ヒトを亡くすということ(20190818)
ヒトを亡くすということ、それは今後の不安を一気にかきたてる。
これまでそうだったし、これからもそうだろうことが、突然消えてなくなってしまう。
当てにしていた期待と安心そして今後の見通しの一切を一度に失う。
(でもそれは命を落としたご本人が一番感ずることであって、遺った私達になど とうてい思い及ぶものではないのだが)
そんな経験が2011年に相継ぎ、以降私の生活を大きく変えてしまった。
それから1年が経ち、偶然再開したフライフィッシングが今の新しい世界を拓いてくれた。
仕事よりフライフィッシングが日常になりつつある頃の8/6、突然の悲劇。
直接的な面識はないものの、大分管釣りや大分川釣り大会で間接的にお世話になっていた。
その方が突然亡くなられて、これまで如何に関わってきたのかを、今更ながら思い知らされた。
つまり旅館活魚のみならず大分管釣りシーンそのものまで廃れるかもしれない、というのだ。
この事件はかつての喪失をまざまざと思い出させ、私自身「何故お前が」という程の悲嘆に襲われた。
突然ヒトを亡くす、それは関わるヒト全ての日常を大きく変えてしまう。
そんなこのお盆、悲劇に無関係な何気ないやり取りが私にとって救いになった。
それは時として、遺された人の癒しになるらしい。
このことは、心に留めよう。
押し付けがましい気遣いではなく、何気ないやり取り、それがヒトを癒す。
このことは本当に心に留めよう。
また、そういう配慮が出来るようになろう。
悲劇の掘り起こしや共感ではなく、全く無関係な何気ない触れ合いこそが、立ち直りのきっかけになる。
これは本当に心に刻もう。