言葉の井戸と助詞 亜紀子
春日さす絵本の家に授乳室 洋子
先日、あるネット句会で勉強になった句です。作者の感慨は春の日差しあまねき絵本の家に授乳室が設けられている。ここを訪れた若い母親はゆっくり赤ちゃんにおっぱいをあげることができるなあというものでしょう。「三鷹市星と森と絵本の家」は三鷹市国立天文台の森の中にあります。市が大正時代の建物を保存活用した常設施設で、絵本のほか様々な体験を通じて子供達が好奇心や感受性を育む場となっているそうです。写真を見ると緑の木々に囲まれた木造、瓦葺きの美しい建物です。
実は私は句会でのコメントに「絵本の家の授乳室」とすることもできるのでは?と入れました。こうすると、最終的な焦点は授乳室が在るという事実より、ただ授乳室そのものに重みが行くかと思いました。どちらの助詞が良いかという事ではなくて、意味がどのように移るかという事です。
今もう一度考えてみると、原句を変える必要性はさらさら無いと気がつきました。むしろ母音のイ音が上五中七下五に一つづつ入って調べに効果的です。なのになぜ一読目に「に」と「の」の助詞に拘ったのか、自分の言葉の井戸を覗いてみます。
少子化対策ではないでしょうが、現在赤ちゃん連れの親御さんの外出時の便利、不便を社会が考え始めたように見受けられます。私の最寄りの駅にはベビーカーの絵とともに、赤ちゃんの外出には必須の乳母車ですから、邪魔者扱いしないであたたかく見守ってくださいという趣旨のポスターが貼られています。公共トイレには、まだ女子用トイレのみのようですが、お襁褓替えのできる場が設けられるようになりました。そして授乳室。デパートやモールなどの商業施設のほか、様々な公共施設、あるいは鉄道駅構内にも授乳のできる部屋が設けられていて、ネット上の地図で検索できます。外出時にはあらかじめ時間や距離を考慮して授乳のタイミングを計ることができるようです。
俳句に戻りますと、私の言葉の井戸の中では、子供を対象にしている「絵本の家」に授乳室が在るのはごく当たり前ではないかという気持ちが働いたのだと思います。それゆえ「に」という助詞に当然のことを当然でないような強調を感じ取ってしまったのです。しかし、作者はそこまで意識されてはおらず、ただ実際の景をそのままに描写されているのでしょう。
ある言葉が内包するものは、例えば授乳室というたった一語でも重なる部分はありながら、それぞれの個人で皆少しづつ異なっているのですね。あまり他人とかけ離れていては俳句に仕立てても誰にも通じない作品になるでしょうが、少しの違いを意識してそこを句にすれば面白いものになるのでしょう。そもそも詩は月並みを嫌います。
拙句を引いて恐縮ですが、また別のネット句会で
かるかんや窓辺の月も円かなる
を提出した折に、助詞「も」は「の」とさらりと詠めるのではないかとコメントをもらいました。土産にいただいた鹿児島の郷土菓子軽羹はお月様のような丸い優しい形のお饅頭でしたので拙句となりました。しかし「も」は確かに難しい助詞であまり強調すると句が臭います。ここで私の言葉の井戸には軽羹は本来は棹菓子であり丸い形は比較的新しい考案であること、また、そもそも他所の読者は軽羹を知らない人もあるだろうということがありました。未知の読者には軽羹という言葉に引っ掛かりを持って欲しいという思いも「も」という助詞に込めました。そもそもたいした句でないのでその思いは空振りですが。
授乳室に関する余談です。三十数年前のカナダロッキー山脈の麓、洒落た登山洋品店の店先でタンクトップ姿のよく日焼けしたお母さんが階段に陣取りおっぱいをぽろんと出して授乳中でした。ごく当然のようでした。その話をオランダ人の別のお母さんにすると、オランダでも当たり前、何でも有りだよとの返事。あ、もしかすると一昔前の日本?後年、日本の保健所の廊下でタオルを被せつつ未子の授乳を始めたら保健婦さんが慌てて飛んできて別室に案内してくれました。授乳室、個人間でも文化間でもなかなか言葉の底までは届かないのでしょう。