『富士に添ふ』によせて 亜紀子
誠子さんの俳句は初学の頃からきらりと独自の光を発していた。誌上にお目にかかるばかりで直接お会いすることは稀であったが、すらりと立端のある、古都ずまい、ドイツ帰りのモダンな「お姉さん」として勝手に親しみを抱いていた。
風花や虚空をつかむロダンの手
献血にゆくと春着の帯解く子
産卵のあめんぼ足をたたみけり
芥子揺れてサラセン乙女野に舞へる
顔あらふ老妓の猫や事始
わが影を出づる影あり蝶生る
その誠子さんの俳句に心底目を瞠ったのは平成十九年青蘆賞を受賞された「甲斐境」の一連の作品である。父上ご逝去を動因とされたのであろう、故郷山梨が深く誠実に詠み上げられている。
眉力抜けて父逝く春ならひ
山畑の痩せて水佳き桃花村
桃霞摘果あはれにいそがるる
夜目に立つ富士や柚子村花にほふ
富士見むと母に逢はむと露の旅
よく見ている、深く知っている事象、自分の血肉となった物の中にこそ、真実の詩の契機があるということを知らされた。爾来私自身もこのことを忘れぬよう努めている。
その後の誠子俳句は豊かな語彙と柔らかな発想で折々にきらきらと輝きながら、倦まずたゆまず進んできた。
花折峠月祀る芋洗ひをり
伯林の壁あとにをり聖樹売
寄生木の惑星めきて榛おぼろ
春愁や明るく軽くマニュアル語
三伏や百畳拭ける沙弥ひとり
青鰻撫でて一気に尾まで裂く
煤逃氏エスプレッソの香と戻る
草河豚のまなこ鈴張る二月潮
かなかなは悲の器なり爆心地
離宮みち産みたて卵買ふ小春
うろくづの甘露煮にほふ梅雨淡海
夢殿に髭のそよろと青すいと
まぼろしの鵜を捌きをり涼み能
本集に挟まれた略歴でさらっと触れられているように、誠子さんの身の上には波また波が押し寄せた。その高波が大抵のものでないことは身近に居る者であれば知っている。呑まれるたびに掻いくぐり、掻いくぐり、というよりその波さえも血肉にして句を詠まれている。また誠子さんは永らく『橡』編集部の一員としても活躍されている。私の中では今もって瀟洒なお姉さんであり、大いに頼りにさせていただいている。
寒紅の漆光りに太夫の儀
風花や背を正さねば影も病み
羅や翳着るやうに癒えゆくも
短夜や母寝ねてまた軽くなる
赤腹のでんぐり返り山雨来る
春光や殉教の島横たはり
歩まねば消ゆる峰道ほととぎす
平成二十八年秋
句集『富士に添ふ』
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著者 山下誠子
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