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橡の木の下で

俳句と共に

「桃の日」令和6年「橡」5月号より

2024-04-30 13:08:08 | 俳句とエッセイ
桃の日   亜紀子

豆ひひな遠く住む子も達者らし
尾を立てて影も忙しや笹鳴ける
桃の日や軽ろく大きな御伽犬
雨よりも細く柳の芽吹きたる
水鳴つて揺るる木五倍子の金鎖
いや生ふる台座も高き仏の座
震災の日のけふ辛夷真白なり
乙女らにコリアンコスメ春の雨
はなのきの離りて見れば花盛り
風音に父母恋し彼岸荒れ
雨の後森は一途に芽吹くかな
春うれひ辛夷並木もくたびれて
雨降ればたやすくつのる春愁
公園に子らの来ぬ日々菜種梅雨
水一日張れば目覚むる菖蒲かな

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「令和六年五月の青啄木鳥集の中から」令和6年「橡」5月号より

2024-04-30 13:03:17 | 俳句とエッセイ
 令和六年五月の青啄木鳥集の中から   亜紀子

 昨年令和五年八月号の文章のページで、青啄木鳥集の中から秀句鑑賞に取り上げていない句をピックアップしてみました。毎月、橡に寄せていただく皆さんの作品を読むことがどれほど勉強になるか、刺激になるか、言い尽くせません。
 今月もまた同じ試みをしてみます。

目白二羽友が遺愛の紅椿  岩井治子

 作者と掲句の友とはどのような関係であったのか、本当のところ分かりません。けれど紅椿を愛おしむ人柄、きっと俳句仲間に違いないと、考えを巡らすことなく即座に解しました。そしてかつてその椿について二人で語らったこと、共に学んだ句会の様子、毎月楽しみ励んだ吟行などなど、懐かしい月日をまるで自分ごとのように思い浮かべました。目の前の目白の動きが記憶を活き活きと蘇らせてくれたようです。

こともなく耕人土竜抛りけり 岡本昭子

 黙々と春耕しに励んでいた人がひょいと石ころか何かを放り捨てたと思いきや、何とそれは土竜でした。
土竜は地上で飢えて死んでしまったのかもしれません。句材を探しに近郊を歩いていた作者は淡々としたその様に驚いたのでしょう。しかしこれまた事もなくひょいと一句にまとめた掲句作者に私も驚きました。

春雪を掃く僧二百永平寺  伊與雅峯
 
 福井生まれの作者に永平寺は親しく思い寄せる大寺。雪深い彼の地も季節は巡り、境内のそこここで修行僧たちは黙々と春雪を掃き浄めている朝です。その数二百というのだから、訪れたことのない者にとってもいかに荘厳な寺院であるかが理解されます。昔、永平寺一泊参禅体験をしたことが思い出されました。修行僧の佇まいが清々しく、おそらく皆実年齢よりもずっと若く見えました。清浄な空気の中で良いものを適量食し、体を使い、頭を使い規則正しい日々を送っているからだろうと、一緒に体験した友人と感嘆したものです。ところで掲句は句会の時に出されました。その時作者の夫人もまた同様な景として
百人の僧の足音冬深し
という句を出されました。百と二百では数が違いますが要は大寺院の沢山の修行僧という事でしょう。実際には百と二百の間くらいのお坊さまが勤めているようです。

探梅や鶫に先を越されつつ 岩嵜妥江

 里山の探梅行。鶫はまだ帰らぬのか人に親しく付かず離れず同行。鄙びた辺りの様、ようやく春らしくなってきて気持ちにもゆとりの作者。読者も梅の香りにほっと深呼吸です。

雛の間に桑の枝を持つ蚕神 吉藤淳子

 古くから伝わるお雛様を飾り展示している文化財施設で詠まれた句のようです。かつて養蚕王国だった上州、蚕は御と様を付けて「お蚕さま」と呼ばれました。その蚕の守り神、東北ではおしら様でしょうか。どのようなお姿であったか思い出せないのですが、、桑の枝を持つの描写に想像が膨らみました。華やかなお雛様と並んでいるところ、かえって目を惹かれます。

ショベルカー雪像くづし祭り果つ 岩壽子

 札幌雪まつり、二月初旬に今季も無事開催、閉幕したようです。鎌倉住まいから故郷札幌に戻られた作者。その作者だからこそ目にすることのできる風景です。ショベルカーで崩されていく様に荘厳だった雪像、祭の賑わいを夢の跡のように彷彿。解体も安全第一、そうそうお手軽な作業ではないのでしょう。一度眺めて見たいものです。

 さて青啄木鳥集にはもっと触れたい作品があるのですが誌面尽きましたので、次の機会に。



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「選後鑑賞」令和6年「橡」5月号より

2024-04-30 12:59:47 | 俳句とエッセイ
 選後鑑賞   亜紀子

軒下の凍み餅外し焼く匂ひ  伊藤裕通

 冬の寒さ厳しい地方に冷蔵庫も冷凍庫も、脱酸素剤も無かった昔より伝わる食品保存の知恵。私には信州の凍み豆腐(高野豆腐)が馴染みだ。掲句の凍み餅は福島の郷土食の一つらしい。寒中、軒下に薄く切った餅を吊るし一旦凍らせ、そのまま寒さの中で乾燥させる。最低一と月くらいはかかるようだ。食べる際は水で戻してから加熱。今はネット販売や道の駅等で買うことができるようだが、掲句作者のところでは長年伝統を守っているのだろう。あるいは父母のもとで守られていた頃の思い出とも取れる。軒の紐から外す具体的な動作、鼻をくすぐる焼き餅の匂い、言うに言われぬ懐かしさに包まれる。
 現代はフリーズドライ(瞬間凍結・真空乾燥)、便利でそこそこ食べられるけれど、懐かしい味はしないだろう。

赤信号渡り慣れたる恋の猫  鈴木月

 雌猫を追いかけたのか、ライバル猫を追い出したのか、人間の交通規則など猫の眼中にはない。いくら俊敏な動物でも車には勝てまいからちょっとハラハラしたが、渡り慣れたるで成る程とホッとした。赤信号皆んなで渡れば、、という古いギャグを思い出し、笑ってしまった。

輪の中に恩師を囲み卒業歌  髙橋榮子

 卒業式も滞りなく終わり、校庭に出て各々の写真撮影の時。担任の教師の周りに自然に集まった生徒達が卒業の歌を。多くの学生に慕われた先生。そんな情景を思い浮かべた。袴姿の女学生か、セーラー服と詰襟の生徒たちか。ちょっと郷愁を覚えたが、現代的な光景であるのかもしれない。

被災地の起重機動く春動く  高沢紀美子

 正月、激震に見舞われた能登の状況はなお厳しいようだ。全国から応援に入る自治体職員の宿舎が完成、学校に寝泊まりしている先生たちの個人スペースを確保という記事などには少しホッとさせられる。掲句の春動くに、季節と共に前に動き出した被災地の状況、そしてどうか少しでも早く前進できるようにという願い、全てが込められているように感じた。

夕映の仏間あかるき入彼岸  星照子

 西の夕日の入る仏間。日は永くなり、開かれたお仏壇、古き畳や壁を照らしている。穏やかに暮れていく彼岸の一と日の情緒。

ひな市の店主にこやか異国人 中川幸子

 異国とはどこの国だろうか。明るいお国柄らしい。過疎化進む今、地方都市に暮らす外国人が増えていると聞く。何を売っているのだろう。小さな町の小さな雛の祭に出店している店主に興味津々。地域に溶け込んでいる人のようだ。

捉へたる風と売らるる風車  武藤ふみ江

 前の句の雛市で売られている風車と考えても面白い。この頃はまだ風の上州。売られて手渡される風車がくるくる回る。少し肌寒いが、光は明るく、確かに春は来ている。

山茱萸や声くぐりゆく四十雀 田村美佐江

 林の中でいち早く目を覚ます山茱萸の花。同様に誰よりも早く囀り始める四十雀。早春の喜びの時。

春市を出すぞと海女の心意気 長井恒治

 一月の地震によって輪島の海岸は大きく地盤隆起。専門家と共に海女さんたちが磯の被害調査をしたというニュース。四月は藻場の調査も。安全確認されれば海女さんたちは皆海に潜りたいそうだ。掲句の心意気が尊い。


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「バレンタイン」令和6年「橡」4月号より

2024-03-28 11:41:11 | 俳句とエッセイ
バレンタイン   亜紀子

信心の鰯の油身にかなひ
雪に濡れ伐採を待つ苑の木々
架線工梯子伸びゆく梅の上
少子化の子供広場の草青む
むら立ちて声なき冬の花わらび
ひそひそとバレンタインの少女たち
ひと仕事長居うららの喫茶店
日々早し梅もせはしく終りたる
よく笑ふ鴉が一羽木の芽時
待ち合はす河津桜の満開に
魚はしる水の底にも春の来て
山茱萸や園を巡れる水のきら
春立つや畑の窪水光りをる
春興や七宝釉の鉢並べ
桟橋に遅き日のあり宴の果

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「如月の園」令和6年「橡」4月号より

2024-03-28 11:37:35 | 俳句とエッセイ
如月の園   亜紀子

 あちらもこちらも終わりの見えない戦い。甚大な自然災害。呆れるほどの為政者の不正。極端に乱高下の気温。あれよと言う間もなく一月が過ぎ、二月はさらに駆け足で流れ去る。何とはなしにいつも重い気分。世の諸々を自分ごととして焦燥を感じているのだろうか。否本当のところはよそ事と感じていると思う。よそ事には時がたてば慣れが生じる。本当の煩いは日常の自分ごとの中にある。誰にも悩みのない人生というものは無い。それにも慣れてしまうこともあるし、なかなか振り払えないこともあるだろう。まあ、全ては仕方がないことなのだ。
 と思い、気持ちを変えようといつもの庭園歩きに出かける。朝からの冷たい雨は小止みになり、傘を広げずに歩いている人もいる。ここしばらく暖か過ぎて、もう北へ移動したかと思っていた真鴨数羽、また池に戻っている。胸に埋めた緑の頭がこんな薄暗い日でも艶々光沢を放っている。その上に覆いかぶさる岸辺の楓の梢が煙っているのは芽吹きの兆し。
 池へ注ぎ込む流れを遡る。この小流れの底には石が敷かれ、山峡の早瀬の水音を奏でている。沢ふたぎの梢が僅かに芽吹き始めた。向こう岸の壁の落葉が動いたと見ると鶫が一羽。いつものあの鳥。小径の上から異国語で歩いて来る観光客にも動じる様子なく、人なつこい。まだ暫くは逗留するのだろう。
 流れは途中から内側へ湾曲し、その先はやや広い隈を作り橋が掛かる。瀞となった橋下には鯉がのぼって来て集まり、観光客が橋から投げる餌を待っているのだが、今はまだ冬季で餌は中止。それでも魚の動きはだいぶ活発になってきた。この辺りでせせらぎの音は消えて、小径の向こうからまだ姿を現さぬ滝音が響いてくる。流れの湾曲はこの効果を生むように設計されているらしい。いつだったか庭園ボランティアガイドさんに案内してもらった時、そのように聞いた。ガイドさんは「この辺りが好きなんですよ」と滝音が消え、せせらぎに変わる地点に立ち止まり説明してくれた。足元には数本の桔梗が咲き、その桔梗の色も好きだということだった。
 石組みの大滝は時間制で水が落ちる。木々の梢に綴られた雨粒。観光客は皆ここで一度写真を撮る。冬は日陰で寒く、夏は蚊が多く、秋の楓は日面にある木のようには色付かず、私はあまり長居しない。 滝を通り過ぎ、東屋の前に芝生広場、白梅と紅梅。白梅はすでに盛りは終わり白い花弁を散り敷いている。季節は年ごとに早くなる気配。見上げるとずっと高い梢に山茱萸の花。黄の色に目を射られた。どこかで小啄木鳥の声。小鳥たちはもう新しい季節の支度を始めた様子。造られた庭、人口の自然。と言っても小鳥や木々自身には野生も人為も区別はない。皆精一杯だ。暫し、身も心も深呼吸。有り難い。
 見るもの、聞くものがどれも俳句になればなお有り難い。何を聞いても見ても、一旦は五七五にしてやろうと思うものだから、少々間合いを取れるので有り難い。鉛筆と紙があって有り難い。この頃はケータイのボイスメモを活用して、歩きながら小さな声で一句録音している。俳句があって良かった。

山茱萸か檀香梅か崖の上  星眠
 山茱萸は中国から薬用にもたらされ、庭園樹。檀香梅は日本に自生するが庭園樹としても好まれる。

幹打つて愛を知らせる小啄木鳥かな 星眠
 啄木鳥は秋の印象も強いが、春もしかり。小啄木鳥の声を聞くと森の春の戸が開く思い。

紅梅に鳴いて鶫の別れかな 星眠
 鶫は人に親しい鳥と思う。

父母いますいまの尊し牡丹の芽  星眠
 父母なき今の牡丹の芽を見る。

返照に嘴伸べせせる春の鴨  星眠
 夕日の中の残る鴨の景はいつの間にかセットで思い浮かぶようになっている。

 一つでもいい句ができれば、何より有り難い。

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