋藤先生の専門は元々「身体論」だという。スポーツマンガには、素晴らしい身体表現がたくさん出てくると指摘していた。

そして氏は、みずからのスポーツ体験と思い出しながら、絵の世界の潜り込んでいくという。これは楽しいことに違いない。この本の中では身体感覚をマンガ表現にまで高めているもの7作品を取り上げていた。

それらは、「巨人の星」「あしたのジョー」「スラムダンク」「バガボンド」「バタアシ金魚」「奈緒子」「ピンポン」だった。中には既に熱心に読んだ作品もあるかもしれない。

私は成人以降は、ほとんどマンガを読むことはなくなっていた。それまでもテレビアニメで見る方が多かったかもしれない。上記のなかでは、「巨人の星」をテレビで毎週のように観たものだった。スポ根マンガと言われた作品だった。

齋藤氏は、仕事を始めるのに気が乗らないときなどは、このようなスポーツマンガを景気づけに読んで、気持ちを盛り上げているようだ。マンガの面白い効用にも思えた次第。問題は、のめりこみ過ぎてへとへとになってしまうのが欠点らしいが。

ノウハウを蓄積しなければ、どこにも到達できない。

2010年09月12日 | Weblog
「道楽のススメ」中谷彰宏著より。

どんなことも、いきなり上達することは不可能だろう。当然ながら出来るようになるためには、努力が必要になる。それは薄い紙を一枚一枚重ねていくような努力ということになる。

本のページも紙が数百枚重なってできていることをみれば、それだけ筆者の苦労、努力の蓄積が目に見えるようだ。

中谷氏によれば、その努力にも2種類あったのだ。1、ガマンしながらやる努力。2、楽しんでやる努力だった。「努力」イコール「ガマン」ではなかった。

どんな努力も楽しんでやることによって身につくものだった。それでこそノウハウの蓄積ができたのだ。

ポイントは好きなことをやって初めてノウハウの蓄積ができるということだった。努力を楽しめるかどうか・・・

道楽は、好きなモノとのケンカである。

2010年09月11日 | Weblog
「道楽のススメ」中谷彰宏著より。

ケンカの相手は、道楽ばかりではなく、仕事も遊びもそうだった。ケンカとは、つまりチャレンジする対象と言う意味でもあろう。

どれだけ一生懸命になって体当たりできるか、それはまた闘いでもあるということだった。仕事でいえば、生活のためだけに仕事をしているなら、嫌いなモノと闘っているということになり、勝ってもハッピーではないだろうという。

確かにそうかもしれない。どうせなら、好きなモノと闘ったほうが楽しめる。仕事がゲーム化できれば、一番楽しいのだろうが。

好きでやっていることなら、100%の力が発揮できるもの。しかも、その方が、結果的に勝てる確立が高まってくるという。これも何となく納得できそうだ。

道楽とは、「見えないところに、お金をかける」こと。

2010年09月10日 | Weblog
「道楽のススメ」中谷彰宏著より。

では、「見えるところにお金をかける」のは何というかと言えば、それは見栄だった。見えるところにお金をかけるということは、人の視線を気にしているとも言えよう。

大切なのは、人にどう見えるかよりも、自分が好きか嫌いかのほうだったのだ。基準はあくまで自分であるべきだった。見えないところにお金をかける場合は、基準は自分だけにあった。

だから、中谷氏は、本当のお金持ちは見えないところにお金をかけるために、見えるところをケチったりすることもあるという。また、氏は心のお金持ちかどうかの判断は、見えないところにお金を使っているかどうかだともいう。

見えるところも見えないところもケチってしまう自分にはなかなかその境地には達せられないな。むしろ、見えるところばかり気にしているうちはまだまだだな、と思った次第・・・

面白いエピソードをつくるには、投資をしなければならない。

2010年09月09日 | Weblog
「道楽のススメ」中谷彰宏著より。

実に新鮮な印象をうけるワンセンテンスだった。“投資”というこの部分には、何が含まれているのだろうか。時間、費やしたお金、書籍(勉強)なども入りそうだ。

要するに、タダでは面白い話を人にできないだろうと言っているようだ。面白くなるためにはそれなりのコストをかけねばという意味だろう。

文化力というのは、お金を使うことで伸びると中谷氏は語っている。ということはお金持ちでもお金をただ持っているだけでは意味はないということになる。

財布にいくらお金が入っているだけの人よりも、エピソードをたくさん持っている人のほうが面白そうだ。

こんな表現もあった、「理不尽なお金の使い方をした時に、初めて面白い体験をすることができる」と。

意外な体験ほど語っても聞いても面白いものだ。でも、それなりにコストはかかるということでもあるな。ま、それは当然なことだろう。

小説というのは、制約があったほうが書きやすい。

2010年09月08日 | Weblog
「冬の花火」村上龍著より。

この中編小説のあとがきで村上氏が語っているなかのワンフレーズだった。そもそもこの小説は小池真理子との競作で一冊になっていたものだった。総合的なタイトルは「美しい時間」となっていた。

出版社からは、読者対象は五十代を想定して、しかも性的、暴力的な描写はNG、というような制約が課されていたのだ。村上氏はそんな制約は好むところだったという。

つまりそんな制約があるほうが書きやすかったようだ。氏は言葉を変えて、「約束事」でもあり、「制度」だとも考えていた。

氏は常に制度的なものへの挑戦と突破を自分に課しているという。だから、この小説も書きやすくすぐに書けてしまったと語っている。

確かに何でもいいですから、面白いものを書いてください、と言われるよりもターゲットが絞られて、条件もある程度あったほうが書きやすそうだということは理解できる。

ちょっとしたことをヒントにあっという間に書きあげてしまうのは、ベテラン作家の想像力のすごさだろう。

働く場所というのは、単に金を得るだけではなくて、そこで社会とつながっている・・・

2010年09月07日 | Weblog
「冬の花火」村上龍著より。

このセンテンスもまた、前日同様に当たり前のことを語っているだけなのだが、そうそう、そうだったのだと思い起こさせてくれるものだった。

働くことは、ある意味社会的責任を果たしていることでもあるだろう。自分では単にサラリーを稼ぎに行っているだけだと思っていても、否応なしに責任はついてくる。給料はその責任に対する報酬だ。

しかし、中にはあえて生活のために稼がなくても、親からの財産で暮らしていける人もいるだろう。そんなに人は、はたから見れば羨ましくも思えるが、社会とつながりが希薄だとも考えられる。

職場があれば、それなりに責任もあることは確かだ。また人間関係の問題や、ストレスもあるもの。達成感や失敗などを通して、結果的に人も成長するのではないだろうか。

やはり単に好きなことだけに時間を費やしたり、趣味だけの付き合いとは異なった人間関係があることが必要にも思える。だから、ある意味たんに金さえ十分にあれば、それだけで幸せかといえば、そうでもないのだろう。

歳をとればとるほど元気になっていく人間などどこにもいない。

2010年09月06日 | Weblog
「冬の花火」村上龍著より。

この当たり前なセンテンスが意外にも気になった。あえてそれを文字したことで、意外性が感じられた次第。

これは小説で、その主人にこう語らせている。「わたしはこの春で五十四歳になる。基本的に怠惰で、苦労がない人生を送ってきたからだろうか、歳よりも若く見られることが多い。」

年齢こそ異なるが、まるでそれは自分自身のことのようでもあった。まあ、年齢の割にどう見られようとも、そんなこととは関係なく歳を重ねれば体は弱っていく。

たまにかつての同級生にあったりすれば、あっちが悪い、こっちが悪いとかこんな病気になってしまったなど、そんな話題は年齢に比例して増えるものだ。

ちょっとしたことで腰を痛めたり、たまにふだん使わない筋肉を使えば、その回復も遅くなっていることにも気づく。あとはだましだまし日々過ごすしかないのだろうかなぁ~

魅力的なアイデアがあっても、「口べた」や「プレゼンべた」では伝わらない。

2010年09月05日 | Weblog
「産経新聞」2010.8.28付けより。

“話題の本”紹介コーナーにあったフレーズだった。もしかしたら、もうこのフレーズだけでどの本の紹介がされているか分かってしまった方もいるかもしれない。

発売2カ月で八万部を突破しているベストセラー本だった。その本は『スティーブ・ジョブズ驚異のプレゼン』だった。著者はプレゼンのコーチを務めるカーマイン・ガロ氏だった。

ポイントは“シンプルでメッセージ性のある言葉を練り上げる”だった。たとえば、「iPodはガムより小さくて軽い」「IPhon 3G.速度は2倍、価格は半分」・・・とまるで実にシンプルなコピーライティングのようだ。

シンプルだからこそ伝わりやすいのだろう。しかも、もう一つのポイントは、「練習」の重要性だった。そのことを上記フレーズにあげた次第。さて、この本(400ぺージもある)をいつ読むか・・・

相手にとって不要な接触を行うと、「逆宣伝」になる・・・

2010年09月04日 | Weblog
「朝日新聞、土曜版」2010.8.28付けより。

これは、“勝間和代の人生を変える『法則』”というコラムのなかで目にしたフレーズだった。はじめの部分では、「なぜ、多くの企業は同じ内容の広告を、繰り返し見せようとするのでしょうか?」となっていた。

これはある法則に基づいていた。つまり頻繁に同じものを見せられると、そのモノに対して好意を抱きやすいからというものだった。

これは人にもモノにも言えることのようだ。しかし、この接触にはある条件があった。つまりそれは、出合い方が「中立的」または「好ましいもの」であることだった。

もし相手に対して好ましくないものだったら、それは逆効果になってしまう。それがフレーズにあげたことだった。しつこいセールスが嫌われるのはこんなことからもわかる。

ということは、いかに相手に邪魔にならないように接触できるか、そんなタイミングを計れるかどうかも成功、失敗のカギを握っていそうだ。

必要でない「必欲品」に使うことで、心が癒される。

2010年09月03日 | Weblog
「道楽のススメ」中谷彰宏著より。

生活のために使うものは「必需品」だが、ただ欲しいだけのものは「必欲品」だという。実に面白くて分かりやすい表現だ。

必需品ならどうしても必要なものだから、しかたなしに買うことになってしまう。でもただ欲しいだけのものを買う時には癒しの効果があるという。

たとえば衝動買いというのも、その時見て欲しくなったものだから、必欲品なのだろう。あとで飽きてしまっても、その時は買うことが楽しいものだ。

商品なら高額のアクセサリーや美術品などがそうではないだろうか。また贅沢な食事などもそうかもしれない。しかし、そんな時間を過ごすことはまた文化度が高い時間を過ごしているともいえそうだ。

必需品、とくに消耗品にはお金をあまりかけなくても、欲しいものとなれば、意外に値段には無頓着だったりもするものだ。それが道楽であり、心の豊かさにもつながるのだった。

気持ちよく使えるモノが、道楽の対象。

2010年09月02日 | Weblog
「道楽のススメ」中谷彰宏著より。

たまに「生き金」「死に金」という言葉を聞くが、「死に金」は使ってもまったく身につかないお金のことで、「生き金」は使った金額以上にモノが身についていくお金のことだった。

しかも、「生き金」にするためには、気持ちよくお金を使うことのようだ。確かにもったいないなどと思いながら使っていたら、せっかくお金を払っても楽しくもない。

道楽はお金をたくさん使うことでもなかった。いかに気持ちよく使えるかがポイントのようだ。金額の大小とは関係なく使える範囲内で気持ちよく使うことなのだ。

また道楽とは使うことによって文化を手に入れることでもあった。人生が楽しいと思うのは、心が豊かな人と出会ったときでもある。

つまりその前に自分が心豊かにならなければ、そんな人とも出会えないということだ。自分の周りにはつまらない人が多いとしたら、自分がつまらない人間なのかもしれない。

まあそうならないためにも、お金を使って文化を手に入れるということになるようだ。それは大抵ムダ使いのようなものだろうが。ムダだからこその面白さもあるのだろう。

道楽とは、出会いを生み出す、最大のインフラ・・・

2010年09月01日 | Weblog
「道楽のススメ」中谷彰宏著より。

このフレーズの中の、“道楽、出会い、インフラ”という3つの全く異なる言葉がワンセンテンスの中で使われているところが気になった次第。

このページのはじめの部分で、筆者は「お金をつかうというのは、将来の自分のためのインフラをつくっていること・・・」とはっきり述べている。

そうか、そうだったのか、と思った次第。つまりそれは自分なりに有効に使えば自分にプラスになって返ってくるものというふうにも解釈できる。

だから、ただ単に貯金しているよりも、将来のために自分に投資することも必要だったのだ。お金と時間を費やして身に付けたものは、いつかは役に立つかもしれない。

インフラを整えるためには、お金を使うことが必要だったのだ。中谷氏はまた、道楽を通して、自分のインフラを整えておこうとも提案している。

道楽があるからこそ、新たな出会いもある、ということはよく理解できる。それは身近な趣味の仲間かもしれないが、そこには貴重な出会いが含まれていたりもする。