橡の木の下で

俳句と共に

「如月の園」令和6年「橡」4月号より

2024-03-28 11:37:35 | 俳句とエッセイ
如月の園   亜紀子

 あちらもこちらも終わりの見えない戦い。甚大な自然災害。呆れるほどの為政者の不正。極端に乱高下の気温。あれよと言う間もなく一月が過ぎ、二月はさらに駆け足で流れ去る。何とはなしにいつも重い気分。世の諸々を自分ごととして焦燥を感じているのだろうか。否本当のところはよそ事と感じていると思う。よそ事には時がたてば慣れが生じる。本当の煩いは日常の自分ごとの中にある。誰にも悩みのない人生というものは無い。それにも慣れてしまうこともあるし、なかなか振り払えないこともあるだろう。まあ、全ては仕方がないことなのだ。
 と思い、気持ちを変えようといつもの庭園歩きに出かける。朝からの冷たい雨は小止みになり、傘を広げずに歩いている人もいる。ここしばらく暖か過ぎて、もう北へ移動したかと思っていた真鴨数羽、また池に戻っている。胸に埋めた緑の頭がこんな薄暗い日でも艶々光沢を放っている。その上に覆いかぶさる岸辺の楓の梢が煙っているのは芽吹きの兆し。
 池へ注ぎ込む流れを遡る。この小流れの底には石が敷かれ、山峡の早瀬の水音を奏でている。沢ふたぎの梢が僅かに芽吹き始めた。向こう岸の壁の落葉が動いたと見ると鶫が一羽。いつものあの鳥。小径の上から異国語で歩いて来る観光客にも動じる様子なく、人なつこい。まだ暫くは逗留するのだろう。
 流れは途中から内側へ湾曲し、その先はやや広い隈を作り橋が掛かる。瀞となった橋下には鯉がのぼって来て集まり、観光客が橋から投げる餌を待っているのだが、今はまだ冬季で餌は中止。それでも魚の動きはだいぶ活発になってきた。この辺りでせせらぎの音は消えて、小径の向こうからまだ姿を現さぬ滝音が響いてくる。流れの湾曲はこの効果を生むように設計されているらしい。いつだったか庭園ボランティアガイドさんに案内してもらった時、そのように聞いた。ガイドさんは「この辺りが好きなんですよ」と滝音が消え、せせらぎに変わる地点に立ち止まり説明してくれた。足元には数本の桔梗が咲き、その桔梗の色も好きだということだった。
 石組みの大滝は時間制で水が落ちる。木々の梢に綴られた雨粒。観光客は皆ここで一度写真を撮る。冬は日陰で寒く、夏は蚊が多く、秋の楓は日面にある木のようには色付かず、私はあまり長居しない。 滝を通り過ぎ、東屋の前に芝生広場、白梅と紅梅。白梅はすでに盛りは終わり白い花弁を散り敷いている。季節は年ごとに早くなる気配。見上げるとずっと高い梢に山茱萸の花。黄の色に目を射られた。どこかで小啄木鳥の声。小鳥たちはもう新しい季節の支度を始めた様子。造られた庭、人口の自然。と言っても小鳥や木々自身には野生も人為も区別はない。皆精一杯だ。暫し、身も心も深呼吸。有り難い。
 見るもの、聞くものがどれも俳句になればなお有り難い。何を聞いても見ても、一旦は五七五にしてやろうと思うものだから、少々間合いを取れるので有り難い。鉛筆と紙があって有り難い。この頃はケータイのボイスメモを活用して、歩きながら小さな声で一句録音している。俳句があって良かった。

山茱萸か檀香梅か崖の上  星眠
 山茱萸は中国から薬用にもたらされ、庭園樹。檀香梅は日本に自生するが庭園樹としても好まれる。

幹打つて愛を知らせる小啄木鳥かな 星眠
 啄木鳥は秋の印象も強いが、春もしかり。小啄木鳥の声を聞くと森の春の戸が開く思い。

紅梅に鳴いて鶫の別れかな 星眠
 鶫は人に親しい鳥と思う。

父母いますいまの尊し牡丹の芽  星眠
 父母なき今の牡丹の芽を見る。

返照に嘴伸べせせる春の鴨  星眠
 夕日の中の残る鴨の景はいつの間にかセットで思い浮かぶようになっている。

 一つでもいい句ができれば、何より有り難い。
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