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橡の木の下で

俳句と共に

「名古屋橡会吟行 東山動植物園の春を楽しむ会」 令和7年「橡」5月号より

2025-04-29 19:17:04 | 俳句とエッセイ
名古屋橡会吟行 東山動植物園の春を楽しむ会
                    亜紀子

 三月十八日火曜日、名古屋市動植物園にて名古屋橡会の吟行句会。この動植物園は大正七年に市内の別の場所に開園された後、老朽化と手狭になった理由から昭和十二年に現在の場所に移転。丘陵地の森を利用して街中に自然の緑の一角を保っている。歴史ある園で、今も研究や教育的価値、種の保存に努め、また誰にとってもより楽しい場所となるよう新しいニーズに対応すべく再生進行中。今日は天候にも恵まれ、珍しい動植物の句がたくさん詠めるだろうか。
 最寄りの地下鉄口の階段を上って行くと、見覚えのある後ろ姿。京都のFさんではないかしら。つい先日米寿を迎えられた人の足取りは実に矍鑠としている。声をかければやはりFさん。今月初めに関西俳句会でお世話になったお礼からお喋りが始まり、園へと向かう。
 公園入り口近く、待ち合わせの動物会館前で一同集合。名古屋から五名、東京から一名、関西から三名の有志の予定だが、名古屋組のSさんの姿が見えない。日程を間違えていたらしい。これから出発して午後からの句会に間に合わせるとの連絡。それではと広い園の散策開始。
 本園、北園と別れた動物園の本園の道を進む。ここには象の親仔、コアラ、キリン、給餌どきの仕ぐさが愛らしいレッサーパンダなど、子供達の人気者が揃っている。園内の桜は未だ蕾、遠足シーズンにもまだ早くウイークデーということもあって比較的静かだ。それでも出会う子供達は溌剌。我が昔を思い出しても動物園は全てが物珍しく興味津々、楽しい場所だった。
 
春禽のそやす大食インド犀  F
囀りやくるりと動く犀の耳  T
仔象へと駆寄る小さき春帽子 TU
春昼や瞼重たきカンガルー  T
春眠しコアラのやうに父の腕  Y
動物園尻ばかり見てうららけし I

 シニアグループの水彩画を覗き、動物園を抜け、眼下に一般道を見て架橋を渡り植物園へと入って行く。入り口のバラ園では土の入れ替えと新しい苗の植え付け中。園丁の中に若い女性も混じっている。真紅のバラの芽。植物園内のスポットは重要文化財指定の温室、水車を置く池のほとりの合掌造りの家、本日の句会場の茶室で名古屋の俳人横井也有の名を冠した也有園。梅林、椿園、東海の森の道、ビオトープ、湿地園、丘陵を昇りつめれば桜の回廊等々、多彩。今はサンシュユ、マンサク、トサミズキ、ヒュウガミズキなど、早春の気に満ちている。湿地園の苔の中、寒葵の滋味深い花に遭遇。咲いているのを見るのは初めて。梅や椿の花に遊ぶ目白。四十雀の囀。鳥たちの恋の季節もこれからが本番か。

 句会場で遅れて来たSさんと合流。Sさん曰く、とにかく間に合うようにとパジャマのまま出てきましたよ。一同笑。

花樒薮の日ざしにすぐ紛れ   YT
山茱萸や小流れ謳ふ也有邸   YT
のどけしや絵筆ふる人ほむる人 M
姉死して八重寒紅は花開く   MS

 也有園の立礼席の机と椅子が組み立て式で妙にグラグラするのを別にしたら実に愉快な句会を終え、またもと来た道を帰って行く。北園に寄ってイケメンゴリラのシャバーニ、その子清正に挨拶。どれも後ろ姿で判然としなかったが。名古屋に一晩泊まる人、一路自宅へ戻る人。
 お世話になりました、有難うございます。

 文中の句はいずれも当日の吟行句ママ。完成形もあれば、これから推敲の句もあるでしょう。読者の皆さんの感想はいかがでしょうか。なかなかその場でパッと決めて詠む力は私にはありません。後々の推敲が肝心ですが、その場を離れて捏ねてしまうとかえって上手くいかぬことも多々あります。精進、精進。

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選後鑑賞令和7年「橡」5月号より

2025-04-29 19:13:53 | 俳句とエッセイ
選後鑑賞     亜紀子

探梅やナビに引かれてかくれ里  高嶺京子

 ナビなしでは目的地に到着できない、ナビさえあれば人知れぬ隠れ里にも容易に至れる、現代のドライブ事情。「子に手を引かれ」という句は間々見られるが、ナビに手を引かれての探梅行は珍しい表現。馥郁と梅香る仙境に到達されたことと思う。

足元の水音軽し花薺   成田博

 薺、ぺんぺん草、懐かしい春の小川の景。野道を行く足取りも軽いだろう。ところで我が家周辺の街路樹の根元、咲いている薺はどうやら帰化植物の種類のようだった。

はだら雪弔ひ準備活気づき  石井登美子

 畑や野に残る雪。風はまだ冷たいけれど光は眩しさを増して春は間近。村あげて、村の古老の葬式準備。葬儀は全て村人こぞって分担の昔。もちろん悲しみは通底しているが、ある意味祭典、祝いのようでもあると解釈した。現代の葬儀の在り方とはずいぶん違うだろう。

ベビーカー広場真中の日向ぼこ  長谷川てる子

 広場の真中を占有できる時間帯は小学生たちが学校にいる間。お昼間の暖かな日差し一杯、赤ちゃんとのんびり過ごす若いお母さん。お仲間はいるかしら。一人ぼっちではないだろうか。あるいはママ友グループか。日向ぼこしながら眺めている作者。

物種を蒔きて見廻る雨の後  田村美佐江

 蒔かれた野菜は何だろう。春の一雨、畑は落ち着いているかどうか。いつ芽生えるだろうか。見廻りは欠かせない。農事は骨の折れることとは思うけれど、廻る足取りに喜び、期待が伝わってくる。 

公魚釣り夜明けとまがふ月明り  渡邊和昭

 煌々と満月が湖を照らす。氷上にはランタン灯る公魚釣りの小さなテントが並ぶ。幻想的光景。
 公魚は夜行性で夜間によく釣れるらしい。漁期は冬場。子供の頃、赤城山の湖の天然スケートリンクで遊んだ。あれは大沼だったろうか。氷上に開いていた丸い穴が公魚釣りのものと教わった。

綴れ織る爪を磨けり春を待つ  今村さち

 辞書を引くと、綴れ織りは文様を織り出す最古の製織技法。エジプトのコプト織、フランスのゴブラン織など。下絵を経糸の下に置いて、絵柄の通りに横糸を縫い取るように織っていく。日本では奈良時代に始まる。
 京都西陣の特産。正式名称、西陣爪掻本綴織(にしじんつめがきほんつづれおり)は必要な部分の縦糸を杼ですくい、爪先で横糸をかき寄せ織り込んでいくのだそうだ。繊細で手間のかかる仕事。この爪、長く伸ばして鋸状に研いである。職人の感性で仕上がりは一点一点異なるものになる芸術品。
 京の冬は底冷え。織子は爪を大事に磨きつつ、春を待つ。綴織の完成には長い時間がかかる。

茶畑の覆ひはづされ風光る   細辻幸子

 茶の萌芽期に霜害から守るための覆。いよよ良き季節を迎えて外された。しっかりを日を浴びて茶の木も清々としているだろう。われ我皆の気持ちでもある。
ところで玉露やかぶせ茶、てん茶などの被覆栽培もこの晩霜から守る覆から始まったとのこと。

待春や浴びて湯立の笹しぶき  岩佐和子

 湯立神事の湯にこの身を祓われ、この一年の安寧を祈る。明るい季節、春を待つ心。



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「春風」令和7年「橡」4月号より

2025-03-29 11:42:30 | 俳句とエッセイ
 春風   亜紀子

術もなき日や雪雲もうづくまり
ああさうかバレンタインの乙女らか
この街に過ぎし半生冴返る
朝焼や二月の木々が鬨あげて
日脚伸ぶいつそ寂しき日暮なり
春近し絵本に見入るみどりごに
白腹の落葉掻く音にふり返る
切株の餌に黙し寄る冬の鳥
思ひ出はみな父母のこと雛飾る
春風やとんとんすればすぐ眠り
豊頰の赤子を膝に初ひひな
梅ふふみ瀞を離るる鯉の群
鶺鴒に白川の水温みをり
春愁や霧に閉ぢたる東山
雨つづり今にも芽吹く雪やなぎ

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「言葉の井戸と助詞」令和7年「橡」4月号より

2025-03-29 10:42:55 | 俳句とエッセイ
 言葉の井戸と助詞   亜紀子

 春日さす絵本の家に授乳室  洋子

 先日、あるネット句会で勉強になった句です。作者の感慨は春の日差しあまねき絵本の家に授乳室が設けられている。ここを訪れた若い母親はゆっくり赤ちゃんにおっぱいをあげることができるなあというものでしょう。「三鷹市星と森と絵本の家」は三鷹市国立天文台の森の中にあります。市が大正時代の建物を保存活用した常設施設で、絵本のほか様々な体験を通じて子供達が好奇心や感受性を育む場となっているそうです。写真を見ると緑の木々に囲まれた木造、瓦葺きの美しい建物です。
 実は私は句会でのコメントに「絵本の家の授乳室」とすることもできるのでは?と入れました。こうすると、最終的な焦点は授乳室が在るという事実より、ただ授乳室そのものに重みが行くかと思いました。どちらの助詞が良いかという事ではなくて、意味がどのように移るかという事です。
 今もう一度考えてみると、原句を変える必要性はさらさら無いと気がつきました。むしろ母音のイ音が上五中七下五に一つづつ入って調べに効果的です。なのになぜ一読目に「に」と「の」の助詞に拘ったのか、自分の言葉の井戸を覗いてみます。
 少子化対策ではないでしょうが、現在赤ちゃん連れの親御さんの外出時の便利、不便を社会が考え始めたように見受けられます。私の最寄りの駅にはベビーカーの絵とともに、赤ちゃんの外出には必須の乳母車ですから、邪魔者扱いしないであたたかく見守ってくださいという趣旨のポスターが貼られています。公共トイレには、まだ女子用トイレのみのようですが、お襁褓替えのできる場が設けられるようになりました。そして授乳室。デパートやモールなどの商業施設のほか、様々な公共施設、あるいは鉄道駅構内にも授乳のできる部屋が設けられていて、ネット上の地図で検索できます。外出時にはあらかじめ時間や距離を考慮して授乳のタイミングを計ることができるようです。
 俳句に戻りますと、私の言葉の井戸の中では、子供を対象にしている「絵本の家」に授乳室が在るのはごく当たり前ではないかという気持ちが働いたのだと思います。それゆえ「に」という助詞に当然のことを当然でないような強調を感じ取ってしまったのです。しかし、作者はそこまで意識されてはおらず、ただ実際の景をそのままに描写されているのでしょう。

 ある言葉が内包するものは、例えば授乳室というたった一語でも重なる部分はありながら、それぞれの個人で皆少しづつ異なっているのですね。あまり他人とかけ離れていては俳句に仕立てても誰にも通じない作品になるでしょうが、少しの違いを意識してそこを句にすれば面白いものになるのでしょう。そもそも詩は月並みを嫌います。

 拙句を引いて恐縮ですが、また別のネット句会で

かるかんや窓辺の月も円かなる

を提出した折に、助詞「も」は「の」とさらりと詠めるのではないかとコメントをもらいました。土産にいただいた鹿児島の郷土菓子軽羹はお月様のような丸い優しい形のお饅頭でしたので拙句となりました。しかし「も」は確かに難しい助詞であまり強調すると句が臭います。ここで私の言葉の井戸には軽羹は本来は棹菓子であり丸い形は比較的新しい考案であること、また、そもそも他所の読者は軽羹を知らない人もあるだろうということがありました。未知の読者には軽羹という言葉に引っ掛かりを持って欲しいという思いも「も」という助詞に込めました。そもそもたいした句でないのでその思いは空振りですが。
 授乳室に関する余談です。三十数年前のカナダロッキー山脈の麓、洒落た登山洋品店の店先でタンクトップ姿のよく日焼けしたお母さんが階段に陣取りおっぱいをぽろんと出して授乳中でした。ごく当然のようでした。その話をオランダ人の別のお母さんにすると、オランダでも当たり前、何でも有りだよとの返事。あ、もしかすると一昔前の日本?後年、日本の保健所の廊下でタオルを被せつつ未子の授乳を始めたら保健婦さんが慌てて飛んできて別室に案内してくれました。授乳室、個人間でも文化間でもなかなか言葉の底までは届かないのでしょう。


 

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「選後鑑賞」令和7年「橡」4月号より

2025-03-29 10:39:17 | 俳句とエッセイ
選後鑑賞     亜紀子

友の訃のメール一行虎落笛  國廣辰郎

 メールの訃報というから、遺族からでなくて友人つながりの連絡網か何かだろうか。ただ一行の知らせ。その切なさを虎落笛という語に託された。急な連絡にはかつては電報が全盛だったが、メールの世も電報の世も人間そのものは変わらない。究極別れは一行かもしれない。

あたたかき灯に迎へられ雪の宿  中野順子

 掲句を詠まれた折はまだ先日の豪雪の前。宿の灯は雪道を来た者にとっていかにも暖かく、ほっとする。雪の宿という名詞止めも安堵の気分。秋田横手のかまくらのおもてなしを連想した。 

微笑みを忘れぬやうに初鏡  水本艶子

 初鏡は様々の角度から詠まれる。父母に似た顔を発見したり、きりっと久しぶりに紅を引いたりと。これからまた新しい年何があろうとも微笑みを忘れぬようにと誓う作者。その一言、私も胸に留めたい。

隙一寸交はす雪壁対向車  小林一之

 数メートルの積雪の壁。すれ違いもできそうにない道幅を間一髪で上手いこと交わす車と車。車は擦らず、壁には当たらず、これぞ雪国。

雪二尺玄関先もままならず  小林未知

 二尺、約六〇センチメートルの積雪。せめて門まで、玄関先だけでも雪掻きをしようと思うが、いやはや大変な作業と想像される。これが雪国。

振り売りの荷台あをあを冬菜買ふ 寺坂貞美

 軽トラで近郊野菜の販売か。車で遠くのスーパーに行かずとも新鮮な野菜が手に入るのはありがたい。荷台あをあをの措辞から、朝採り青菜満載の景色。

百合鷗釣りの一挙に寄りて散る  田中順子

 釣り人がリリースする魚を狙っているのだろう。竿を引き揚げると散らばっていた百合鷗は一斉に集まる。釣果のお零れに与れなければさっとまた散る。一挙に寄りて散るの措辞が鮮やか。ちなみに溜池の青鷺が釣り人の友達のようにじっと寄り添って動かぬ景を見たことがある。

百寿まで生きよと小さく雑煮餅  鈴木月

 いつの頃から人生百年時代と言われるようになった。元気に長生するように祝う雑煮であるが、これが危ない。小さく食べ易いようにと気遣う。本当に百寿を目指したいもの。雑煮餅は喉で食べるのが醍醐味、チャンクのまま飲み込む喉越しを味わうんだと聞いたこともあるが、やっぱり危なそう。

砂利みちを均す御陵や建国日  飯堂佳子

 どちらの御陵だろうか。敷かれた白い砂利道を綺麗に均して。折しも建国日、お参りする人々も多いのかもしれない。

よりそふの灯文字をろがむ阪神忌  三宅未知代

 阪神淡路大震災から三十年。なんという月日。しかし年月は経てもなお被災者に寄り添い、またこの間に起きた他の様々の災害被災地にも想いを寄せようと、追悼の集いの広場には灯籠が「よりそう」の文字に並べられた。神戸在住の作者。をろがむ心の真実。



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