とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 404 津軽海峡冬景色 石川さゆり 

2018-08-11 23:22:43 | 日記
十九歳でこの熱唱。歴史に残る名歌謡として永久に歌われることと思います。力強い高音は誰もマネは出来ないと思います。

軽海峡冬景色 石川さゆり Ishikawa Sayuri



石川 さゆり(いしかわ さゆり、1958年1月30日 - )は、日本の演歌歌手。本名・石川 絹代(いしかわ きぬよ)。熊本県飽託郡飽田村(現・熊本市南区)出身。堀越高等学校卒業。

略歴

小学1年の時、島倉千代子の歌謡ショーに接し感動、次第に歌手を志すようになる。小学5年10歳の時に一家で横浜市神奈川区に転居、のち歌のレッスンを受け始める。

1972年、横浜市立城郷中学3年在学中の夏休みに、フジテレビ系列の「ちびっ子歌謡大会」に(応募したものの参加できなくなった友人に替わって)参加し合格、ホリプロにスカウトされ芸能界入りを果たす。同年秋に放映されたフジテレビの連続ドラマ「光る海」では、沖雅也の妹役としてレギュラー出演していた。

1973年3月25日、「かくれんぼ」でアイドル歌手として日本コロムビアよりデビュー(キャッチフレーズは「コロムビア・プリンセス」)。しかし、歌手デビューから暫くは「花の中三トリオ」(森昌子・山口百恵・桜田淳子)の影に隠れた事も有ってか、大きな人気を得るには至らなかった。

1977年、前年1976年に発売されたアルバム『365日恋もよう』からシングルカットされた「津軽海峡・冬景色」で、大ブレイクを成し遂げる。同年末のTBSテレビ系「第19回日本レコード大賞」歌唱賞や、フジテレビ系列「FNS歌謡祭」グランプリ(ほか最優秀歌唱賞・最優秀視聴者賞も獲得)など数々の音楽賞を受賞、さらに「第28回NHK紅白歌合戦」へも念願の初出場となった。ほか、同1977・翌1978年発売のシングル「能登半島」「暖流」「沈丁花」なども続けてヒットする。

1980年代に入ってからも、「波止場しぐれ」「天城越え」「夫婦善哉」「滝の白糸」「風の盆恋歌」などと順調にヒット曲を世に送り出し、日本を代表する女性演歌歌手の一人となった。

また、刑事ドラマ「大空港」に女性刑事役でレギュラー出演し、大河ドラマ「功名が辻」に出演するなど、女優としても活躍している。
1981年、元マネージャーの馬場憲治と結婚。1984年2月に長女・佐保里を出産するも、1989年2月に離婚し、以後独身である。石川は「私は平成に入って最初に離婚した芸能人」と明るく語っている。

芸能界・歌手デビュー時からホリプロに所属していたが、個人事務所「株式会社さゆり音楽舎」を設立し1997年に独立。
1980年代後半にはカラオケボックス運営会社「カミパレス」の経営を知人と行い、国民銀行の融資のもとで30店舗ほど展開する実業家の一面もあった。しかし後に経営からは退き、カミパレスは1999年9月に破産宣告を受けた。

経営破綻した国民銀行が1995年にカミパレス対して行った35億円の融資について、不良債権を引き継いだ整理回収機構が石川個人が契約した連帯保証の残金28億円余りの支払を求める損害賠償請求を提起。2003年に東京地裁で一審判決が出たが、その内容を不服とした整理回収機構が抗告すると共に石川の自宅を一時差し押さえた。同年に10億円の賠償金支払いで決着している。

所属レコード会社は、デビューから20年間日本コロムビアに所属したが、1993年にポニーキャニオンへ演歌部門第1号として移籍。1999年に同社の演歌部門が撤退となり、2000年にテイチクエンタテインメントへ移籍し現在に至る。「津軽海峡・冬景色」など初期の楽曲の原盤権はホリプロが保有している。

好きな男性のタイプは、「年下より、ずっと年上の人がよい。いろいろ教えてくれる人の方がいい」と語っている(2007年放送「メレンゲの気持ち」より)。

2013年11月8日、女性演歌歌手の先輩として慕い続けた島倉千代子が75歳で他界。同年11月14日、島倉の葬儀・告別式で石川は後輩歌手の代表として「島倉さんの『さゆりしっかりしろ』という声が聞こえるようです。頑張ります」と涙声で弔辞を読んでいた。

2015年12月30日、TBSテレビ「第57回日本レコード大賞」において日本作曲家協会奨励賞を受賞した。
2018年3月、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。(「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」 403 明日は明日の風が吹く 映画より:石原裕次郎

2018-08-11 07:24:06 | 日記
昭和を代表する映画スターの一人。日本人のイメージを変えた人でもあると思います。総持寺にお参りしました。確かに下記の言葉が刻されていました。ご冥福をお祈り申し上げます。・・・この唄は今でも唄えます。

明日は明日の風が吹く 映画より:石原裕次郎


石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年(昭和9年)12月28日 - 1987年(昭和62年)7月17日)は、昭和時代を代表する俳優、声優、歌手であり、司会者やモデルといったマルチタレント。実業家・ヨットマンとしても活動していた。身長178cm、血液型はA型。愛称はタフガイ・裕ちゃん・ボス・ユージロー。石原プロモーション元代表取締役社長(初代)兼会長。
兄は政治家で作家の石原慎太郎。

来歴

概要

兵庫県神戸市須磨区、北海道小樽市、神奈川県逗子市に育つ。父・石原潔(山下汽船社員)は愛媛県、母・光子は広島県宮島の出身。

マリア幼稚園(現在の小樽藤幼稚園)卒園、稲穂国民学校時代に競泳や天狗山 でスキーに親しむ。逗子中学校時代からはバスケットボールに熱中した。その後、慶應義塾高等学校を目指すが受験に失敗し、慶應義塾農業高等学校に籍を置くが、1951年に慶應義塾高等学校に編入学。卒業後は慶應義塾大学法学部政治学科に内部進学するが、放蕩生活に明け暮れる。

大学在学中から、俳優を目指し東宝と大映、日活のオーディションを受けるも全て不合格。しかし1956年に、映画プロデューサー水の江瀧子と兄・慎太郎の推薦があって、慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の端役で映画デビュー。

その後、慶應義塾大学を中退して日活に入社。『太陽の季節』に続いて製作された、同じく慎太郎原作の映画化作品『狂った果実』では、後に妻となる北原三枝を相手役に主演。その後は歌手・俳優として活躍し、主演映画が連続ヒットし、瞬く間に昭和を代表する日本最高のスターの一人となったが、ケガや病気に苦しんだ一生でもあった。

1963年に石原プロモーションを設立。1970年代以降は映画から離れ『太陽にほえろ!』、『大都会』などテレビドラマで活躍した。戒名は陽光院天真寛裕大居士。墓は万成石五輪塔で神奈川県横浜市鶴見区にある總持寺に立てられている。墓碑には妻直筆で次のような言葉で綴られている。

「美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。」

2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の2位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第6位になった。

2018年7月17日に行われた32回忌法要では、妻である石原まき子や舘ひろし、神田正輝ら石原プロモーションの俳優たちとファン約600人が参列。法要終了後には、同年8月22日より2年間全国8箇所を巡り石原裕次郎ゆかりの品々を展示する、「石原裕次郎の軌跡」展を開催することを発表した。(「Wikipedia」より)