とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 305 渡部絵美 - 1976 Olympics - Free Skate

2018-03-06 17:41:51 | 日記
日本のフィギュアスケートの黎明期と言っていいでしょうか、とまれ、まだ、もともとのフィギュアの競技があったころの選手です。それは渡部絵美選手。可愛らしい笑顔が素敵な選手でした。


Emi Watanabe - 1976 Olympics - Free Skate


渡部 絵美(わたなべ えみ、本名:渡部・キャスリン・絵美、1959年8月27日 - )は、1970年代に活躍した日本の元フィギュアスケート選手(女子シングル)、タレント、プロスケーター。現在はタレント兼プロスケーター。エミ・エンタープライズ所属。1979年世界選手権3位。1980年レークプラシッドオリンピックでは6位入賞を果たす。1972年から全日本選手権8連覇。東京都出身[2]。専修大学卒業[2]。公認候補者として所属した自由連合では政策審議会副会長を務めた。

経歴

アマチュア時代

10歳年上の姉の影響で2歳でスケートを始め、8歳から本格的にスケートを習う。10歳のときに稲田悦子コーチの提案でアメリカ合衆国ミネアポリスにスケート留学をする。元世界チャンピオンでガルミッシュパルテンキルヘンオリンピック銅メダリストのフェリックス・カスパーの指導を受けて才能をのばす。
1972年、12歳で競技会にデビュー。初出場の全日本フィギュアスケートジュニア選手権、全日本フィギュアスケート選手権で優勝。その後、全日本フィギュアスケート選手権では引退するまで8連覇を果たした。この連覇記録は女子では伊藤みどりと並び現在も破られていない。

1976年、インスブルックオリンピックに16歳の若さで出場し、13位に入る。
1977年、東京で開催された世界フィギュアスケート選手権では12位と不本意な成績に終わる。しかし、彼女の基礎技術の正確さとジャンプの質の良さが国際スケート連盟の役員達の目にとまり、この時期から暫くの間ISUのマニュアルに「2回転アクセルは、渡部絵美のように跳ぶのが理想的である」と表記されるようになったという逸話がある。
高校卒業後、引退を考えたが、カルロ・ファッシの誘いでアメリカに再留学する。1979年の世界フィギュアスケート選手権では、日本女子のフィギュアスケート選手として史上初となる銅メダルを獲得。

メダルが確実視された翌1980年のレークプラシッドオリンピックでは、ショートプログラムで得意の2回転アクセルからのジャンプコンビネーションに失敗、フリーでは2種類の3回転ジャンプを決めほぼノーミスの演技だったが福原美和(5位)以来の6位入賞に留まった。1980年の世界選手権でもフリーでトウループ、サルコウの2種類の3回転ジャンプを決め4位となり、3ヶ月後の1980年6月23日、フィギュアスケート界からの引退を発表する。

引退後

2001年、第19回参議院議員通常選挙比例代表に自由連合から立候補し落選。個人名得票6501(自由連合候補者名簿内47名中14位)。
2006年トリノオリンピックの日本代表選考に関して様々なメディアで浅田真央が代表になれると主張したが、これは渡部の個人的意見であった。トリノオリンピック代表の選考は2004年の時点で定められていたオリンピックポイント制(出場した大会の順位毎にポイントを与え、総得点の多い選手を代表とする)によるもので、年齢制限に関しても特例を認めないことが事前の国際会議で決まっていた。そのため、たとえアメリカに移籍しても浅田は出場権を得られなかった。

引退後は、アイスショー等で佐野稔と一時期ペアを組んだり、ジュニアの育成に力を入れていた時期もあったが、1990年代ころからタレント活動、講演も行い、活動の中心はスケート教室で東京を中心に子供たちを教えている。(「Wikipedia」より)

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