とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」707 勘太郎月夜唄 小畑実

2021-03-14 17:22:32 | 日記
この軽快なメロディーはときど心の中を流れます。それほど当時好きな唄だったのでしょう。小畑実。いや、忘れることはありません。


勘太郎月夜唄 小畑実



小畑 実(おばた みのる、1923年4月30日 - 1979年4月24日)は、朝鮮・平壌出身の歌手。本名は康 永喆(강영철)。

経歴

1937年、朝鮮人テノール歌手・永田絃次郎に憧れて16歳で日本に渡り、日本音楽学校に入学。苦学しながら声楽を学んで1941年に卒業すると、その後は江口夜詩の門下となるが、この頃に下宿先の大家で秋田県大館出身の小畑イクに面倒を見てもらったのが小畑姓と秋田出身を称した理由とされる。なお、イクの息子である小畑達夫はいわゆる共産党リンチ事件で死亡している。

1941年2月にポリドールから『成吉思汗』でデビューし、朝鮮半島出身を隠して出身地を秋田県としていた。後にビクターへ移籍し、1942年の『湯島の白梅』が出世作となる。1943年には『勘太郎月夜唄』をヒットさせ新進気鋭の歌手として注目を浴びるが、本格的な活躍は終戦後であった。

テイチク→キング→コロムビア→古巣・ビクターと所属会社を転々としたが、甘いクルーナー唱法で『小判鮫の唄』『薔薇を召しませ』『アメリカ通いの白い船』『長崎のザボン売り』『高原の駅よさようなら』『山の端に月の出る頃』『青い流れに』『ロンドンの街角で』『花の三度笠』など太平洋戦争後に多くのヒット曲を飛ばし、特に『星影の小径』はフランスのシャンソンをベースにしたロマンチックな旋律と「アイ・ラブ・ユー」という英語を歌詞に用いた斬新さに加え、小畑の歌唱の特徴が生かされた傑作でもある。

『平凡』の人気投票で小畑は美空ひばりと共に男女の1位を続けたが、1957年に春日八郎・三橋美智也の台頭で首位から陥落し、これを機に同年の第8回NHK紅白歌合戦出場を最後に一度引退。一時期は実業界に移ってラスベガスでホテル経営に乗り出し、在日社会の関連で紡績会社の重役にも就任する傍ら六本木でレストラン経営などもするが、1969年に折からの懐メロブームもあって『勘太郎いつ帰る』で復帰を果たし、韓国にもしばしば渡り本名で活躍。

小畑も昭和50年代に入った頃から「もう一度ヒットを出したい」と車で地方に出向き、みかん箱の上に乗ってマイク無しで新曲を歌ってレコードを手売りする歌の行商を始めた。ゆるぎない地位を築いている往年の大歌手が、それらを半ば投げ捨て、出たての新人のようなキャンペーンをするということは多くの波紋を呼んだが、奮闘の甲斐があってか『星のない渚』『湯の町しぐれ』はヒットを記録した。その傍らでステージ活動や刑務所の慰問、後進の指導にも精力的に取り組んだ。

1979年4月24日午後4時40分、千葉県野田市の「紫カントリークラブすみれコース」でプレイ中に倒れ、市内の「荒川総合病院」に救急搬送されたが午後5時10分に急性心不全のため帰らぬ人となった。享年55歳。小畑は当日の午前10時に一人でコースを訪れ、初対面の三人とまわっていた。1ラウンドハーフの16番ロングホールのセカンドショットで倒れ、キャディが駆けつけた時には意識不明であった。このゴルフ場には月に5、6回来ていて、56歳の誕生日を前に急死した。(「Wikipedia」より)

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