とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 304 カタリナ・ヴィット Sarajevo 1984

2018-03-06 00:18:47 | 日記
カタリナ・ヴィット。私はこの選手の安定した強さはよく記憶している。風貌も滑りも女王という感じがする。

Katarina Witt Wins Gold - Sarajevo 1984 Winter Olympics


カタリナ・ヴィット(Katarina Witt, 1965年12月3日 - )は、旧東ドイツシュターケン出身の女性元フィギュアスケート選手。1984年サラエボオリンピック及び1988年カルガリーオリンピック・女子シングル二大会連続金メダリスト。世界フィギュア選手権でも4回優勝、欧州選手権で1983年から1988年まで6年連続優勝している。また1994年リレハンメルオリンピックにもプロ選手として出場し、大きな話題となった。日本語では姓を「ビット」と表記している場合もある。



経歴

アマチュア時代

西ベルリンからほんのわずかの距離にあるシュターケンで生まれた。カール=マルクス=シュタット(現ケムニッツ)の学校に通い、その後スポーツ選手の養成校に入学した。1977年にはユッタ・ミュラーの指導を受けるようになった。

1984年のサラエボオリンピックではコンパルソリー3位で通過しショートプログラムで3トゥループ+2ループのコンビネーションで暫定1位になる。対する1983年世界チャンピオンのロザリン・サムナーズはコンパルソリー1位であったが、ショートプログラムで2アクセルをバランスを崩して両足着氷になり、ショート単独では5位になる。フリープログラムでヴィットはトゥループ2回、サルコウ1回、計3回の3回転ジャンプを成功させ、サムナーズを破って金メダルを獲得した。フリーの演技では、2人は1位支持のジャッジを同数獲得した0.1点差の勝利であった。1984年、1985年の世界選手権連覇する。

1986年世界選手権ではコンパルソリー3位で通過するも、ショートプログラムのコンビネーションで、3トゥループ+2ループを大きくバランスを崩して手をついてしまう。ショート単独では4位となる。その後フリープログラムでは1位となったが、総合でデビ・トーマスに敗れて2位となる。

1987年の世界選手権では、前年にデビ・トーマスに奪われた世界女王の座に返り咲いた。規定で5位と出遅れたヴィットに対してトーマスは、ショートプログラム、フリー共に2位でも優勝できるところであったが、トーマスはショートプログラムで2アクセルで手をつくミスを犯しショートで7位となる。順位点が接近してフリーでの2人の対決が実現した。ヴィットはトリプルループを含む5つの3回転ジャンプ(ループ1回、サルコウ2回、トゥループ2回)を決めてフリーで1位となった。

1988年のカルガリーオリンピックでも、ヴィットとデビ・トーマスの2人の直接対決は大きな注目を浴び、共にジョルジュ・ビゼーのカルメンを使用曲にした2人の争いはカルメン対決とも評された。カルガリー五輪女子シングル本番では、規定・ショートプログラムを終えた時点でトーマス(順位点2.0)が1位、ヴィットが2位(順位点2.2)、3位は地元カナダのエリザベス・マンリー(順位点3.6)がつけていた。 迎えたフリースケーティングで、先に滑ったヴィットは4つの3回転ジャンプは成功したものの、トリプルループジャンプがダブルループとなる失敗。ヴィットが暫定トップに立つも、最終滑走者のトーマスに金メダルのチャンスが回った。

しかしトーマスはプレッシャーからか5回の3回転ジャンプのうち3回も失敗してしまい、それが響いて銅メダルに終わる。フリースケーティングのみ演技ではノーミスだったエリザベス・マンリーがトップだったが、総合順位点ではわずかにヴィットが上回ったため、ヴィットがソニア・ヘニー(五輪3連覇を達成)以来史上2人目となるオリンピック2回目の金メダルを獲得した(総合順位点・1位ヴィット4.2、2位マンリー4.6、3位トーマス6.0)。

同1988年世界選手権でも通算4個目の金メダルを獲得した後、アマチュア選手としての現役引退を表明。当時の東ドイツのスポーツ選手としては珍しくプロスケーターに転向した。(「Wikipedia」より)




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