ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 中野雅至著 「公務員大崩落」 朝日新書

2010年06月24日 | 書評
公務員制度改革を前に、激変する霞ヶ関と地方公務員 第7回

内閣人事一元化と天下り廃止で国家公務員はどうなるか (2)

 天下りとは「コネ、金、権限を使った不当な押し付け的人事」のことをいい、官僚の再就職の事をさす。天下りは国家公務員と一部の地方公務員に特有の現象である。これを管理しているのが各省の総務課である。天下りの大きな原因は、早期退職勧奨であるといわれる。省内ポストが限られているため、平均的に57歳で肩たたきとなり、受け入れれば自省の外郭団体やコネの聞く業界に再就職の斡旋をおこなう。数回の「わたり」によって数億円の老後収入を得、次官経験者は死ぬまで面倒を見るという慣例があるとか聞く。天下りの対象者であるか弔慰状の公務員は毎年1200人が辞めてゆく。斡旋を受けて天下るのは61%となっている。天下り先は今や建設業界を除いては、規制緩和で公の恩恵がなくなったため、民間企業に再就職することはまれで、最も多いのは非営利法人である。具体的には特殊法人、認可法人、独立行政法人、公益法人で全体の50%になる。天下り先の非営利法人には補助金などが流れ込むシステムが作られている。各省が非営利法人に給付している税金は年間13兆円である(事業費をふくむ、2006年度予算80兆円)。国家公務員の人件費が約5兆円である事に較べても膨大な額である。要するに政府が行う仕事のかなりの部分をそのまま非営利事業団体が代行しているのである。そこに管轄省のOBが貼り付いている構図である。各省の事務次官経験者の天下りとわたり先は一定の轍を踏んで行われる。局長クラス退職者の年金水準と最終年収の割合は622万円、33%であり、課長クラス退職者では451万円、32%であり、国内一流民間企業に較べて決して低い水準ではない。こんなにたくさんの年金を貰っているサラリーマン退職者はいない。
(つづく)

読書ノート 祖父江逸郎著 「長寿を科学する」 岩波新書

2010年06月24日 | 書評
平均年齢90歳時代を迎える超高齢社会を前に 第8回

3)長寿の科学 (2)

 年齢と共に認知症のリスクが高まるが、認知症とは曖昧な捉え方であったので総合すると、「慢性的進行をとって、高次大脳皮質機能である記憶・思考・見当識・計算・学習・判断機能が低下し、情動の統制や社会行動の低下が見られ、意識障害はないが、せん妄が共存することがある」とされる。65歳以上の高齢者の認知省の有病率は4-6%とされる。間もなく認知症老人は300万人を超すことが予想される。老人施設の入所者の80%は認知症である。認知症は脳血管性とアルツハイマー型に分けられる。今やアルツハイマー性の方が多くなっている。アルツハイマー型の特徴は大脳皮質の萎縮、組織所見でアミロイド蛋白(Aβ)老人斑、PHFτ蛋白神経原線維変化が見られる。アルツハイマー型認知症に一部は家族性遺伝があり染色体上の3種の遺伝子異常(APP、PS1、PS2)が発見された。またアポリポ蛋白質(ApoE)遺伝子の関与もあるという。アルツハイマーマーカーとして脳脊髄液中のリン酸化τたんぱく質の指標がある。アルツハイマーの治療は対症療法的なものが主で、なかでもアミロイド蛋白(Aβ)を免疫的に攻撃するワクチンが部分的に成果を挙げている。進行を抑制することが主で改善することは難しい。認知症を呈する神経線維変性疾病のなかでアルツハイマーについで多いのがレビー小体型認知症である。パーキンソン症に似たパーキンソニズムと認知症が主症状で、ビー小体という封入体が脳幹だけでなく大脳皮質、扁桃核に多数存在するという特徴がある。認知症の予備軍といわれる軽度認知障害MCIが最近注目されており、「もの忘れ外来」が各地に設置されている。65歳以上では約25%がMCIにあたり、程度の差こそあれ高齢者の誰もがこのような状態になる。
(つづく)

文藝散歩  堀田善衛著 「定家明月記私抄」 ちくま学芸文庫

2010年06月24日 | 書評
歌道確立と昇進買官と庄園経営の悪戦苦闘の人生 第18回

承久元・二年記(1219-1220年)

 正月27日将軍実朝が右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に行く時、勅使と共に公暁に暗殺された。こうして実朝は鎌倉幕府から排除されたのである。その公暁も三浦義村により暗殺された。暗殺者をけしかけて成功すれば暗殺者も消してしまうのが権力である。こうして、名実ともに頼朝由来の源氏を滅ぼして、北条政子の下に北条氏が実権を握った。北条は平家であったのだ。再度権力は平家の別派に戻った。そして政子の密約通り、後鳥羽院の皇子頼仁親王を鎌倉将軍に願い出た。しかし後鳥羽院は鎌倉に皇子を送ると権力が二分されることを畏れてなかなか認可をしなかった。幕府は伊賀光季と大江親広を京都守護に送って院に圧力を加えた。こうして院と幕府の間に陰湿な抗争が始まり、危機が迫まる。その時定家は順徳天皇の歌指導に当っている。順徳天皇は穏かな人であり、歌に目覚めて歌論書「八雲御抄」、有職故実の書「禁秘抄」、日記「順徳御記」を残した。院は実朝の薨去を弔うと同時に、寵愛していた元白拍子「伊賀の局」の荘園から地頭を廃するように要求をした。これに対し幕府は地頭の廃止を拒否し、北条時房に千人の兵をつけて京に拒否回答を突きつけた。一挙に緊張は高まり、宮廷は将軍に皇族は出さないが、摂関家の子を差し出した。この道家の子丑寅丸(九条頼経)は院より将軍宣下を受けておらず、将軍位、正五位下の宣旨を受けたのは実に後堀川天皇の時である。定家は鎌倉派公卿九条家の家司であり、その子為家に関東御家人宇都宮頼綱の娘を嫁に取った。宇都宮頼綱の妻は執権北条時政の娘であり、定家はこれでますます鎌倉との縁を強めたことになった。承久2年2月順徳天皇の歌会に定家は母の忌日にあたるとして、二首の歌を提出して欠席した。その内の1首「道野辺の野原の柳したもえぬ嘆きの煙くらべに」という歌を後鳥羽院が見て、激怒を買い「勅勘」閉門の処置を受けるという事件が起きた。歌において叙景は叙心を導くきっかけみたいなもので、歌には多重性が付き物で、いわば気心の知れ人々との間では暗号みたいなものである。歌に和すも歌にチクリとくるのもコミュニケーションしだいである。第三者にはさっぱり訳が分らない。長い間の鬱積が爆発したのだろうとしか言いようがない。後鳥羽院は定家との長い確執はいわば宿阿のように続き、院は配流先の隠岐島までその因縁を持ち込んで「御鳥羽院御口伝」にながながと弁明を書くのである。定家の歌は他人が和するための条件を欠く、雰囲気のない社交性のない、いわば独立した自由な歌に変わっていたのである。定家の中で宮廷文化の本質をなす和歌の精神が既に終焉していた。帝にとって和歌は臣下の思想調査であり、自分との距離を測る重要な手段であった。この頃謹慎中の定家は、近代秀歌、二十四代集、毎月抄などの歌学書や歌集を編んでいる。定家は和歌を家芸として独占的に伝える家元制の先駆者であった。歌道=家道の形成の意図を愈愈明らかにしてゆくのである。
(つづく)

月次自作漢詩 「初夏村居」

2010年06月24日 | 漢詩・自由詩
江北山園緑一村     江北山園 緑一村

南風五雨竹生孫     南風五雨 竹は孫を生ず

槐陰声遠鳩鳴午     槐陰声遠く 鳩午に鳴き
    
茅屋籬前犬吠昏     茅屋籬前に 犬昏に吠える


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(韻:十三元 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)

CD 今日の一枚 ブラームス 「弦楽6重奏曲 第1番、第2番」

2010年06月24日 | 音楽
ブラームス 「弦楽6重奏曲 第1番、第2番」作品18、作品36
ベルリン・フィルハーモニー 弦楽8重奏団員
DDD 1968 PHILIPS

弦楽6重奏曲とは四重奏にヴィオラとチェロを追加した編成で、各パート2本づつとなり、忠低音が分厚くなる。ロマン派ならではの編成である。第1番は1860年の作品でブラームス27歳の時の作品。第2番が1865年の作品。しぶい室内楽を聞かせるブラームスの傑作。