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橡の木の下で

俳句と共に

選後鑑賞令和7年「橡」7月号より

2025-06-28 16:01:22 | 俳句とエッセイ
選後鑑賞    亜紀子

太陽の塔は熟年夏に入る     渡辺一絵

 一九七〇年開催された大阪万博。橡会員の多くは記憶にあることと思う。「人類の進歩と調和」を誰もが、少なくともあの当時の我が国は、信じて疑わなかった。かくいう自分も子供ながらに胸踊らせて来場者ごった返す会場に居た筈なのだが、これといって覚えているものがない。未来像のようでもあり、埴輪のように古代の像のようでもあり、岡本太郎の太陽の塔の一種異様な迫力だけは印象に残った。
 本年五月、塔が国の重要文化財に指定されるとのニュース。掲句はこのことを踏まえていると思われる。 
現役時代の煮えたぎるエネルギーが五十年余を経て深く沈潜し、今文化財となった事実を「熟年」と捉えたものと解釈。熟年というのは一般的に中高年齢層のこと。その上で夏に入るの季語が、今も健在という思いを暗示しているようだ。真夏の熟年でありたいもの。
 ちなみに二〇二五年、まさに開催中の大阪万博は末は賭博場になるそうだ。私たちは如何なる道を歩んで来たのだろう。

春寒の昼餉レンチン独りごつ   福井純史

 レンチン、電子レンジで食べ物を温めること。タイマーがチンと鳴って温め終了を知らせてくれる。私の辞書には載っていないが、皆お分かりと思う。電子レンジで温めるなどとは言わず、料理の先生でも「チンする」と表現する昨今。まことに生きている言葉は面白い。春寒、独りごつの語にいい男が一人でぼそぼそと昼飯を食べる様子を見る。この二語がレンチンの語を生かしてくれる。

常節の巣穴を探る磯あそび    北山委子


 トコブシとアワビの違いは?トコブシは小さく、身が柔らかい。煮付けておせち料理に入っている、というのが私の理解。どんなところに棲息しているのかなど全く分からない。広辞苑によればトコブシは浅海の岩石下などにすむとある。掲句作者は海に親しいようだ。上からは見えない岩の奥に手探り、あるいは棒など突っ込んで探りを入れるのか。光眩しく、生き物ひしめく春の磯遊びは楽しそうだ。トコブシはアワビと同様に漁業権の対象で、勝手に採ってはいけないとある。それゆえ掲句もあそびとして押さえているのかと思う。

金継の筆先照らす花明り     泉川滉

 破損した陶器を漆で接着し、装飾として金粉を撒く。修繕の技法でありながら、繕われた器はまた新しく生まれ変わり、末永く愛用される。日本で生まれた金継は今海外でも注目されているとのこと。その工程は複雑だそうだが、旅の思い出に金継をというツアーなどあるらしい。
 掲句、筆先とあるがどの工程か。やはり金粉を撒く筆だろう。花明りのもと、美しい和の光景。

ヘルパーの手捌きすぐれ株分くる 吉田庸子

 介護のヘルパーさんは依頼人の要請によって提供するサービスは様々。今日は鉢の株分けを手伝ってくれたらしい。園芸好きな作者と園芸に長けたコンビのようだ。手捌きすぐれとあるから、てきぱきと時間内に作業を終えてくれた様子。春の土いじりはその先の花々が楽しみだ。

茅花流し江の島今日も賑はへり  吉川フミ子

 小学六年の修学旅行は江ノ島だった。今も昔も観光名所。あれは秋の旅だったけれど、やはり夏が御誂え向きだろう。茅花長けて靡く頃、やや重たい海風もいかにも江ノ島らしい気分。



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「沢ふたぎ」令和7年「橡」6月号より

2025-05-29 14:09:43 | 俳句とエッセイ
沢ふたぎ   亜紀子

節まはしかろきいかるに木々芽吹く
沢ふたぎ真白の花を瀬に渡す
新緑に今日若返るひと日かな
四重奏緑の雨を大玻璃に
新緑にところを得たり作り滝
吹流し燕も蝶もひるがへり
方丈をしぬぎ幾年桐の花
この先は花を眼下に高架線
花よりも月の真白き帰り道
体操の後はおしやべり春落葉
朝あさを祈る人あり花は葉に
黒北風と呼ぶらし木々も震へをる
すんなりと慣らし保育や燕くる
入園式みどりごとても畏まり
侘び寂びが分かると赤子花を見る



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「現代世相俳句」令和7年「橡」6月号より

2025-05-29 13:51:50 | 俳句とエッセイ
現代世相俳句    亜紀子

 一夜の雨に、ベランダから眺めている緑が一気に盛り上がり迫って来た。季節は加速し、移って行く。緑の中から揚羽蝶が二つ縺れ出る。隣接する庭園の牡丹は終わり、今や楓や楠、椎の若葉が日々匂わんばかり。その庭園の方から流麗な鳥の声。おそらく渡りの途次のオオルリだ。昨日開園前の垣に沿う道で姿を見かけたから間違いない。今朝もまだ人の訪れのない庭で、せせらぎを覆うような若楓、サワフタギや卯木の花を喜んで歌っているのだろう。
 昔私が赤ん坊だった頃、外に出ると青葉若葉がちらちらと揺れるのをじっと見ていたそうだ。この子は詩人だよとは今は亡き伯父が残してくれた言葉。それは自分の子供たちの幼かった日々にも同様で無心に緑の葉擦れを見つめていた。子供は皆詩人なのだろう。幼稚園のママ友の一人は何か落ち込んだ時、子育てに悩んだ時、とにかく緑の木の下に行くのだと言っていた。緑には力があるのよと。小学生になった子の野外学習に付き添った日のこと。どの子らの表情にも教室では見たことのない輝きがあった。緑には真実力がある。
 自然が力を与えてくれる。自然は私たちの体内に分かち難いものとして存在している。否、私たちの存在そのものなのだ。だからこそ、橡俳句は自然を友とし連綿と詠い続けてきた。時が変わっても変わらぬものは自然であり、それが脅かされるときは私たち自身危うい時である。清浄な高原俳句の世界を懐かしむ。
 その一方で世の中の変化とともに橡俳句も変わってきたのは確実だ。ここ最近の句をあらためて振り返る。

啓蟄や公園デビュー靴鳴らし  永山比沙子
        (令和三年 五月大会特選)

 コロナ渦中にあり吟行に出るのは難しく、五月大会も紙上で開催された時期。靴を鳴らしているのは歩き始めた曽孫ちゃま。ケータイに送られたきた動画を見ての作。思わず懐かしい歌「靴が鳴る」が聞こえてくるようで、小さな動画の画面のさらに向こう、春の野の広がりを想像する。ケータイ動画やメールを題材の句は増えている。

こんにやく咲く冬やトランプ返り咲く  吉沢美智子
            (令和七年一月 橡集)
 トランプ大統領再選。コンニャクの花のいささか不気味な様が暗示的で、就任後四ヶ月になる現在にも通じているか。どんなことでも俳句になる。

短日の迷惑メール切りもなく   市川美貴子
友の訃のメール一行虎落笛    國廣辰郎
世とへだつスマホ圏外葛咲けり  藤原省吾

 老いも若きもスマホやパソコンなしでは不便な日常。日常そのものであるから、そこに俳句が生まれるのも当然の成りゆきであり、それぞれの切り口がある。

小康のネイルアートや秋灯下   市田あや子

 ネイルアートは若者文化という思い込みがあったが。秋灯のもと、自分の指先を見つめた作者は今は帰らぬ人。

正月を救援物資粥啜る      島崎善信

 あれから既に一年と半年、毎月の投句に能登を思う。

園丁のインターンシップ龍田姫  市川美貴子
種蒔ロボット秋には稲を刈るさうな 原口淑美
探梅やナビに引かれてかくれ里  高嶺京子
麻酔熊深雪の穴に戻されて    伊藤霞城

 折々の世の姿も全て五七五に。

手拍子のホームにひびく雛まつり 宮口喜代子
シルバーツアー桑の実あれば摘み食らふ  岩壽子
ヘルパーと買ひ物ひらく春炬燵   大野藤香

 他にもデイケア(デイ)、介護、介護士、セニアカー、リハビリ、脳トレ、免許返納などなどの語、何もかも詩にする頼もしい俳句の友垣。
 こうして見てくると一句の味わいの深さは季語にあるようだ。季語が滑ってしまうと、詩の味わいは薄れてしまう。結局私たちは自然の運行のうちに生きているのを改めて思う。さて皆さんの感想はいかに。
  
            
  
            

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選後鑑賞令和7年「橡」6月号より

2025-05-29 13:46:42 | 俳句とエッセイ
 選後鑑賞 亜紀子

いち早く蝶の舞くる花御堂  鈴木月

 暖かな地方では春たけなわ、北国では春への期待いよよ膨らみ、釈迦降誕の日の灌仏会、まこと良き日なり。いち早く寺を訪れた作者だが、同じく早も蝶の訪れ。この小さな羽で、一体どうやってどこから馳せ参じたものだろう。虫もそうだが、鳥などもあの小さな目、小さな体で目指すところを違えずにやって来る、生き物の不思議。

村人のほかは通らず諸葛菜  山口一江

 吟行の一日だろうか。観光客に賑わう場所でなく、句作に心遊ばせる鄙びた村落。農道だろうか、別の何かの抜け道だろうか。咲き続く諸葛菜の季節のよろしさ。ほんのたまにすれ違う人と小さな挨拶を交わしたことと想像される。

風光る汽笛に湧ける旅心   岩下和子

 暖かになると、冬眠から覚めたように自然のうちに外へと出たくなる。汽笛の音を聞けばさらに旅心誘われて、どこか遠くへ足をのばしたくなる。吟行を旨としている俳人の必定。

春夕焼一人遊びの子を影に  榎本奎二

 日永になって外遊びの時間も伸びてはくるが、それぞれ時計に従って、親御さんの呼び声に従って、家路へと散って行った。一人残ったこの子は夕焼けに背なを染めながら何をしているのかしら。

毛並みよき猪の皮干す余寒かな  久保ヒロ子

 随分昔になるが、猪鍋を出す料理屋の垣に猪の皮が干されていたのを見た覚えがある。その大きさに驚いたが、季節もだいぶ外れていて、おおかた人寄せの意味もあるのだろうとつぶさに観ることはしなかった。掲句作者は毛並の良し悪しまでじっくりと観察している。思わず自分の手で撫でてみたことだろう。毛皮のぬしを想像したことだろう。余寒の語に作者の心の内の動きがある。

ころあひに農の休みや菜種梅雨   内田一枝

 畑の種蒔きを終えたところか、あるいは稲作準備に関する作業か、一区切り済ませた折に雨がちに。農に休みはないと言われるが、ちょうど良い小休止というところだろうか。私には確かなことはわからぬが、「ころあひ」の語、その道を知る人であれば納得のいく一語だろう。

野遊びの草の匂ひや子らの声  大森隆志

 小学生だった昔、蓮華の花が咲くと子供同士でお弁当を持って摘み草に出かけた。誰の田んぼかも分からず勝手に花を摘み、首飾りなど作って興じていた。誰にも文句を言われなかった。
 掲句は現代の郊外の公園のピクニック風景と見た。遠足かもしれない。親子でお弁当を広げているが、子供らはさっさとその場を離れて飛び回っている。昔も今も、子供たちと若草の匂いは変わらない。

白子干し媼手慣れし量り売り  中江新

 海浜の市場で白子の量り売り。そこで干された白子。店番のお婆さんが目分量でさっと秤にのせるとほぼ重さ違わず。さすが手馴れたもの。その白子、ふっくらと塩加減もよろしく美味しいに違いない。

菜の花や五頭嶺そびらに真つ盛り 小林未知

 新潟県阿賀野市と東蒲原郡阿賀野町にまたがる五頭山。大同四年(八〇九年)に弘法大師によって開山と伝わる信仰の山。峰が五つあるこの山容を新潟の人々は愛着を持って季節折々に詠まれる。掲句、眼裏にその景を浮かべることができる。



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「さへづり」令和7年「橡」5月号より

2025-04-29 19:21:44 | 俳句とエッセイ
さへづり    亜紀子

コート脱ぐひと日いかるも歌ひだし
瀬に沿へる一木一草芽吹きをり
頬紅色おかめ桜は満開に
一冬を玻璃に過しし蝶生る
レントゲン廊に待ちをる寒戻り
寒葵咲くやよくよく屈み見る
花の木の花の紅兆しをり
薔薇の芽や乙女園丁仕へをる
しびびいと昔鳴らしし野豌豆
桃の日や赤子は指をひらきそめ
名を呼べば微笑む赤子春すすむ
さへづりのやうに赤子のひとりごつ
一心に手指使ふ子あたたかし
かたばみのやうに赤子も首もたぐ
おほかたの問に解なし霾晦


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