橡の木の下で

俳句と共に

平成25年『橡』1月号より

2012-12-27 10:00:06 | 俳句とエッセイ

     亜紀子

 

冬立ちぬまだきの雷のつぶやきに

兄弟のやうに目白と四十雀

時雨ぐせ風ぐせ今日は鳥も来ず

若干の記憶ちがひもあたたかし

四十雀かろきお喋りして去りぬ

裏返り忍びの里の葛枯るる

畑ごとの隅に小菊の照る日和

小春日の玻璃に納むる貝おほひ

遺言の墨枯れかれて翁の忌

蓑虫庵裏手のもみぢ濃かりけり

白腹鶇の黄葉動くと見ればをり

蓑虫庵目白の群れが枝を吊りぬ

蕉翁もふるさと恋ふる冬茜

嬉々として霜枯の庭訪ふ小鳥

明り取りほどは北窓ひらきをく

伐採の見積り紅葉さなかにて

ふと思ひ出したるやうに降る落葉

枯れにける鶇の洩らすつぶやきも

 


「雨の日に」平成25年『橡』1月号より

2012-12-27 10:00:04 | 俳句とエッセイ

雨の日に   亜紀子

 

 ラクロスと呼ばれるスポーツ競技の観戦に出かけた。馴染みのない球技である。棒の先に小さな網のついたクロスという道具でボールを扱い、ホッケーのようにゴールにシュートして得点を争う。広い芝フィールドで行われ、サッカーにも似ている。何でも起源は北米インデアンの儀式的な競技にあるらしい。ラクロス普及の意味合いもある試合とのことで、是非にも来いと声をかけられていて楽しみにはしていたが、前日の晩から寒冷前線通過に伴う雨の予報。大方中止と勝手に想像していると、雨天でも開催するという。クロスは金属性なので真夏の雷の時には即刻中止だそうだが、冷たい雨は支障がないという。

 海辺の公園にあるサッカー競技場に着いた頃からぽつりぽつりと雨が落ちはじめた。スタンドの二階席を覆う屋根はほんの申し訳ばかりだが、風さえなければ雨滴は気にしなくてよさそうだった。一階席に陣取り先輩の試合を応援する若者たちは揃いのビニル合羽を着込んでいる。応援の方も雨をものともしない意気込みだ。

 本日の試合は全日本大学選手権大会の一回選で、勝ち進んで優勝すれば暮れにクラブチームと日本一を争うことになる。第一試合、名古屋と岡山の男子の対戦。小さな網にボールを入れたまま走るだけでも高等技術が要りそうだが、走りながらパスしたり、ボールを奪ったり、攻撃を躱したりと見応えあり。だんだん観戦の目も慣れてきて、どちらのチームが上手かが見えてきた頃から、雨脚が強まった。屋根からはみ出した膝頭だけが濡れ始め、身体が冷えてくる。

 半袖半ズボン、坊主頭で音頭をとっていた応援団長がハーフタイムに観客に自己紹介をやった。いわば氷雨に濡れた自分の応援である。彼は社会人で、応援は趣味だとのこと。出身校も関係ない。依頼があれば全くのボランティアで一人どこでも駆付ける。変わった人がいるものだ。

 後半はずるずると我が名古屋の負けが目に見えた。味方が劣勢になると応援は必死になる。一人のかけ声で大勢の人員が一糸乱れず動き、声を張り上げている。なるほど、団長たる彼にとってこの瞬間ほど血を沸かすものはないだろう。物質的になんら報酬のない行為であればあるほど、己の采配ひとつで多くの若者が塊となって燃え上がることに歓びを得るのではないかと、寒さに震えながら納得する。

 雨のフィールドにがっくりと膝をつく選手を後にして外へ出ると、公園の木々は紅葉の真っ盛り。欅は丈を詰められることもなく上へ伸び、自由に広げた梢に薄茶、赤茶から焦茶までの黄葉の粋。桜の紅葉は濡れてひときわ鮮やかだった。

 帰路の地下鉄の座席で本を読んでいると、途中駅の駅員が列車とホームの隙間に渡す板を抱えてやってきた。誰か、車椅子の乗客が来るんだなと思っていると、乗り込んだのは三人の女性が押す一台のキャスター付きのベッドだった。ベッドの上の患者も女性であったが、その人は顔が枕程もあり、見張った大きな目が虚ろである。身体も動かせぬようだ。その顔の上に可動式の装置のようなものが付いていて、一番若い女性が患者と向き合えるようにそいつをのけて、顔が見えないと寂しいでしょうと声をかけている。私の席からベッドの上が一番良く見渡せるので、席を譲ろうとすると丁寧に断られた。四人は姉妹のようだ。何処か病院への移動らしく、大きなスーツケースの他、ベッドの下にびっしりと物が積み込まれている。やがてまたベッドを押し列車を出て行った。こんな雨の日に、地上ではどうやって移動するのか。不思議といっては気の毒に過ぎるが、四人を見送っていろいろを想像するのだった。

 いつも一日に見たもの、聞いたもの、すれ違った人、交した言葉、そのいちいちがどういう形にせよ俳句に繋がらないかと期待する。そう思うことが何かを欠いているような、またどこか意地汚いような気がする。鼻の頭を欠いたまま、常に視野の端にちらちらとその鼻先を意識して、歩いていく。


選後鑑賞平成25年『橡』1月号より

2012-12-27 10:00:02 | 俳句とエッセイ

橡1月号 選後鑑賞      亜紀子

 

秋高し人影動く屏風岩      小菅さと子

 

 屏風岩と呼ばれる岩山は全国各地にあるようだ。屏風というからには垂直に立った横に広い岩場を想像する。掲句は上州子持山だろうか。私事だが、家人が登山訓練の一環で、定期的にロッククライミングの練習をしている。どんなところを登るのか見たことはないが、技術の未熟な者は上級者にリードしてもらいながら、手がかり足がかりを見極め自分の身体を運んでいくものらしい。まかり間違えば滑落の危険と隣り合わせである。それだけに登攀しおおせた時の満足感はさぞやと想像される。

 ここでは作者は下から岩場を見上げ、とても人が登れるとも思えないのであるが、頂あたりに見出した動く人影に驚いている。驚きもさりながら、高く青く晴れ渡った秋空と屏風岩という広がりに、山頂に立つ人の高揚した気分も想像できる。

 

秋深しリハビリ知人ばかりなり    本定美智子

 

 身体も年を経てくると、次第に故障が多くなる。何とか誤摩化して過ごせる間は良いが、生活に支障が出てついに大きな治療を決心する。それで一足飛びに元通りの状態に回復するわけではない。本当に大変なのは治療そのものより、後のリハビリだと度々耳にする。即効の効果を期待していては、思いのほか遅々たる回復過程に凹むこともあるだろう。作者のリハビリテーションは如何なるものか。同舟の人々を見回せば、皆同世代、近隣の見知った人ばかりと分り、秋ひとしお身に染む感がある。しかし、それゆえ休憩時間、待ち時間の話題も滞りがなく、自然にお互いを励まし合えるのではなかろうか。

 

牛の群れわたりおへたる花野かな    西堀裕子

 

 放牧牛の群れが、夕刻牛舎に帰って行く光景か。あるいはそろそろ牧帰りの季を迎えたのかもしれない。いずれにしても、周囲の林や、丘や山を省き、吾亦紅、おみなえし、松虫草など、千草の野がまるで大河のように茫々と描き出されている。ゆっくりと徒渡る牛の群れを入れ、高原そのものが一幅の絵画となった。

 

草もみぢ廃鉱黒く朽ちゆけり      宮崎清之

 

 掲句の鉱山がどこかは分らぬが、捨てられた鉱山跡はどれもこのような姿をしているように感ぜられた。かつての賑わいも、過酷な労働も、草紅葉の中の黒々と開いた虚ろとなってくずおれていく。今もなお朽ちゆけるというところ、いっそうの哀れがある。

 

渦巻ける霧の底ひやカルデラ湖     谷真理子

 

 渦巻く霧は火山のお釜の下から吹き上げてくるようにも、あるいは下へと雪崩れるようにも見える。秋は進み、山上の気は冷たい。霧深ききわみに沈む湖を垣間見る。ただその光景だけを描写して臨場感がある。

 

日がなむく芋茎の山に日の傾ぎ     田村すぎ

 

 芋の採り入れが終り、保存用の干し芋茎を作る作業にはいる。戸外に筵でも敷いて、一日中大量の芋がらの皮をむくのだろう。秋の日暮れは早い。芋茎の山に日が傾ぐという言い回しに、農の暮らしがしみじみと感じられる。

 

神送る空港島へ灯を連ね         寺澤美智子

 

 掲句、神送るで切れているのだが、空港島へ続く灯りの先に飛び立つ航空機がまるで神送りそのもののようでもあり、寒風つのる頃の空港を描いて面白い。