橡の木の下で

俳句と共に

「福島吟行」平成25年『橡』12月号より

2013-11-27 09:00:02 | 俳句とエッセイ

  福島吟行    亜紀子

 

 今年の五月大会の折、福島の方々とテーブルが隣り合わせになった。懇親会の藹藹とした空気の中で福島へ行らっしゃいとお誘いを受けたのが発端で、その約成って十月八日、九日に福島吟行会に参加した。詳細な計画を立てていただき、同じテーブルの露路さんやお隣の県の山形からの数名も参加となり、近づく台風二十四号を尻目に東北新幹線郡山駅に降り立った。東京から一時間ちょっとで着いてしまうのに驚いた。娘時代に同じようなお誘いを受けたことがあり、それは実現しなかったがあれから三十年ほどになる。その間俳句の進歩はと振り返ればさしたる歩みの跡はなく、幾分賢くはなったろうかと省みれば賢さ以上の愚かさも積み重ねてきたというのが真実である。

 駅で皆が落ち合って待っていた福島勢の貸し切りバスに乗り込み、郡山、本宮、裏磐梯、会津若松とめぐる二日間の吟行旅行が始まる。最初に尋ねたのは芭蕉も立ち寄った歌枕の安積山。安積山公園として整備され「和歌の父母」と呼ばれる歌に読まれた山の井清水が設けられている。秋暑の公園は木陰が嬉しく、これが千本槍、あそこに花蕨と植物に詳しい皆の後をついて歩く。蕾の千本槍がキク科の花よろしく別の所では絮を吹いて纏に変わっているのが面白い。

 そこから一路本宮の石雲寺へ。道路沿いの千草の花の色が濃い。長閑な景ではあるが二年前の震災で大方の建物は被害を受けたそうで、現在は修復後の姿のようだ。あれが仮設ですの声に窓を見ると、剥き出しの段丘にプレハブ住宅が並んでいる。下を流れている渓流が阿武隈川の支流五百川である。

 葉貫琢良和尚の石雲寺は曹洞宗の古刹、大きく裾を引く甍に迎えられる。

 

竹外の一枝は霜の山つばき  秋桜子

旅枕願の糸も叶はずに    星眠

 

寺内に師弟句碑が立つ。ちょうど七夕の頃主宰が寺を訪問した当時葉貫夫人は入院中で、その後程なくして世を去られた。誰もそれほどの病状と知らなかったという。そして今年は十三回忌を修された由。傍らにいた福島の方から伺う。琢良和尚はご自分のことは多くを語らない。上がってお位牌堂を拝見する。お守りするお位牌の数は仮に一軒づつお参りすると一年二年では間に合わぬ数で、僧家の仕事の繁忙が想像される。句会仲間には檀家さんもあって、この広い方丈のもとで長年にわたって親交と俳の座が保たれている。

 

安達太良の片袖青く端午なり   星眠

 

 彼方に安達太良山を望み今夜の宿へと移動。今は片袖に銀色に煙る芒の穂が靡き、今年は遅れていた稲刈りが闌である。

 翌日は磐梯朝日国立公園の裏磐梯へ。バスの窓に先ず猪苗代湖を見てその広いことに驚く。琵琶湖、霞ヶ浦、サロマ湖に続く面積を持つそうだ。だいぶ山を登ってきたのだが高地にこれほど大きな湖のあることが不思議に感ぜられる。雲の下で今朝は鈍色であるが、凪いでいて天鏡湖の異名が納得される。しかし荒れる時にはまるで海のような高波が寄せてくるのだという。車窓から猪苗代湖が隠れてゆきやがて裏磐梯へ。

 

水漬きつつ新樹の楊ましろなり  秋桜子

 

 五色沼湖沼群の中で最大の毘沙門沼のほとりに建つ句碑。句は昭和十三年の作。新樹の語にどこか西欧風な近代風な趣を感じてその木はと探せばすぐ傍らの大木。細かな葉の裏が銀粉をふいたように白っぽい。風にちらちらと揺れる姿は西欧絵画のなかの一樹のようである。想像していた猫柳やしだれ柳とは違う。白柳という種類のようだ。もう二十数年も昔に暮らしたカナダの自然公園の木々がよく似た佇まいであった。小流れのほとりに立ち並んでいた木々である。そういえば毘沙門沼の深い緑青色も彼の地の湖の色に似ている。裏磐梯は明治二十一年の磐梯山の噴火で形成され、湖の色は水中に含まれる微粒子に因るそうだ。沼の面に光りが差したかと思うと垂れ込めていた雲が一瞬払われ、目前に峨峨たる火口壁が立ちはだかった。噴火の凄まじさを如実に語っている。

 毘沙門沼を後にしてバスの右に左に大小様々の湖沼を見つつ会津若松を目指す。湖沼群は名のあるものから名も無きものまで三百ほどもあるそうだ。洒落たコテージ、ペンションなども並んでいる。磐梯高原で一夏俳句三昧の合宿をしたら上達するでしょうねと誰かが言うと、最近は熊が多くて危ないそうですよとの声。林のそこここに白柳が目立つ。雪解けの頃はその一帯は文字通り水浸しになるそうである。そうした所を好むというのはやはり柳の木だ。それにしても昭和十三年の早春にここまで来て俳句を詠まれた秋桜子先生こそは三昧境といえよう。

 途中蓴菜沼へ立ち寄る。自然の沼をそのまま利用しているのかまたはある程度栽培用の池に仕立てているのか、田んぼに水を張った感のある池一杯がぬなわである。水質が良くなければ育たない蓴は今はもう葉も廃れもの寂しい眺めだが初夏にはきっと美しいことだろう。福島の人たちがよく詠まれる蓴池とはここのことか。大きな田螺がごろりと転がり、蜻蛉がしきりに水を打つ。去年まで蓴菜採りをしていたというお婆さんが九十歳になり今年はもう仕事は止めたとの事。日当りの良い部屋で炬燵にあたっている。池を去る時ちょっと遅れた霞城さんが一升瓶を携えてバスに乗り込んで来た。これは三流物ですよと見せてくれたのは少し巻き葉が長けてしまった大振りの蓴菜。豊かな磐梯水系の賜物である。

 高原を下り会津若松城に到着すると十月とは思えぬ暑さとなった。テレビドラマ「八重の桜」人気でウイークデーにもかかわらず観光バスが並んで大変な賑わいである。会津の人は先の戦争というと戊辰戦争を意味するのだと聞いたことがある。その戦いで新政府軍に帰順して藩を守ったお隣の三春藩に対して現在も心に一物持つ人がいるのだという。愛想の良かったタクシーの運転手が、乗客が三春の人と聞いていきなり車を降ろしてしまったというエピソードを三春の内藤さんに伺って笑う。冗談で済むのが今の世の有り難さだ。天守閣の中に飯盛山で自刃した白虎隊隊士の肖像画が並んでいる。皆十六、一七歳の少年。家に留守居させて来た愚息と同齢である。天守からその山を望む。少年たちの墓があり香煙絶ゆることなしとのこと。

 バスは山の下を通り最終目的地野口英世記念館へ向かう。白虎隊の少年が息子と同い年と思うと切ないと口に出してから、はたと気持ちが止まる。自分は今東北の一角に居る。旅の感傷がしゅるしゅると引っ込んでいく。幾つになっても先ず思いの至るところは我が身と我が身の回りの僅かな範囲に過ぎぬことに、後になって気が付くのだ。

 野口英世記念館には野口博士の生家が二百年経った現在も明治の世のそのままに保存されている。陳列物の中に博士の母親シカが作って生計の足しにしたという付け木というものがあった。杉の木っ端に硫黄を塗った火付け木である。終戦直後本当に便利したんですよと根本さんが教えてくれる。隣り近所から分けてもらった食物などの返礼に、空になった枡に付け木を入れる習わしであったそうだ。野口英世の名は私の子供の頃の偉人伝の筆頭だった。長じて得た知識によれば、彼は金銭感覚がずれており周囲を振り回した一面もあるらしい。完璧でないのが人間である。瑕を持ちながら自らの意志で事を成し遂げて行くのが人の子である。

 

渡りつつ鶸も呟く立志の辞  星眠

山梨や忍耐の碑の空に熟れ  星眠

 

人の子である野口博士の有り様を伝える句と思う。

 再び郡山駅に戻り皆に別れを告げる。台風は日本海へ抜けて温帯低気圧に変わったらしい。新幹線の窓一面に茜色の雲が広がっていた。

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