とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」805 Yellow Magic Orchestra -「君に、胸キュン。」 (Official Music Video)

2024-05-23 15:54:41 | 日記
坂本龍一。というと哲学者のようなミュージシャンという印象ですね。実に「教授」ですね。「ライディーン」はイーガールズが音をバックにパフォーマンスしました。三人だけどオーケストラみたいな莫大なエネルギーを発揮しますね。TMとはまた違うパワー集団です。尊敬しています。(敬称略)

Yellow Magic Orchestra -「君に、胸キュン。」 (Official Music Video)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

概要
Yellow Magic Orchestra(イエロー・マジック・オーケストラ)という名称は、細野が1970年代後半に提唱していたコンセプト「イエローマジック」から来ている。これは白魔術(善や白人などの象徴。特に白人音楽)でも、黒魔術(悪や黒人などの象徴。主に黒人音楽)でも、そのどちらでもない黄色人種独自の音楽を作り上げるとして、魔術の色を人種の色にかけて提唱した「黄色魔術」(イエローマジック)である。細野がYMO以外で「イエローマジック」の名前を使用しているものとしてはティン・パン・アレーの曲「イエロー・マジック・カーニヴァル」、細野のアルバム『はらいそ』の作成者名義「ハリー細野とイエローマジックバンド[3]」が挙げられる。また坂本のアルバム『千のナイフ』のライナーノーツの細野の寄稿文でも、イエローマジックについての記述がある。

当時、シンセサイザーを駆使した音楽としては世界的に、すでにドイツのタンジェリン・ドリームやイギリスのエマーソン・レイク・アンド・パーマー、日本の冨田勲などが有名であり、1978年のディーヴォの「頽廃的美学論」やクラフトワークの「人間解体」にも電子楽器の導入は明らかであった。そこでYMOは電子楽器・シンセサイザー音楽の路線をとりつつ東洋趣味をそれと分かる形で歌詞・アレンジ・コンポジションの全てに入れた。プロモーションで黄色人種経由であることを主張(強調)し、バラエティ番組やコント番組などにも多く出演し積極的に露出を増やしていき、認知度を高めた。ライブでは、電子的感覚を強調するためにヴォコーダーを通した声で挨拶する。

クラシック、レゲエ等様々な音楽性を柔軟に取り入れている反面、ポストパンク的なシンプルさや攻撃性とは無縁である。このためテクノ御三家の一角としてムーブメントを支えたP-MODELの平沢進は後年「あれはフュージョンだと思っていた[4]」と、自分たちの音楽性とは乖離があった旨を述べている。


テクノカット
YMOは、そのファッションも特徴的であった。特に、初期のアルバムジャケットやライブでメンバーが着用していた「赤い人民服」(高橋のデザインによる、明治時代のスキー服をイメージした衣装であったが、その形状が中国の人民服と似ていたために、一般的に「赤い人民服」と呼ばれるようになった)、そして、すっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす、当時の若者の間でも流行した「テクノカット」(本多三記夫考案)と呼ばれる髪型(特に、初期では刈りあげ+もみあげなし)の2つは、YMOのビジュアルイメージとして一般に広く認知されている。

メンバー
YMOは、元々はコンセプトバンドとして構想されたものであり、細野はメンバーの人員構成は流動的にする考えを持っていた[5]が、ライブなどでサポートメンバーを迎えることはあってもYMOのメンバー自体は結成からメンバー死去までこの3人である。

下記の担当パートについては主に演奏されるものであり、一部のレコーディングやライヴ、テレビ番組ではこれら以外のパートを担当することもあった。坂本龍一は、ライヴでドラムスを披露する曲もある。

細野晴臣(エレクトリックベース・シンセベース・コーラス)
エイプリル・フール、はっぴいえんど、ティン・パン・アレーを経て、YMOを結成。YMOのリーダー・プロデューサーであり、シンセサイザーとコンピュータを用いるYMOの音楽スタイルを打ち出した。宗教や民俗学など神秘主義的な趣味があり、それらもYMOに影響を与えている。ライヴではほぼベーシストに徹し、曲によってはシンセサイザーをベース代わりに演奏していた。YMO散開後は特にアンビエント、エレクトロニカ等のジャンルを取り入れている。

高橋幸宏(ドラムス・ボーカル)
サディスティック・ミカ・バンド、サディスティックスを経てYMOに参加。1978年6月21日のオムニバス・アルバム『PACIFIC』収録の「コズミック・サーフィン」や、1979年のMAKOTO HIGHLAND BAND『INJECTION』など、コンピューターのビートと同期した上で、グルーヴを生み出すドラムを初めて演奏したドラマーとなった。YMOの楽曲では、大半の楽曲でリード・ボーカルを担当。ファッション・デザインの技能を生かしてYMOではステージ衣装のデザインを手掛けた。YMO散開後はソロ活動とともに、様々なミュージシャンとのコラボレーションやプロデュース業を展開している。音楽の方向性の相違などで険悪になりがちだった細野と坂本の間を取り持つ立場でもあった。サディスティック・ミカ・バンド時代、ロキシー・ミュージックの前座としてロンドンでライブを行ったことがあり、結成当時メンバーで唯一、日本国外でのライブを経験していた。2023年1月11日死去。70歳没。

坂本龍一(キーボード・シンセサイザー・コーラス)
幼少時よりピアノと作曲を学んだ。音楽的素養の土台はクラシック音楽だが、高校時代にジョン・ケージを聴き、それが伝統的クラシック音楽を根本から破壊していることに衝撃を受けた。他の多様なジャンルも聴き音楽的幅を広げつつ、東京芸術大学作曲科に進学し民族音楽学の深さに衝撃を受け同大学を卒業。同大学院に進学し、修士論文(提出作品)として管弦楽作品を提出し同大学院を修了。当人は作曲や編曲が自身の本業だと思っている(ピアノ演奏が本業と思ったことは一度もない)。理論派で弁が立ち、学生時代は学生運動の風が吹き荒れており、制度的なものを拒絶し解体する運動を行った。「教授」という愛称は大学院時代に高橋が名付けたもの。大学在籍時からスタジオミュージシャンとして活動(大滝詠一や山下達郎のアルバムに参加)した後、YMOに参加した。YMOでは松武秀樹とともにレコーディングにおいて楽曲を構築する重要な役割を果たし、またライヴでは楽曲のアレンジを一手に引き受けた。YMO散開後は映画音楽で成功するなどのソロ活動を展開し、母校の客員教授もつとめた。2023年3月28日死去。71歳没。(Wikipedia)

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