ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 加藤周一著 「羊の歌ーわが回想ー」 岩波新書 上下(1968年)

2018年11月05日 | 書評
雑種文化の提唱者加藤周一氏が医学を捨て、日本文化の観察者たらんと決意した1960年までの半生記 第18回

34) 偽善
オックスフォード大学美術館に勤める美術史家S氏、ロンドンの小説家などとの交流を書いているが、この節の本論とは直接関係はない。その中には田舎暮らしを好む人が多かった。江戸の昔「風流と俗事」という伝統的な二元論があった。ドイツ人は精神文化対物質文明の二元論を唱えていたが、政治は文明に属し文化の側にはない。それに対して英国人は「政治」と「精神」、「現実」と「理想」との関係は直接関係はなかったが、完全に切れてもいなかった。東京では左翼的政治的イデオロジーが濃厚な「政治と文学」論争が盛んである。パリでは東京の話題に似て、共産的人間、反抗的人間、組織と個人、革命と改良など、何が正しく、何を我々が欲するのかを議論していたようだ。しかし英国人は具体的状況で何を欲するのかというよりも、何ができるのかを考える習慣があるように思える。私が英国で覚えたことは、道義と政治を別物として扱うことではないということであった。太平洋戦争を民主主義対ファッシズムの戦ということは、今日の「冷戦」をみれば日本帝国主義とアメリカ帝国主義の程度の差に過ぎない。カミュは「反抗的人間」において、自由な人間は権力に反抗しなければならないが、反抗を組織するにためには個人を押しつぶすこともあると考えた。そこで道義的な価値と政治的な力関係がどう係り合うかという事であった。英国労働党のクロスマン氏は「反抗的人間」がこうも悲劇的に考えるわけが分からないといった。答えが得られない時は問題を変えなければならない。カミュの問題提起よりもクロスマンの問題提起が良い問題だと思える。相対的な価値を、力関係だけで決定されるのではない政治的現実のなかで、実現するにはどういう具体的な道があるのかと問う方を選びたい。条件付きでない答えを求めるのは不可能であり、意味のある答えは条件付きでしかあり得ない。そういう考え方はその後の私の政治的問題に対する態度を決定した。対象からの距離感と価値への自己拘束的思考との微妙なつり合いが私の政治にたいする態度となった。英国の外交政策が他国よりも偽善的であるのか、善(価値)を認めてなお偽善の必要性(アルタネイティヴ)も認めるやり方を議善と呼び棄てるのか。この節の大半はこの複雑な論議に費やされたが、最後にヴィーンの娘に対する私自身の「偽善」も告白しなければならない。英国での生活は苦しく、パリに帰ることを考えながら、一人で暮らすことはできても二人で暮らすことはできないだろう。そうすると別れしかないわけで、エジンバラの中世の教会を見る旅を最後にして愛する娘との別れを決意した。変わりゆく私とはいったい何者だろうか、「変わらぬ私」を想像することよりも大きな偽善はあるだろうか。

35) 別れ
英国から帰って、フランスでの外国人労働の許可が下りた。これまでわたしはパリでの生活費を、日本の新聞への原稿料とか、通訳で賄っていたが、日本に組み込まれた生活では外国社会の文化を理解することは不可能であると判断した。フランスで暮らす限り、職をその土地に得ること、その職が表芸であることが望ましかった。私の表芸は内科学、血液学の臨床と研究であった。フランスの国立研究所に職を得るために外国人労働許可の申請をしていたのだが、審査が非常に長引き、忘れた頃に許可を得たのである。フランス留学は当初1年ぐらいで東京に戻るつもりだったが、フランス文化に一種の奥行きを感じて滞在は3年に及んだ。ところが私にとって第2の文化が、単に観察の対象であるばかりか。観察者そのものに影響を与え私を作り変えるようになると、その過程は非可逆的になる状況になるだろう。例えば小泉八雲のように帰化することになるかもしれない。二つの言葉を通じて考えることは、別の二つの事を考えるのと同じこと、おそらく精神にとって致命傷になるだろう。翻訳は本当の問題解決にならない。フランスで深入りすればするほど、日本語による考えから遠くなり、また「去る者は日日に疎し」という様に日本で同じ経験を共有した友人たちから離れてゆくことになる。すべての具体的な経験はその特定の時間の中でしか起こりようがない。パリにいる限り、あたかも生涯をその地に暮らすであろう如くに、暮らし続けるほかはなかった。帰るべきか、帰らざるべきか、もし帰るならそれは近い将来でなければならない。私はロンドンで娘と別れてから関係を断つために手紙を書かなかった。彼女は突然パリの私の前に立った。すると英国での私の決心は忽ち変わった。京都の女との3人が不幸になるより、二人が幸福になればいいと計算したわけではない。私はすでに彼女と暮らすことを決めていた。私はフランスを離れる前に、彼女を連れて南フランスに出かけた。今度こそある意味で私たちの最初の旅になるだろうという予感がした。いつか彼女は日本にやって来るだろう。その旅の終わりに私たちは再び出会い、一緒に暮らすようになるだろうと確信していることを告げた。フランスから永久に去ろうとしているのではなく、滞在を中断しようとしていたのである。彼女は私の妻となり、その後の私は、しばしば欧州で暮らすようになった。(このくるくる変わる心境の変化と、あいまいな生活プランを結婚というのかどうか、難しいですね)

(つづく)