橡の木の下で

俳句と共に

「だまし絵」展 平成27年「橡」4月号より

2015-03-27 11:38:26 | 俳句とエッセイ

 「だまし絵」展       亜紀子

 

 市立美術館にかかっていた「だまし絵」展を見に行く。古典的絵画から、コンピューター制御の現代アートまで、古今東西の視覚のトリックを使った様々な作品が並べられている。生憎の雨ながらそこここに梅が咲きほころび、すれ違う人々の顔も何となく明るい。

 最初の壁に掛けられていたのは十六世紀ミラノ出身の画家ジュゼッペ・アルチンボルドの描いた二枚の肖像画。緻密、精巧な筆致で実物そのもののように見えるその絵が「だまし絵展」にあるのは、人物の顔が幾つもの「物」を組み合わせて作られているからだ。「司書」という人物は何冊もの本や、本の埃をはらう毛叩きや栞の組み合わせで拵えたもの。もう一つ「ソムリエ」は顔も体も樽や瓶、グラスに漏斗などなどワインに関わる物や道具だけで合成。ワインの道具の知識が私にもっとあれば、さらに深く絵の仕掛けを味わえるのだろう。それにしても書物の塊のような司書の顔はあまり利口そうでない。大樽の腹を突き出したソムリエは赤い帽子の反射ゆえか赤ら顔でいかにもワイン好き。人物像を彷彿させる肖像画というべきか、静物画というべきか。これらは画家が頭の中で組み立てたものか、あるいは実物を実際に組み立ててから描いたものか。ワイン男の絵を仔細に眺めると、陰影の付き方が自然で本物を構築してから写生したような気がするが、果たしてどうだろうか。

 ごちゃごちゃのワイヤーが白い壁にくっきりと一匹の蚊や蜥蜴の影を結ぶラリー・ケイガンの作品、同様にごたごたの黒い物体が鏡の中に重厚なグランドピアノの影を現す福田繁雄のオブジェ。幻影にあれっと騙される面白さ。また「大山蓮華」と題された作品はどこを探せど幻影すらない。ふと上を見上げれば一輪の大山蓮華の花がこちらを見下ろしている。しかもそれが木彫と知る。そうかと思えば「無題」と書かれたプレートでは今度こそ本当に白い壁しか見出せない。無ということかしら、それではあまりに人を馬鹿にしていると思いきや、随分と間の抜けた方向に蝿のような蜂のような虫が一匹止まっている。再びプレートに戻って確認すると「無題」作品の材料は針金、粘度、綿毛、毛、プラスチックに塗料とちゃんと記されていた。

 物や事に騙されるには、それ以前の自分の体験の記憶が必要である。「これ」は過去に照らし合わせて「こうあるべき、こうなるべきだ」という思い込みをはぐらかされて引っ掛かるわけだ。会場の中ほどで二歳になるやならずの女の子が大泣きして父親を困らせていた。小学生くらいになると親子でトリック明かしを楽しんでいる。泣いていた子は騙されるには経験不足で飽きてしまったのだろう。子供に悩みや不安がない、あるいは少ないというのも同じ原理かもしれない。自分の過去の経験と結びついて、またあれと同じくらい辛いことになりそうだと思うと、さらに先々が不安になるのだ。考えてみれば、悩みとはトリックに引っ掛かった心の幻影に過ぎぬのかもしれないが、人は年を経るほどにその嵩も増していく。

 「ログ・キャビン」という作品は丸太小屋の窓の内と外を眺める仕掛け。一面では心地良さそうなソファやクッションや壁掛けに囲まれてぱちぱちと燃える暖炉を、裏面へ回ると針葉樹の林に小止みなく降る雪を、液晶ディスプレイがそれぞれに映している。その見え方が非現実的で室内側から室内が、室外側から室外が見えるのだ。私は多分作者の意図とは別に、雪の針葉樹の映像に魅せられてしまった。かつて暮したカナダの冬、それから札幌にもこんな風景があった。白と灰色と黒色の濃淡の情景に音なき音が流れていく。どこか別の場所でも見た事がある。頭の中を探していると、はたと思い出した。『自然讃歌』の挿入写真にいくつもあったような気がする。遷子、星眠、公二、若き三人の詩人が並んで歩いている道はこんな所ではなかったか。

 記憶のトリックは喜びも生みだしてくれる。俳句という言葉も、蓄えた記憶を引き出しては紡ぎ直すトリックだ。日々、広く経験し、深く生きること。身のうちに蓄えを増やすこと。それがこの技を磨くことになる。

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