とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 413 歌うたいのバラッド uta utai no ballad

2018-08-23 01:05:29 | 日記
初めて知りました。正直驚いています。しっかりした音調。英語の発音の美しさ。ルックスも国際的。どうして国内でどんどん出ないのか。不思議に思っています。


歌うたいのバラッド uta utai no ballad


BENI(ベニ、1986年3月30日 - )は、沖縄県出身の女性歌手。デビュー以来、本名の安良城 紅(あらしろ べに)で活動していたが、2008年11月にレコード会社移籍に伴い、ゲスト出演時に使用していた「BENI」に改名。


沖縄県に生まれ、沖縄とアメリカを行き来する幼年期を過ごす。
幼少の頃よりピアノを習う。また、両親が音楽好きだったため、アメリカと日本の様々なジャンルの音楽に触れて育った。学校でもいろいろな形で音楽に触れたが、決して英才教育を受けたわけではない。

小学校6年生のときに神奈川県横須賀市に移住し、市内にあるアメリカン・スクールに通う。
2002年、16歳の時にオスカープロモーションが主催する第8回全日本国民的美少女コンテストに出場。それまで歌手選考主体のオーディションには一切参加したことがなく、たまたま知って初めて参加したコンテストで最終選考まで残り、中島美嘉の『Helpless Rain』を歌った。

2004年6月9日、マキシシングル『Harmony』でavex traxよりソロデビュー。
2004年10月、上智大学国際教養学部(旧比較文化学部)国際教養学科に進学。英語中心の世界で生きてきたため、大学も英語で授業を受けられるところを中心に考えて選んだ。しかし、在学中からシンガーとしてデビューすることが決定していたために学業との両立に苦しみ、その後、1年間留年も経験した。

2004年11月25日、『松本清張ドラマ・黒革の手帖』のエンディングテーマ曲である3rdシングル『Here Alone』を発売。オリコンで自身最高となる初登場14位を記録した。

2005年8月6日、アメリカンフットボールのNFLのプレシーズン・ゲーム、NFL TOKYO 2005 インディアナポリス・コルツ対アトランタ・ファルコンズ戦でイメージ・キャラクターと親善大使に選ばれ、日米の各国歌を斉唱し、ハーフタイム・ショーも行った。

2006年2月22日、サッカーAFCアジアカップ予選・インド戦で君が代を独唱。

2007年7月26日、大阪BIG CATにて、続けて同月29日には東京恵比寿Liquid Roomにて、自身初となる単独ライブを開催。デビューから3年間という長い期間、単独でのライブがなく『どんだけ待ったか。超うれしい』と会場で歓喜の声をあげた。Luna、Here Alone、Give me upなど計19曲をファンの前で熱唱。DJに福富幸宏を迎えた。

2008年3月5日、初のベスト・アルバム『Chapter One 〜Complete Collection〜』をリリース。
2008年6月、童子-Tとのコラボレーションによる「もう一度… feat.BENI」が着うたダウンロードナンバー1になった。また、共同名義だが同曲により、オリコン自身最高の6位達成。「ミュージックステーション」にも数年ぶりの出演を果たした。

2008年8月、所属事務所オスカープロモーション、9月、レコードレーベルavex traxとの契約がそれぞれ終了。
2008年11月、ユニバーサルミュージックへ移籍し、名義を本名からBENIへ変更した。
2009年9月18日、自身のブログで上智大学を卒業したことを報告。

2013年11月13日発売のメアリー・J.ブライジのクリスマス・アルバム『A Mary Christmas』(メアリー・クリスマス)の日本盤ボーナス・トラックとして、メアリーとのデュエット曲「星に願いを with BENI」が収録される。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 412 尾崎豊(Yutaka Ozaki) - OH MY LITTLE GIRL

2018-08-22 00:01:49 | 日記
正直言って、私はこの歌手が怖かった。それは、あまりにも自分の内面と共通しているからでした。て言うか、どんどん吸い込まれていく。・・・と言うとかっこつけていると思われるでしょうが、それは誰しもそう思っているからではないでしょうか。

尾崎豊(Yutaka Ozaki) - OH MY LITTLE GIRL


尾崎 豊(おざき ゆたか、1965年11月29日 - 1992年4月25日)は、日本の歌手、作詞家、作曲家、編曲家、詩人、実業家。青山学院高等部中退。血液型B型。身長は公式発表によると178cm。父親は元陸上自衛隊の尾崎健一。歌手の尾崎裕哉は息子。


概略

1983年12月、シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』で高校在学中にデビュー。
ライブでの熱烈で破壊的なパフォーマンスや、夢や愛、生きる意味をストレートに表現した赤裸々な歌詞など、社会や学校の中で感じる葛藤や心の叫びを表現した楽曲の数々が1980年代から1990年代初頭にかけての若者を中心に多くの人から共感を呼び、カリスマ的存在となる。その作品と活動と精神性は、日本の音楽シーンに多大なる影響を与え、作品に迸るメッセージは死去から25年以上経過した現在でも多くのファンやミュージシャンに支持されている。

1992年、あまりにも若すぎる26歳での突然の死は、当時、社会的にも大きな衝撃を与えた。死後25年を過ぎてもなお、尾崎を慕うものは絶えず、新たなファンを生んでおり、彼が遺した曲の数々は多くのアーティストにカバーされ続けている。
ジャクソン・ブラウン、ブルース・スプリングスティーン、ビリー・ジョエル、浜田省吾、佐野元春、井上陽水、アナーキー、甲斐バンド、さだまさしなどから強い影響を受けている。(「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」 411 マイトガイ「ギターを持った渡り鳥」5連発

2018-08-20 03:49:30 | 日記
現代版股旅物といった雰囲気が「マイトガイあきらに」ぴったりだった。視ました、視ました。全作品を視たと思います。主題歌がよかった。哀愁を帯びていて。・・・あの独特の歩き方まで真似したものです。


マイトガイ「ギターを持った渡り鳥」5連発



『ギターを持った渡り鳥』(ギターをもったわたりどり)は、1959年公開の小林旭主演の日本の映画作品。また、小林旭が歌った、同映画の主題歌の題名。

概要

本作品はペギー葉山の歌謡曲『南国土佐を後にして』をもとにした映画作品がヒットしたことを受けて制作された。
元・刑事で今はギターを持って「流し」をしている主人公・滝伸次が見知らぬ土地(本作は北海道函館市が舞台)にやってきて、そこに在住する女性と知り合い、その街で暗躍する黒幕をやっつけて、また別の街へと旅立つというのが作品のプロットである。
本作のヒットを受け、以降1962年まで合計8作の『渡り鳥シリーズ』が制作された。


キャスト

滝伸次 - 小林旭
秋津由紀 - 浅丘ルリ子
庄司澄子 - 中原早苗
リエ - 渡辺美佐子
秋津礼三郎 - 金子信雄
安川 - 青山恭二
殺し屋ジョージ - 宍戸錠
沼田刑事 - 二本柳寛
庄司明夫 - 木浦佑三
海上保安官一 - 鈴木三右衛門
関西弁のマッサージ師 - 神戸瓢介
スーベニヤショップ店主 - 片桐恒男
鉄 - 青木富夫
馬場 - 弘松三郎
海上保安官二 - 伊丹慶治
サブ - 野呂圭介
源次 - 近江大介 (「Wikipedia」より)



あちこち「SYŌWA」 410 南国土佐を後にして/小林旭・浅丘ルリ子・ペギー葉山

2018-08-19 00:53:01 | 日記
タイトルの「SYOWA」のОを「Ō」にしてみました。しかし、何だか小さなゴミがついているみたいで嫌な気持ちになりました。間違っていても次回からもとの表記に返します。・・・さて、小林旭がこの映画でブレイクしたということをテレビで知り、早速アップしました。
ペギー葉山も出ていますね。何と素晴らしく当時の日活の雰囲気が出ていて懐かしく思いました。マイトガイ。いや、いいですね。裕次郎とは違った繊細さと影を持っていて、私は当時熱烈なフアンでした。

南国土佐を後にして/小林旭・浅丘ルリ子・ペギー葉山/映画予告篇



小林 旭(こばやし あきら、1938年11月3日 - )は、日本の俳優、歌手である。本名は同じ。身長180cm、体重98kg、血液型AB型。特技は柔道五段、ゴルフ。愛称は、マイトガイ。


人物・来歴

東京市世田谷区出身。子役を経て第3期日活ニューフェイスに合格。目黒高等学校を経て明治大学文学部中退。1956年(昭和31年)、映画『飢える魂』でデビューした。1959年(昭和34年)公開の映画『南国土佐を後にして』で脚光を浴びる。以降、映画「渡り鳥」シリーズ、映画「旋風児」シリーズに主演。石原裕次郎らとともに日活の黄金時代を築く。しかし興行収入が裕次郎主演作より上だった年もあったが、裕次郎よりギャラは低かった。

1958年(昭和33年)、日本コロムビアより「女を忘れろ」で歌手デビューした。映画の『ギターを持った渡り鳥』、映画『銀座旋風児(ぎんざマイトガイ)』などの主題歌、挿入歌を歌い、ヒットさせる。また、「自動車ショー歌」(2005年(平成17年)に放送されたアサヒビールの「カクテルパートナー」のCMソングはこの「自動車ショー歌」をアレンジした「カクパーショー歌」である)、「恋の山手線」などのコミックソング、「昔の名前で出ています」などの演歌も歌っている。これらの楽曲を独特の歌唱で歌いこなす姿から、総称して「アキラ節」と呼ばれることが多い。

1960年(昭和35年)頃、映画での共演をきっかけに浅丘ルリ子と同棲したが、後に解消。

その後、美空ひばりと雑誌での対談をきっかけに交際を始めるが、結婚などはまだ考えていなかったにも関わらず、ひばりの意を汲んだ父親代わりの山口組三代目・田岡一雄から強引に頼まれ拒めず、1962年(昭和37年)に結婚。「(結婚生活では)ひばりは懸命によき妻を演じようとし、女としては最高だった」と『徹子の部屋』で述懐している。小林とひばりは、ひばりの母の反対で戸籍上は入籍していない事実婚で、戸籍上はひばりは生涯独身であった。1964年(昭和39年)に事実婚を解消。会見の2日前にひばり親子から頼まれた田岡が小林に「ひばりをみなさんに返してやりや」と引導を渡され、逆らうことは出来なかったと自著で述べている。記者会見は別々に開かれ、小林の会見には田岡と菱和プロ社長・嘉山登一郎が同席した。小林は「本人同士が話し合わないで別れるのは心残りだが、和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより、芸術と結婚したほうが幸せになれるのなら、と思って、理解離婚に踏み切った」と説明。この「理解離婚」という言葉は当時流行語となった。また「未練はいっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ」と自身の本意でなかったと語っている。

1964年(昭和39年)、クラウンレコードへ移籍し、1967年(昭和42年)には女優の青山京子と再婚。

1970年(昭和45年)から1971年(昭和46年)に、すっかり客足の鈍った日活と大映はダイニチ映配を発足させ、次々に作品を製作するも、両社ともども迷走し、多大なる赤字を被る。自らが主宰するアロー・エンタープライズが製作、そして主演し、得意のアクションを披露したテレビドラマ『ターゲットメン』などを含めた事業の失敗により、小林は14億円もの債務を背負う。

1972年(昭和47年)に東映に入社。1973年(昭和48年)より映画『仁義なき戦い』シリーズの『仁義なき戦い 代理戦争』、『仁義なき戦い 頂上作戦』、『仁義なき戦い 完結篇』の武田明役で出演。『京阪神殺しの軍団』などの東映実録映画や1978年(昭和53年)、『多羅尾伴内』のリメイク作に主演した。シリーズ化する予定であったが、2作目が興行不振となり打ち切られた。1979年(昭和54年)にはヤンマーの農業用トラクター「ヤンマーディーゼルトラクタ・YM2210」のテレビCMに出演した。

1977年(昭和52年)、発売から2年を経た歌『昔の名前で出ています』で、『第28回NHK紅白歌合戦』に初出場し、1996年(平成8年)までに7回『紅白』に出場した。

1980年(昭和55年)、『旅がらす事件帖』(関西テレビ・フジテレビ系)でテレビ時代劇初主演を飾ると同時に、主題歌「みだれ雲」を歌い、話題となった。翌年の1981年(昭和56年)には、『旅がらす事件帖』と同じスタッフによる『幻之介世直し帖』(日本テレビ系)に主演。主題歌「思いやり」を歌うと同時に、最終回(第24話)では、乾幻之介役の小林自ら監督も手掛けた。
同年、ポリドールへ移籍し、1985年(昭和60年)に小林の大ファンでもあった大瀧詠一が小林のために書き下ろした(作詞は阿久悠)「熱き心に」がAGFのCMソングとしてヒットし、1986年(昭和61年)の『第37回NHK紅白歌合戦』に2回目の出場を果たす。2002年(平成14年)には大瀧の企画・監修による4枚組CDが発売された。
1988年(昭和63年)、『春来る鬼』で監督業に進出するも、興業不振となる。その後1992年(平成4年)『修羅の伝説』で俳優業に復帰する。

2004年(平成16年)、芸能生活50周年を記念し、石原裕次郎や美空ひばりとのことなど、それまでの人生についてに綴った『熱き心に』を出版した。
2006年(平成18年)、本人をモチーフにしたパチンコ機「CR渡り鳥AKIRA」(藤商事)が登場した。
2007年(平成19年)2月23日、日本プロゴルフ協会(PGA)から、川上哲治、羽佐間正雄らとともにPGA名誉会員(2006年に制定)に認定される。名誉という肩書きではあるが、実際にプロの試合に出て賞金を稼ぐことも可能である。プロとしてシニアツアーに2007年に1試合、2008年(平成20年)は4試合に出場したが、ある試合の帰りに試合開催地同県で知人に頼まれ友人のパーティーに参加して欲しいと懇願され行った結果、実は暴力団のゴルフコンペがのアフターパーティーだった。
そのパーティーには大物演歌歌手、フォークシンガーや、美人演歌歌手が招かれていた。
この招待客を狙って張り込んでいた週刊文春の記者が、たまたま来た小林旭を、あたかも招待客でコンペまで参加したように記事を捏造した。
実際にはコンペには参加しておらず、この日招待もされていなかった。
以上の経緯を当時のPGA会長・松井功に咎められ同年にPGA名誉会員の資格を辞退した。
協会は事実の調査はせず、本来守るべき協会員を突き放すような処罰だった。

2007年(平成19年)4月、インディーズのレコード会社UKプロジェクト内に自身のレーベルである「マイトガイレーベル」を設立[8]。マイトガイレーベル第1弾CDとなる、本人の作詞・作曲による新曲「折紙人生」が、NHK『ラジオ深夜便』の7月から9月の「深夜便の歌」として採用される。また、同7月には大阪新歌舞伎座で舞台『無法松の一生』にて20年ぶりの座長公演を務めた。
2014年(平成26年)3月19日から開幕した主演の舞台「熱き心で突っ走れ」にて全国50公演以上の座長公演を務める。
2017年(平成29年)10月5日、フジテレビ系『バイキング』にて、芸能生活で初めてコメンテーターという立場でのテレビ出演を果たした。 (「Wikipedia」より)