ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

公認サンタクロースのこと、・・・

2007年12月18日 | Weblog
「メトロポリターナ」2007.12月号より。

もうあと数日でクリスマス。何年たってもサンタクロースは幼い子どもたちに夢を与えてくれる。そしたら、なんと公認サンタクロースというのがあったのです。これはグリーンランド国際サンタクロース協会というところで公認していました。現在、世界には120名の公認サンタクロースがいるという。

日本ではパラダイス山元さんがオンリーワンの公認サンタさんでした。先日あるテレビ番組にも登場していました。その中のクイズにもありましたが、公認されるための4つの条件があったのです。1、結婚している。2、子供がいる。3、体重が120キロ以上。4、これまでにサンタクロースの活動経験がある。

そして、書類審査通過後、ほかの公認サンタの推薦状を携えてデンマークの試験場へ行くのでした。そこでは、自作した衣裳のチェックのほかに、いろいろな適正試験があるようです。しかも、大変なのは自宅から試験会場に到着するまでサンタの格好でいなければならないのです。しかもその季節は7月下旬の真夏だったのです。会場に行くまでが厳しそうですね!痩せる思いでしょうか。(やはりサンタ苦労~する、・・・か)

パラダイス山元さんは試験でOKが出た時には涙がこみ上げてきたといいます。何しろ現在アジアではただ一人と言うことのようです。これだけでもオンリーワンと言えそうですが、本職はラテンミュージシャンだったのです。さらに、盆栽作家(職人)としてもその世界では知られている人でした。人のフィギアと盆栽とコラボレーションを確立しユニークな世界を作り上げていました。かつてこのブログで取り上げたら、ご本人からコメントをいただき驚いたことがありましたね。

山元さんのブログ。
http://yaplog.jp/santa/

門下に9人の弟子を抱える大師匠でもある・・・

2007年12月17日 | Weblog
「R25」2007.12.13号より。

いったいこれは誰かといえば、あのおしゃべりマジックという独自の世界を創ったマギー司郎さんだった。いつの間にこんなに多くの弟子を抱える大師匠になったのかちょっと気になった次第。そういえば、たまにテレビのドラマでみると太って貫禄がついていた。いま61歳だった。

茨城なまりのとぼけたトークと手品でデビューし始めたのは『お笑いスター誕生』の頃だった。もう約25年ほど前になるだろうか。その番組からは今も活躍するお笑い芸人が誕生している。とんねるずやウッチャンナンチャンもこの番組でグランプリを獲得していた。マギーさんは7週勝ち抜いていた。

マギーさんは16歳で家出同然で上京して、水商売のアルバイトをするかたわら趣味でマジックを始め、没頭していたと振り返る。その後マジックの師匠に弟子入りしていた。独自のおしゃべりマジックを確立するまでは、長い下積み生活で苦労を重ねている。全国巡業の日々に抱いた「今月も暮せてよかった」という思いは今になっても変わらないという。

彼が書いた本のタイトルは『生きているだけでだいたいOK』となっている。マギーさんの人生をひとことで表したフレーズにも思えた次第。大げさなマジックではなく、身近で親しみやすいスタイルの手品だが、テレビの中では時たま三番弟子のマギー審司が演じていたかな。(ウィキペディアによると十番弟子までの名前が掲載されていた)

“趣味”と呼べる範囲って?

2007年12月16日 | Weblog
「R25」2007.12.13号より。

いきなりあなたの趣味はなんですか?と訊かれて、即座に答えられるだろうか。今の自分はとくにこれといって何もないかもしれない。少し時間をおいてからなら、昔は(または若い頃は)○○をよくやっていたな、などと思いだしたりもするだろう。

就職時に使用する履歴書には趣味の欄のようなものがあったりする。そこには一般的には読書、音楽鑑賞、旅行、野球、水泳、サッカー、スポーツ観戦、将棋、手芸、絵画、麻雀・・・などと記入するかもしれない。

私はややウケ狙いも含めて、プロレス観戦と書いた覚えがある。実際その頃は、テレビで毎週欠かさず観戦していたし、スポーツ新聞やプロレス雑誌もしばしば読んでいた。また時にはチケットを購入して会場にも足を運んでいたからウソではない。またいくつかの趣味も重複してやったりもするものだ。

NHK『趣味悠々』では様々な趣味やその面白さを紹介している。そのチーフプロデューサーによると、次のようなところが趣味といえるポイントのようだ。「一定期間続いているもの、長く続けていても苦ではないもの。(中略)また、そのものを通して友人が増えたり自分を磨くことができる、など段階を経て楽しいもの」らしい。

趣味は年齢によってコロコロと変わったりもするかもしれない。それは飽きてくるせいだろう。趣味がどれだけ継続できるかは興味や関心の度合にもよるだろう。また、スポーツなら体力的にムリなく続けられるかもポイントになりそうだ。

と、まあこんなことを書いているが、当分はブログも趣味ともいえそうだが、あと何カ月先まで続くかはわからないな・・・

無心で味わえば、すぐ近くで三つ星が見つかるかもしれない。

2007年12月15日 | Weblog
「R25」2007.12.13号より。

こう言っているのは作家の高橋秀実。それにしても、先月「ミシュランガイド東京2008」が発刊された時には大騒ぎだった。その数日前からテレビ、新聞、雑誌では特集を組むほどだった。ところが、日本人のいいクセかどうか、熱しやすく冷めやすい。もう今月に入ってからは誰もそんなことを話題にする人もいなくなってしまった。

しかし、フランス人の批評家に勝手にランク付けされたレストランは喜んだり迷惑がったり忙しい日々を過ごしていることだろう。いきなり星をつけられて、野次馬グルメが増えてそれまでの常連さんが迷惑を被っている店もあることも容易に想像できる。

まあ、それはともかくとして、味覚というものは個人個人の好みで異なるものだから、外人の舌に合わなくても自分だけの好みに合っていればそれが三つ星のお店だと思えばいいのだろう。もともとグルメでもないし高級レストランなどには縁がないひがみかもしれないが。

たとえば、今日のお昼にはラーメンを食べたくてしょうがないと思っているときに、カタログに掲載されている三つ星のレストランの洋食を食べても満足できるかどうか。また、カレーを食べたいときに中華料理を出されても嬉しさは半減するだろう。しかもインドカレーではなくてそば屋のカレーが食べたいときもある。

猛暑の中を歩いてきた後では、さっぱりした冷やし中華そばがのど越しに心地いいものだ。急いでいるときには、回転寿司屋ならきわめてお気軽に好きなものだけ味わえる。寒い冬なら家族で囲んだ鍋ものが最高だったりもする。体も気持も同時に温まるはず。

ここでは、筆者は自分の身近なことを話題にしていた。つい先日、この筆者の奥さんが近所のスーパーで新作の「杵つき大福」(105円)を買ってきてくれたものを食べたときだった。それは言うまでもなくミシュランとはまったく関係ないが、唸るほどのおいしさだっただったという。

つまり自分が基準の三つ星の食べ物やレストランってあるのかもしれない。たとえ人がなんと言おうとお気に入りの店があればそれで十分だろう。それから、味ばかりではなく新鮮、安全なども食へのこだわりかもしれないな。


高級なものは、その原料を自然から採っている。

2007年12月14日 | Weblog
「日本の色を歩く」吉岡幸雄著より。

フランスのシャネル社の化粧品部門のクリエーション・ディレクターが新しい口紅を開発する一環として「日本の赤」を探索することがあった。その際、筆者の吉岡氏は家業の工房を案内していた。

すると、ディレクター氏は並べてある染料の見本をつぎつぎに手に取り匂いを嗅いだり、口に入れていたという。きっと好奇心が強くなければこういうクリエイティブな仕事には向かないのだろう。そして、吉岡氏は赤を染める染料や技術について説明したのだった。

話をするうち、シャネル社では口紅をはじめとする化粧品の色素は、いまでは化学的に合成されたものがほとんどだということだった。ところが、高級なものになると、その原料は自然から採っていることがわかった。

日本でも口紅は今日では化学的な色素で作られているが、かつては紅花から取り出した色素を使っていたようだ。シャネル社のようなブランドも化学染料が開発されたあとでも、自然界からの「赤」を高級品として造りつづけていることにもちょっと驚かされる。

その赤は「コニチール」というカイガラムシの一種で、ウチワサボテンに共生する虫だった。南米ペルーでは今でもさかんに栽培飼育されているようだ。日本でもコニチールはペルーやメキシコから輸入されていたのだ。

そして、食品の着色に使われていた。カマボコ、トマトケチャップの赤味はそれだった。またこのような自然の赤は安全でもあるようだ。時どき色鮮やかな食品に出くわすことがあるが、いかにも合成着色料が使われているような気もしてちょっと気になる・・・な。

化学染料には出せない日本の伝統的な色がある。

2007年12月13日 | Weblog
「日本の色を歩く」吉岡幸雄著より。

筆者は40代を過ぎてから家業である植物染屋を継いでいた。それまでは美術工芸や染織関係の書籍の編集や広告の仕事に携わっている。そのため、全国各地に植物を求め取材した際の豊富な知識と家業を継承したあとの実践により味わい深い旅のエッセイとなっていた。言葉を換えれば客観と主観がほどよくバランスがとれていて心地よい読後感であった。

それにしても日本の伝統的な色は実に豊富で微妙に出来上がっている。それは日本人がそれだけ感覚的に優れているということにも思えた次第。手先が器用であることとどこか共通していそうだ。現代では化学染料を使って簡単に色を染めることができる。しかし、古い時代にじっくり時間をかけて植物から染めた色彩には本物の色の強ささえ感じられてくる。

「赤の色を歩く」という章では、800年近く歳月がたった鎧兜の例があった。年数がたったため損傷が激しかったようだ。そして今から100年ほど前の明治36年(1903年)に修復がほどこされていた。しかし、一世紀を経た今では、補修された部分(布地)は退色して淡くなってしまい「茜色」というより珊瑚色になってしまっている。

ところが平安時代に染められた茜色はいまもなお染め上げられたばかりと思えるほどの彩りをたたえていたのだ。(そのカラー写真も掲載されていた)自然の植物から創意工夫、苦労の末染色されたいにしえの工人の技術には驚かされる。また、こんなところにも本物はうそをつかないものだと感じてしまう。


あっても邪魔にならない贈り物。

2007年12月12日 | Weblog
前日「贈り物」について触れたら関連していろいろなことを連想してしまったので、そのことについて書いておこうと思った次第。

最近は豊かになったせいか、贈り物をいただいても、贈ってもても同じようなものはすでに家にあったりすることが多い。贈答品を送ったとしても大き過ぎるものは邪魔になるだろうし。生鮮食品だと冷蔵庫に入りきれないほど重複しているかもしれない。また好みでなかったり、必要のないものかもしれない。

贈るものを選ぶのは面倒になってくる。そう考える人が多くなったせいか、結婚の引き出物や香典返しにはカタログによるギフトを選ぶ人が増えてきたようだ。それなら相手に好きなものを選んでもらえるという心遣いからだろう。

そういえば、どこかの会社の創立何十周年かの記念品にそのカタログギフトだったことがある。それなら贈る予算に合わせてカタログを選べばいいわけだからラクなことは確かだろう。ただし、選んだものが食品なら食べてしまえばもうおしまいになってしまう。記念品とはいってもやや味気ない気もするが。

贈り物とはいってもモノとは限らない。現金だったり、図書カード、商品券、ビール券、旅行券だったりもするだろう。ある知り合いの工務店の社長がお世話になった銀行の支店長に品物に商品券(数十万円)をつけてお歳暮を贈ったらしい。すると、その支店長はあわてて商品券だけを返しに来たそうだ。

やはり、現金に近い商品券を数十万円だとびっくりしてしまうのだろう。とくに金融機関では支店長や社長方針で金額にかかわらず贈答品は受け取り辞退をするところが多そうだ。贈る側はお世話になったお礼とは思っていても、相手には負担に思うこともあるのだろう。

いくら金券類は便利で邪魔にならないからといっても、贈り物としては難しい時もありそうだ。またしばしば贈賄の原因と考えられたりもするだろう。民間でもお役所がらみでもしばしば、賄賂は新聞、テレビなどのマスコミを騒がせている。今も連日新聞紙上を賑わしてるな。いずれにしても贈賄は大昔から行われていることで、これからも永遠に無くならないだろうなぁ・・・

(蛇足)

ところで、タイトルとはまったく関係ないことですが、こんなことを書いていたら、実に多くの「貝へん」があることにも気が付きました。昔から貝がお金の役目を果たしていたことは想像できますね。ついてに漢和辞典を開いてみました。

子安貝のから(殻)の形にかたどったものが貝という文字になったものでした。中国では周代の中ごろまで、貝が貨幣の役目を果たしていたのが理由のようです。贈賄、賄賂など両者とも貝へんですね。その他、貯金、預金、財産、販売、貨幣、売買、費用、賃金、購買、賭博・・・すべて貝が入っていますね。

日本の贈る習慣はついていくのが大変・・・

2007年12月11日 | Weblog
「ENGLISH JOURNAL」2007.11月号より。

こう言っているのは日本の大学で教えるアメリカ人の英語講師だった。たしかに外国から考えれば日本にはいろいろな行事にからんだ贈り物の儀式は多そうだ。それに引き換えアメリカなどでは個人的におこなう誕生日やクリスマスなどのパーソナルギフトを重要だと考えているのだろう。

今はちょうどお歳暮のシーズンになっている。これはパーソナルというよりはむしろ形式的な感じが多そうだ。私などにも送られてくるが、やはりまたお返しをするようにしている。振り返ってみれば、生まれてから亡くなったあとまで贈り物は絡んできそうだ。

誕生、七五三、入園、入学、卒業、成人式、就職、結婚、出産、新築、お餞別、お中元、お歳暮、引っ越し・・・さらに歳をとって転勤、退職、還暦、喜寿、・・・などと人生にはいろいろなステージがあるもの。その度に現金が動き、お返しとしての内祝いがあったりする。それも当然贈り物ということになるだろう。

それから、旅行などに出かけたときにはたいていお土産を買ったりするもの。仕事の同僚、親しい友人、家族、ご近所などへと。誰に何を買って帰ろうかなどと考えているうちに自分へのお土産を忘れてしまうこともあったり。

また、変わったところではお詫びというのもあるかもしれない。仕事上でも、個人的にでもしたりされたりはあり得ることだ。そんな時手ぶらではまずいと思って手みやげを下げて行くこともあるだろう。それは菓子折りだったり、タオルだったり。家の壁の塗り替えだといえば、工事業者からお隣数軒に迷惑料としてか挨拶にタオルなどが配られたりする。

こんなふうに、贈り物をしたり、されたりする機会は非常に多い。しかし、日本人はそんな風習も自然に身につけてしまうのかもしれない。海外ではこれほど頻繁に現金や贈り物が動くとは考えられない。だからこその上記フレーズなのだろう・・・な。

菓子になり、主食になり・・・

2007年12月10日 | Weblog
「アーバンライフメトロ」2007.12.1号より。

さらにその後には「地域のコミュニティでは人と人をつなぐ橋渡しとなる」と続いていた。もう答えは想像できたかもしれません。もちのことでした。腹持ちがよく、保存が利き、携帯にも便利なものですね。

日本人ともちとのつながりはかなり古そうです。縄文時代、東南アジアから伝えられた稲作は、もち米だったようです。神に供える鏡餅の習慣が始まったは平安時代とあります。

ふだんはもちを食べることはあまりありませんが、正月になると好んで食べるようになります。もともと日本人はもちが好きなんでしょうね。雑煮は正月の数日間はごくごく自然に口にしてしまいます。

また、その後も我が家では数カ月間は焼いて醤油をつけ海苔でまいた磯部焼きや茹でてきな粉をつけたあべかわ餅にして食べ続けています。腹持ちがよく冬の季節となぜか相性がよさそうですね。

そういえば、子供たちが幼稚園児のころの行事で年末には餅つきをしたことがありました。炊けたばかりのもち米を臼に入れ重い杵でついたことが懐かしいですね。やはりつきたての軟らかくて温かい持ちは最高でした。

また和のスイーツの代表は餅菓子でしょう。大福餅、柏餅、草餅、桜餅、わらび餅、葛餅・・・いろいろな餅の種類がありますね。写真を眺めながら、こんなことを書いていたら急に食べたくなりました!

作られて40年以上たっても走れる機械的な優秀さ・・・

2007年12月09日 | Weblog
「アーバンライフメトロ」2007.12.1号より。

今月で東京に地下鉄が開通して80年になるという。たまたま、私は仕事で東京メトロを利用することが多いので親しみのある電車でもある。日本初の地下鉄は昭和2年、浅草~上野間4駅を結んで開業していた。

私が初めて地下鉄に乗ったのはもう35年ほど前の学生時代だったろうか。その後各線の電車のデザイン、色、車内設備などもいつしか変わっていった。そして、引退した車両はその後地方のあちこちの路線を走っていたのだ。

中には海外に輸出されているものもあった。東西線で走っていた車両はインドネシアに輸出されていた。また驚いたのは、131両もの丸の内線を走っていた赤い電車はアルゼンチンで現役で走り続けているという。

実に重くて大きなリサイクルが行われていると思えた次第。それは日本で走っていた時の姿とほとんど変わらないようだ。面白いことに「乗務員室」などの表示もそのままだという。国境を越えて愛されるというのも素晴らしい。

恐らくアルゼンチンに旅をした日本人が、現地で東京の地下鉄の電車に出会ったら感動することでしょう・・・ね。


素晴らしい作詞家は一瞬で私の特徴をとらえてしまった。

2007年12月08日 | Weblog
数日前のこと、魂のシャンソン歌手と言われる若林ケンさんの歌をライブで聴く機会があった。そのときのトークの中でのワンフレーズ。若林さんは62歳でCDでメジャーデビューしている。この年齢でのデビューは前例がないらしい。とはいっても、プロの歌手、舞台俳優としてのキャリアは長い。

その日のステージに来る前に、車を飛ばして辻村ジュサブローさんに会ってきたという。その時、すごい人とお知合いなんだなとちょっと驚いた次第。するともう20年も前からコラボレーションはしていたのだ。彼の歌をバックに人形芝居の舞台をやっていたという。

その辻村さんは、“選んで生まれてくることはできないけれど、選ばれてきたひとのうたを聞くと、本当にひとの心を打つものです” と彼のことを評している。

トークの間は笑顔で楽しい話を披露してくれる若林さんも、曲が流れると一瞬のうちに、まるでお面を付け替えるようにまったく別の表情になる。観客はすぐに歌のドラマの世界に引き込まれてしまう。ピアノ、ヴァイオリンの音と彼の迫力ある歌声が自由に絡み合っていった。

先ほどタイトルにあげた作詞家は阿久悠さんのことだった。阿久さんによるオリジナル曲「嘆きの天使」には若林さんの人生がちりばめられているのだろうか。わずかの時間で若林さんの人生にふさわしい詞を書きあげたようだ。この曲を歌い終えたとき、阿久さんのことを思い出してしまったといって涙をながしていた。

彼の情感のこもった歌声を聴いた後では、テレビの中の若手歌手の歌はとても聴いていられないほどだった。実力はうそをつかない・・・か。

頼みにならねDNA.

2007年12月07日 | Weblog
「うさぎの聞き耳」青木奈緒著より。

この青木さんの母親は随筆家の青木玉さんでその母親は幸田文さん(つまり祖母)、その父親は幸田露伴(曾祖父)だった。4代も続いて物書きだったらきっとその遺伝でかなりの書き手に違いないと思われているようだが、本人にはそれは迷惑のようだ。

何冊も読んだわけではないが、幸田文さんの文章には父親から受け継いだ素質だろうか、確かな取材としっかりした知識、そして落ち着いた中にも熱気さえも感じられた。そして青木玉さんの文章からは実に美しく練られた日本語が伝わってきた。これこそ本物の随筆かと思わせられた次第。

また奈緒さんの文章からは30代半ば(この本を書いた当時)のいかにもパソコン世代の女性らしい生き生きとした感性が感じられた。ドイツに12年間を暮らしたという話のところでは、言葉が弾んでいるようでもあった。センテンスが早いテンポで進んでいくのはパソコンで書いていたせいだろうか。

本文の中にも同業の母親は茶の間に原稿用紙を広げて、一字一字鉛筆で律儀に埋めていくとあった。それに対してご本人は気分によって、ノートパソコンを移動させながら、キーボードをたたいて原稿作りに励んでいるという。

そうして出来上がった一冊もべつにすらすらと書きあげたわけではなかったようだ。物書きとしてたまたま四代目ではあるものの、職人と違って代々受け継がれたものがあるわけでもない。自身の判断でたまたま続いただけで、DNAは頼みにはならないと述べている。(もっとも、そこそこの才能がなければ一冊も書けないであろうが。)

激減したといっても、昨年度(H.18)で1481万枚が売れている。

2007年12月06日 | Weblog
「朝日新聞日曜版」2007.11.18付けより。

先日よりコレクションやコレクターのことを取り上げていたら、ふと似たような新聞記事があったことを思い出した。上記の数字はかなりすごいと思える。というのは、ほとんどの人が何をもう今さらって、思っているものだからだ。それはテレホンカードの売上げ枚数だった。

もう今では、公衆電話を見つけることさえ容易ではなくなってしまった。ほとんど一人一台はケータイ電話を持つ時代になってしまったからだ。10年ほど前には新宿の駅にはずらっと公衆電話が並んでいたものだった。しかし、今ではもう数台を見つけるのがやっとの感じになってしまった。

今月でテレホンカードが発売されてから25周年になるという。(発売開始は1982年だった)とりあえず、財布の中には万一ケータイの電池切れになった時のために使いきっていないテレカが入っている。発売された当時はいろいろなデザインが楽しくて集めたものだった。一時は100枚近くはあったろうか。ところが未使用のものを持っていてもしょうがないと思ってどんどん使ってしまった。

販売数のピークは1990年から97年頃で毎年4億枚が売れていたのだ。これはギフトや景品、企業のPRで使用されていたからだった。ところが98年頃からは激減してしる。それでも、昨年は1481万枚が売れているというからすごい数字だ。今でも根強い収集家はいるようだ。どんなものにもコレクターがいるものですね。

私は自分が使用して記念として絵柄が珍しいものだけは一応捨てないでとってはあるが、当然何の価値もない。カードと言えば、関東地区の私鉄、地下鉄に乗る際に今年の春先まで使用していたパスネットも使わなくなってしまった。

今では電子(マネー)カードのパスモを使うようになったからだ。あまりにも便利すぎてついつい使い過ぎてしまう。(今日も駅の売店で、それでちょっとした食べ物と飲み物を買ってしまった)


「石橋を叩いて渡る奴があるか」

2007年12月05日 | Weblog
「好きなことをずっと仕事でやっていくために知っておきたいこと」北原照久、矢野雅幸著より。

「石橋は叩かないで渡れ」というのがタレントのうつみ宮土理さんのモットーだという記事を先月28日の日記で触れていたので、たまたま上記のフレーズにさしかかったときに気になった次第。こんな面白い発言をしていたのは本田宗一郎さんだった。

つまり、石橋だと思ったら渡っちゃえよ、という意味らしい。確かにいかにも本田さんらしい明確なフレーズだ。偉業を成し遂げた人の言葉には勢いが感じられる。とくに起業をする人には必ずリスクがつきまとう。しかし、それ以上に夢があるから一歩を踏みだせるに違いない。

矢野氏は面白いことを言っていた。「石橋に全部ヒビが入っていたとしても、渡ったあとで振り返って、渡れたことがすごくラッキーだったと思ったほうがいい(笑)」と。

多くの人は、石橋を渡ってしまったあとの結果しか見ていない。軽く渡ってしまうための努力は見えにくいものだろう。とりあえず前に進むためには、石橋をハンマーで叩く必要も、転ばぬ先の杖もあまりたくさん持つ必要もないかなぁ

何かしらのコンプレックスはあったほうがいい。

2007年12月04日 | Weblog
「好きなことをずっと仕事でやっていくために知っておきたいこと」北原照久、矢野雅幸著より。

今でこそ趣味を仕事にして、業界トップにたつ二人ではあるが、彼らもまたコンプレックスを起爆剤にしたからこそ夢を実現できたとも言える。矢野氏は自分の原動力のひとつはコンプレックスが姿を変えた一種の物欲だとも振り返っている。

二人ともはじめからメチャクチャ裕福というわけではなく、欲しいものが全部与えられていたわけでもなかった。コレクターである二人とも、いい意味での欲があったということでは意見が一致している。欲がなければ物を集めたいとは思わないし、そのための努力もしないだろう。棚ぼたは絶対にあり得ない。欲の成就には人一倍働くことも必要になってくる。

欲がなければ、すでに誰かが持っているものを博物館や美術館で観るだけですんでしまう。以上のことは言葉を換えれば、ハングリーさともいえそうだ。それはしばしばスポーツの世界で使われているが、精神はすべての仕事にあてはまるだろう。

たとえば、作家では浅田次郎氏や山本一力氏がプロの作家になる以前、仕事で億単位の借金を抱え込んでしまったことは有名な話だ。しかしその逆境を克服していた。また、先月取り上げた世界的建築家の安藤忠雄氏も決して学問のエリート街道を歩んだわけでもなかった。大学で学ぶ専門の勉強を連日長時間にわたってし続け自分で学問を身につけている。

コンプレックスもいい意味で働かせれば、それなりの成果が望めそうだ。しかしまた逆に悪い方に行ってしまうと、犯罪になったりすることもしばしばだが。