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橡の木の下で

俳句と共に

選後鑑賞令和7年「橡」6月号より

2025-05-29 13:46:42 | 俳句とエッセイ
 選後鑑賞 亜紀子

いち早く蝶の舞くる花御堂  鈴木月

 暖かな地方では春たけなわ、北国では春への期待いよよ膨らみ、釈迦降誕の日の灌仏会、まこと良き日なり。いち早く寺を訪れた作者だが、同じく早も蝶の訪れ。この小さな羽で、一体どうやってどこから馳せ参じたものだろう。虫もそうだが、鳥などもあの小さな目、小さな体で目指すところを違えずにやって来る、生き物の不思議。

村人のほかは通らず諸葛菜  山口一江

 吟行の一日だろうか。観光客に賑わう場所でなく、句作に心遊ばせる鄙びた村落。農道だろうか、別の何かの抜け道だろうか。咲き続く諸葛菜の季節のよろしさ。ほんのたまにすれ違う人と小さな挨拶を交わしたことと想像される。

風光る汽笛に湧ける旅心   岩下和子

 暖かになると、冬眠から覚めたように自然のうちに外へと出たくなる。汽笛の音を聞けばさらに旅心誘われて、どこか遠くへ足をのばしたくなる。吟行を旨としている俳人の必定。

春夕焼一人遊びの子を影に  榎本奎二

 日永になって外遊びの時間も伸びてはくるが、それぞれ時計に従って、親御さんの呼び声に従って、家路へと散って行った。一人残ったこの子は夕焼けに背なを染めながら何をしているのかしら。

毛並みよき猪の皮干す余寒かな  久保ヒロ子

 随分昔になるが、猪鍋を出す料理屋の垣に猪の皮が干されていたのを見た覚えがある。その大きさに驚いたが、季節もだいぶ外れていて、おおかた人寄せの意味もあるのだろうとつぶさに観ることはしなかった。掲句作者は毛並の良し悪しまでじっくりと観察している。思わず自分の手で撫でてみたことだろう。毛皮のぬしを想像したことだろう。余寒の語に作者の心の内の動きがある。

ころあひに農の休みや菜種梅雨   内田一枝

 畑の種蒔きを終えたところか、あるいは稲作準備に関する作業か、一区切り済ませた折に雨がちに。農に休みはないと言われるが、ちょうど良い小休止というところだろうか。私には確かなことはわからぬが、「ころあひ」の語、その道を知る人であれば納得のいく一語だろう。

野遊びの草の匂ひや子らの声  大森隆志

 小学生だった昔、蓮華の花が咲くと子供同士でお弁当を持って摘み草に出かけた。誰の田んぼかも分からず勝手に花を摘み、首飾りなど作って興じていた。誰にも文句を言われなかった。
 掲句は現代の郊外の公園のピクニック風景と見た。遠足かもしれない。親子でお弁当を広げているが、子供らはさっさとその場を離れて飛び回っている。昔も今も、子供たちと若草の匂いは変わらない。

白子干し媼手慣れし量り売り  中江新

 海浜の市場で白子の量り売り。そこで干された白子。店番のお婆さんが目分量でさっと秤にのせるとほぼ重さ違わず。さすが手馴れたもの。その白子、ふっくらと塩加減もよろしく美味しいに違いない。

菜の花や五頭嶺そびらに真つ盛り 小林未知

 新潟県阿賀野市と東蒲原郡阿賀野町にまたがる五頭山。大同四年(八〇九年)に弘法大師によって開山と伝わる信仰の山。峰が五つあるこの山容を新潟の人々は愛着を持って季節折々に詠まれる。掲句、眼裏にその景を浮かべることができる。


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