ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

医療問題 帝京大学病院におけるアウトブレイクに警察権力の介入を許すな

2010年09月08日 | 時事問題
医療に関する提言・レポートfrom MRIC(2010年9月7日)「帝京大学病院におけるアウトブレイクに警察権力の介入を許すな」 森澤雄司 自治医大大学病院感染制御部長 より

 帝京大学病院の多剤耐性アシネトバクター・バウマニによるアウトブレイクが報道されて、待ってましたとばかり警視庁が業務上過失致死の疑いで動き出した。冷静に病院内を考えてみよう。病院そのものが感染症の温床であり、患者に応じて多様な抗生物質を集約して使う場であり、医療行為には常に感染リスクが付きまとうものであり、感染媒体である医師・看護師が病室間を動き回っているし、病院内には免疫力の弱いがん患者が存在するという条件がそろった場所である事をよく認識しておこう。多剤耐性アシネトバクター・バウマニはMRSAや多剤耐性緑膿菌とあわせ対策が困難である。医療従事者の手指衛生と個人防備具使用の徹底と、水周りなど環境対策が重要なことはいうまでもない。多剤耐性アシネトバクター・バウマニは抗菌薬耐性獲得業の優れもので殆どの抗生物質に耐性を持っている。厚労省も多剤耐性アシネトバクター・バウマニに注目し2009年1月に病院内における発生を報告するよう通知をだしているが、これには法的義務はなく「お願い」レベルの通達であった。したがって「保健所への通知が遅かった」という批難は当たらない。ここで心配なのは厚生官僚が自己保身に走って、病院への行政処分という安易な仕事をする可能性があること、警視庁が「医療従事者の怠慢で感染が起きた」というストーリーをでっち上げて「医療事故」にすることである。これによって病院は萎縮し、必要以上に防護的になると第2の「大野病院事件」により「医療崩壊」を一層に進めてしまうことが危惧される。冷静な当事者対応が求められる。

読書ノート 松岡正剛著 「知の編集工学」  朝日文庫

2010年09月08日 | 書評
情報はひとりではいられない 編集とは関係の発見である 第5回

第1部 編集の入り口  1)ゲームの愉しみ(2)

 連想ゲームという遊びがある。「風が吹いたら桶屋が儲かる」という因果関係の連鎖ゲームではなく、何が出てくるか分らない言葉の分岐ゲームである。ひとつの言葉には周辺領域が広がっていて、様々なイメージがぶら下がっている。ひとつの言葉は常になにかの言葉につながろうとしている。連想ゲームはデマの伝達の研究やコミュニケーション論につながってゆけるのである。言葉は記号に過ぎないが、言葉によってそれに対応するイメージを喚起することが出来る。言葉の辞書にはイメージの地図が連関していることが出発点である。どのように二つが対応するのかには「ツールの群」が必要で、経験によって獲得するとか、本来人間には文法を生成する能力があるとか説がある。情報連鎖の関係を編集といってもよく、連想ゲームは言葉遊であるが、遊びの本質は編集にある。遊びにはわくわくするような知的興奮が隠れている。遊びの種類には、競争顎ーン、偶然アレア、真似ミミクリー、熱狂イリンクス、興奮パイディア、無償ルドゥスがあるといわれ、興奮パイディアと無償ルドゥスが編集の本質である。日本の伝統的言葉遊びである連歌、句会にも通じている。ルールを設けて情報の連鎖を楽しむのである。このような座の状況は編集的状態にあるといえる。
(つづく)

文藝散歩 ショーペンハウエル著 「哲学小論文集 三部作」  岩波文庫

2010年09月08日 | 書評
「意志と表象としての世界」を補遺・注釈する哲学小論文 第2回

 アルツール・ショーペンハウエル(1788-1860年)はドイツの哲学者でカントの観念論の流れに位置する。欧州では市民革命後の産業革命の時期で、日本では幕末の時期である。本書はショーペンハウエル晩年の著書「パレルガ・ウント・パラリポーメナ」(1851年)のなかの一部である。主著「意志と表象としての世界」(1819年)は彼の30歳にして完成した哲学体系であり、それ以降の彼の人生は主著の注釈・付録・補遺に終始した。その労作「パレルガ・ウント・パラリポーメナ」はその内容からすると、彼の「哲学小論文集」である。「哲学随筆集」といってもよい。本当にこの著作を理解するには当然主著を読んでいたほうがよいのだろうが、何せ大部であり、難解な「観念論」であるので遠慮したい。主著を知らずとも一応読めるのが「哲学随筆集」の謂れであろう。ショーペンハウエルの主著「意志と表象としての世界」は発行以来長い間無視されてきたようであるが、主著よりもこの「哲学小論文集」は人々に愛読されてきた。それは歯切れのいい辛口の厭世観に満ちた「警句」や「アフォリズム」は読む人の知性を刺戟するからである。ショーペンハウエルの哲学は我国においてあまりポピュラーではないし、真正面から問題にされることもなかったという。欧州では19世紀中頃以降からショーペンハウエルの哲学に関する関心が高まり、ニーチェなどにも影響を与えたといわれる。ショーペンハウエルは一流の文章家であり、警句箴言の大家である。彼の文章中で「天才」という言葉が頻出するので、彼の哲学を私のような凡才ではとても理解できるわけはないのだが、この三部作に関しては面白くて分りやすい。彼は「カントと自分の間には何も見るべきものはない」とドイツ観念論の正統と自負して、ヘーゲルをコテンパンに貶しているが、この辺の哲学上の論争については私は立ち入らない。ただ出版会やジャーナリズム批判については今でも十分新鮮である。
(つづく)

筑波子 月次絶句 「高雲爽気」

2010年09月08日 | 漢詩・自由詩
九月江村涼到遅     九月江村 涼到る遅く

高雲爽気病躯知     高雲爽気 病躯知る

秋冥菊淡和苔長     秋冥菊淡く 苔に和して長く
     
百日紅衰拂檻垂     百日紅衰え 檻を拂って垂る

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(韻:四支 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)

CD 今日の一枚 モーリス・ラベル 「ピアノ協奏曲 ほか」

2010年09月08日 | 音楽
モーリス・ラベル ①「ピアノ協奏曲」 ②「左手のためのピアノ協奏曲」 ③「バレエ ジャンヌの扇」 ④「古風なメヌエット」 ⑤「組曲 クープランの墓」
ピアノ:マルタ・アルゲリッチ クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団
DDD 1984 ドイツ・グラモフォン

ピアノ協奏曲は1931年、左手のピアノ協奏曲は1930、組曲クープランの墓は1917年の作品。ピアノはマルタ・アルゲリッチとアバドの組み合わせは異彩を放つ。