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橡の木の下で

俳句と共に

「言葉の井戸と助詞」令和7年「橡」4月号より

2025-03-29 10:42:55 | 俳句とエッセイ
 言葉の井戸と助詞   亜紀子

 春日さす絵本の家に授乳室  洋子

 先日、あるネット句会で勉強になった句です。作者の感慨は春の日差しあまねき絵本の家に授乳室が設けられている。ここを訪れた若い母親はゆっくり赤ちゃんにおっぱいをあげることができるなあというものでしょう。「三鷹市星と森と絵本の家」は三鷹市国立天文台の森の中にあります。市が大正時代の建物を保存活用した常設施設で、絵本のほか様々な体験を通じて子供達が好奇心や感受性を育む場となっているそうです。写真を見ると緑の木々に囲まれた木造、瓦葺きの美しい建物です。
 実は私は句会でのコメントに「絵本の家の授乳室」とすることもできるのでは?と入れました。こうすると、最終的な焦点は授乳室が在るという事実より、ただ授乳室そのものに重みが行くかと思いました。どちらの助詞が良いかという事ではなくて、意味がどのように移るかという事です。
 今もう一度考えてみると、原句を変える必要性はさらさら無いと気がつきました。むしろ母音のイ音が上五中七下五に一つづつ入って調べに効果的です。なのになぜ一読目に「に」と「の」の助詞に拘ったのか、自分の言葉の井戸を覗いてみます。
 少子化対策ではないでしょうが、現在赤ちゃん連れの親御さんの外出時の便利、不便を社会が考え始めたように見受けられます。私の最寄りの駅にはベビーカーの絵とともに、赤ちゃんの外出には必須の乳母車ですから、邪魔者扱いしないであたたかく見守ってくださいという趣旨のポスターが貼られています。公共トイレには、まだ女子用トイレのみのようですが、お襁褓替えのできる場が設けられるようになりました。そして授乳室。デパートやモールなどの商業施設のほか、様々な公共施設、あるいは鉄道駅構内にも授乳のできる部屋が設けられていて、ネット上の地図で検索できます。外出時にはあらかじめ時間や距離を考慮して授乳のタイミングを計ることができるようです。
 俳句に戻りますと、私の言葉の井戸の中では、子供を対象にしている「絵本の家」に授乳室が在るのはごく当たり前ではないかという気持ちが働いたのだと思います。それゆえ「に」という助詞に当然のことを当然でないような強調を感じ取ってしまったのです。しかし、作者はそこまで意識されてはおらず、ただ実際の景をそのままに描写されているのでしょう。

 ある言葉が内包するものは、例えば授乳室というたった一語でも重なる部分はありながら、それぞれの個人で皆少しづつ異なっているのですね。あまり他人とかけ離れていては俳句に仕立てても誰にも通じない作品になるでしょうが、少しの違いを意識してそこを句にすれば面白いものになるのでしょう。そもそも詩は月並みを嫌います。

 拙句を引いて恐縮ですが、また別のネット句会で

かるかんや窓辺の月も円かなる

を提出した折に、助詞「も」は「の」とさらりと詠めるのではないかとコメントをもらいました。土産にいただいた鹿児島の郷土菓子軽羹はお月様のような丸い優しい形のお饅頭でしたので拙句となりました。しかし「も」は確かに難しい助詞であまり強調すると句が臭います。ここで私の言葉の井戸には軽羹は本来は棹菓子であり丸い形は比較的新しい考案であること、また、そもそも他所の読者は軽羹を知らない人もあるだろうということがありました。未知の読者には軽羹という言葉に引っ掛かりを持って欲しいという思いも「も」という助詞に込めました。そもそもたいした句でないのでその思いは空振りですが。
 授乳室に関する余談です。三十数年前のカナダロッキー山脈の麓、洒落た登山洋品店の店先でタンクトップ姿のよく日焼けしたお母さんが階段に陣取りおっぱいをぽろんと出して授乳中でした。ごく当然のようでした。その話をオランダ人の別のお母さんにすると、オランダでも当たり前、何でも有りだよとの返事。あ、もしかすると一昔前の日本?後年、日本の保健所の廊下でタオルを被せつつ未子の授乳を始めたら保健婦さんが慌てて飛んできて別室に案内してくれました。授乳室、個人間でも文化間でもなかなか言葉の底までは届かないのでしょう。


 

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「選後鑑賞」令和7年「橡」4月号より

2025-03-29 10:39:17 | 俳句とエッセイ
選後鑑賞     亜紀子

友の訃のメール一行虎落笛  國廣辰郎

 メールの訃報というから、遺族からでなくて友人つながりの連絡網か何かだろうか。ただ一行の知らせ。その切なさを虎落笛という語に託された。急な連絡にはかつては電報が全盛だったが、メールの世も電報の世も人間そのものは変わらない。究極別れは一行かもしれない。

あたたかき灯に迎へられ雪の宿  中野順子

 掲句を詠まれた折はまだ先日の豪雪の前。宿の灯は雪道を来た者にとっていかにも暖かく、ほっとする。雪の宿という名詞止めも安堵の気分。秋田横手のかまくらのおもてなしを連想した。 

微笑みを忘れぬやうに初鏡  水本艶子

 初鏡は様々の角度から詠まれる。父母に似た顔を発見したり、きりっと久しぶりに紅を引いたりと。これからまた新しい年何があろうとも微笑みを忘れぬようにと誓う作者。その一言、私も胸に留めたい。

隙一寸交はす雪壁対向車  小林一之

 数メートルの積雪の壁。すれ違いもできそうにない道幅を間一髪で上手いこと交わす車と車。車は擦らず、壁には当たらず、これぞ雪国。

雪二尺玄関先もままならず  小林未知

 二尺、約六〇センチメートルの積雪。せめて門まで、玄関先だけでも雪掻きをしようと思うが、いやはや大変な作業と想像される。これが雪国。

振り売りの荷台あをあを冬菜買ふ 寺坂貞美

 軽トラで近郊野菜の販売か。車で遠くのスーパーに行かずとも新鮮な野菜が手に入るのはありがたい。荷台あをあをの措辞から、朝採り青菜満載の景色。

百合鷗釣りの一挙に寄りて散る  田中順子

 釣り人がリリースする魚を狙っているのだろう。竿を引き揚げると散らばっていた百合鷗は一斉に集まる。釣果のお零れに与れなければさっとまた散る。一挙に寄りて散るの措辞が鮮やか。ちなみに溜池の青鷺が釣り人の友達のようにじっと寄り添って動かぬ景を見たことがある。

百寿まで生きよと小さく雑煮餅  鈴木月

 いつの頃から人生百年時代と言われるようになった。元気に長生するように祝う雑煮であるが、これが危ない。小さく食べ易いようにと気遣う。本当に百寿を目指したいもの。雑煮餅は喉で食べるのが醍醐味、チャンクのまま飲み込む喉越しを味わうんだと聞いたこともあるが、やっぱり危なそう。

砂利みちを均す御陵や建国日  飯堂佳子

 どちらの御陵だろうか。敷かれた白い砂利道を綺麗に均して。折しも建国日、お参りする人々も多いのかもしれない。

よりそふの灯文字をろがむ阪神忌  三宅未知代

 阪神淡路大震災から三十年。なんという月日。しかし年月は経てもなお被災者に寄り添い、またこの間に起きた他の様々の災害被災地にも想いを寄せようと、追悼の集いの広場には灯籠が「よりそう」の文字に並べられた。神戸在住の作者。をろがむ心の真実。



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「光の春」令和7年「橡」3月号より

2025-02-27 12:23:51 | 俳句とエッセイ
光の春   亜紀子

冬の雲心に蓋をして歩く
リハビリで緋色肩かけ編みくるる
寒林に礫と入るは目白らし
雑踏はアジアの坩堝松過ぐる
冬の鷺小魚覚ます足づかひ
寒最中養生せよと百花蜜
大寒や樟の実ねぶる鵯の群
花粉症苞のケーキのこけてをり
初場所や贔屓ころころ変はりたる
日脚伸ぶ二日見ぬ間に子も育ち
走る人光の春に列なして
笑み返すみどりごに寒明けにけり
立春はいつも名ばかりはあて空
二月早ややこおもちやに手を伸ばす
忘却に抗ふべしと阪神忌

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「令和七年三月の青啄木鳥集から」令和7年「橡」3月号より

2025-02-27 12:21:31 | 俳句とエッセイ
 令和七年三月の青啄木鳥集から   亜紀子

 最近、いつもの地元の句会の折に昨年の青蘆賞のことが話題になりました。自分の作品の力量を知りたいが、応募したものの予選外で何の反応も貰えない。自分でも全てが納得のいくものではなかったが、いくつかの句は自分の生活、人生において意味深いものであるので何らかの評価が得られれば励みになるのだがという内容でした。確かに一年に一度、満を持して応募されたのですから気持ちはわかります。今号に拾遺として選外作品のそれぞれから一句ずつは掲載しますが、それが全てではありません。見応えのある句はもっとあるのですが、こうした賞では十五句が揃わぬと全体として高評価に結び付かないのが惜しいところです。
 落選してもがっかりせずに、他人の作品を見て良いところを吸収し、自句を省りみて良いところ、まずいところを判断していくのが学びになるのでしょう。そう考えると選者はたくさんの作品からいつも学びを得ることができるので、ちょっとずるいですね。また自句の良し悪しが分かるようになるのが一番難しいところのような気がします。それが出来るようになれば、あとはもう自由自在なのではと想像するのですが、私は生きてある間には到達できない気がします。
 一ヶ月間に、同人集、橡集、全ての作品をじっくり味わっていただきたいと思います。また皆さんそうされているかとも思います。今回はあえてまた青啄木鳥集からいくつか取り上げてみます。

凍蝶の祈るが如く翅合はせ  関東忍

 祈るが如くという形容は蓮の蕾だったり、冬木の芽だったりと時折使われます。両の掌を合わせ上向きの形です。この表現はままあるよと通り過ぎてしまいそうですが、蝶の場合はどうでしょうか。薄い二枚の翅が一枚になったように閉じられて、木の葉の陰などでむしろ下向きになっているように思います。寒い冬を成虫の形で耐える種類の蝶です。その祈りは命をかけて実に固いのです。作者は実際を観察し、そのさまに真の祈りを感じたのではないでしょうか。

凩や妙義に夕日吹き落し  黛正登志

 北風吹きすさぶ頃、山の夕日は一気に沈みます。上州の空っ風は厳しく、峨々たる妙義の山容も厳しく、
まさに吹き落されていく冬日です。

元旦や氏子多きに驚きぬ  石橋政雄

 東京の明治神宮、名古屋なら熱田神宮などは全国からの参詣人で行列ができるのは有名です。掲句の神社はあえて氏子の人数を言うからには身近な産土神でしょう。普段はお参りする姿も見えず、またコロナからこのかた去年までは初詣もさほど賑わいはなかったのに、今年は思いの外大勢。え、こんなに氏子がおったっけという一言です。私もこの思いを強く抱く景色を見ました。世の中の不穏、神を頼む気持ちは皆に共通なのかもしれません。

裸木やサッカーボール受けて立つ  木下多惠子

 公園か空き地か、正式な練習場ではなさそうです。子供の蹴ったサッカーボールがたまたま枯木に当たったのか、あるいは跳ね返り具合がちょうど良い木を相手にシュートの練習をしているのか。「裸木や」とあえてや切れで詠みだし、受けて立つ幹はかなり太そうで頼もしい様子です。木は手袋もせず素手でキャッチ。

稜線の潤みそめたり初山河  市村一江

 仄かに明るみ始めた山稜ただそのことを述べて、無事初春を迎えた喜び、故郷の自然への思い、しみじみと感得されました。

初雪や季寄せ携へ友来たる  香西信子

 句会ですね。折からの初雪に会話が弾むことと想像されます。

覚めてなほ何やら楽し夢はじめ  松尾守

 幸せというのは、こうしたちょっとした瞬間の事を言うのだろうと思いました。

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「選後鑑賞」令和7年「橡」3月号より

2025-02-27 12:13:14 | 俳句とエッセイ
選後鑑賞    亜紀子

初雪に古巣繕ふ鴉かな  島野美穂子

 年明けて暫くすると鴉の頓狂な声が聞こえてきた。これまでの鳴き方とは明らかに異なる。私は、少し早過ぎるようだがそろそろ恋の兆しかもしれないと勝手に考えた。街中で身近な鳥の中で鴉や四十雀の繁殖期が早いように感じているが、果たしてどうだろう。
 掲句の鴉は雪国ではないので初雪に会うのは年明けの寒の頃と考えられる。作者はうっすら雪を被た枝の間の古巣を繕う姿を見つけられたようだ。鴉のバレンタインデーがかなり早い時期なのではという推測もあながち間違いではないかもしれない。また鴉は毎年同じ巣を利用することも多いらしい。あるいは掲句の鴉は冬の間の空家になっている自分の家を見回りしていたのかもと想像が働いた。鴉に詳しい方に聞いてみたいものだ。
 いささか嫌われ者かもしれない街鴉ではあるが、作者はこの寒さの中で生きる営みを続ける姿に共感を寄せる。

職退きて青春切符旅はじめ 中野順子

 青春切符とはJRが発売しているお得な特別切符。発売期間、利用期間が定められているが、全国のJR線の普通車、快速列車の自由席、バスやフェリーが乗り放題の謳い文句。三日間用と五日間用がある。青春18切符の名称だが、年齢制限はなし。
 第二の人生の文字通り初旅。目的に合わせて上手に時刻表を組み合わせるのも楽しみ。特急列車で走ってきたこれまでとは違って、のんびり行きたい。これからまた青春の日々。
 一月の東京例会に出された一句で、この時の作者の説明では切符の利用の仕組みが以前とは少し異なるようだ。詳しくはJRにお問い合わせを。

客去りて温もり残る冬座敷 大森克子

 居間を温めて迎えた客人。語り終え、名残りを惜しみつつ見送った。部屋の温度と共に、楽しい語らいの心の温もりの余韻。冬座敷ならでは意識される暖かさ。

冠雪の比良山美しく湖静か  松島道代

 雪を被た比良山系は美しく、琵琶湖水はあくまで静謐。景を素直に詠んでただそのままの表現に、ただそのままの姿が眼前に浮かぶ。あえて講釈加えてみれば「ひらうつくしく」の音感に惹かれる。

紅葉狩マタギの径の現るる 眞塩えいこ

 秋の山路を行けば、掲句のような場面に出くわすこともあるのだろう。マタギの径はまた獣の径ではあるまいか。昨今のあちこちの熊騒ぎ、はたと身構えてしまう。

金鯱城一本竹の松飾り   片岡嘉幸

 一対の金の鯱をいただく名古屋城の別名が金鯱城(きんこじょう)。正月を迎えるにあたり暮には正門に門松が立つ。江戸時代の記録を基にしているそうで、一本だけの青竹に松、笹を添えてシンプルながら大きく立派なもの。竹は武士の剣を表しているとか。武家の門を飾るに相応しい姿。

初詣俄か仕立の仮神社   中崎かづえ

 掲句拝読して、あの大地震からはや一年が巡りきたことを改めて意識する。初詣にあたり俄か仕立ての仮社。社を建てるのも人々の協力と骨折りがあったことと想像する。仮であっても神を祀り、悼みと祈りの心を捧げずにはいられない。

夢ながら掻く水鳥や月の湖 谷本俊夫

 浮寝の鳥が時折り水を掻くのは夢を見ているのか。一幅の日本画か、ドビュッシーの一節か。美しい一句。

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