Nonsection Radical

撮影と本の空間

読み解くためのものじゃないだろうと

2013年10月28日 | Weblog
様々な表現、映画、小説、写真、絵画、音楽などを楽しむ方法に「読み解く」という行為がある。
それはそれで作者の意図を味わい、他の人の気づかない事に思いを馳せ、ある種優越感を覚える事であるし、同種の事を行なっている人には我が身の参考になる事ではある。
でも、それがわかっていないヤツはシロートだからダメで、楽しむ”価値”のないヤツだ、という考えにはそうかなぁと思う。
もちろん作品に込められた作者の要素を理解すれば、より作品に対する楽しみ方にも幅が広がるだろうけど、それを前提とした作品である場合を考えれば、随分つまらない事をするものだと一面では思う事も出来る。
読み解くための読み解き、テストのためのテストみたいなものは、時には高尚な効果を発揮する場合もあるけど、多くが底の浅いものに感じる事も事実だろう。
その作品から得た感情が、どういうプロセスで自分に訴えかけてくるのか分析する時に、理解を深くする要素を身につけていればわかりやすい手助けになるというものが理想的だ。
そうであるならばその要素を口に出す必要はないだろうに、その要素だけを語り、肝心の得た感情を語る事がない「私”だけ”は知っている」自慢になるケースが多くて、じゃぁそれで何を感じたんだよぅ?って突っ込みたくなる場合が多い。
評論家ならそれはそれで仕事の一部として認められるだろうが、そんな事をシロートがして楽しいのかという疑問もわいてくる。
まあそれが行き着いて、ファストフードであろうと何か気の利いた”評価”をするのが昨今のハヤリであるけど、そんなことイイんじゃないの?と思うのは、相良直美のの影響がないとは言えない。
あるものに触れて、なんかこれすごい!と思う感情が現われればそれがその人の感受性であり、その感性が得られれば触れた価値があったものだと言えないか?
そしてその感情がどこから来ているのか知りたくなった時に初めて”知識”が役立つのであり、読み解く事だけを重要視すると、ものを感じて楽しむという事がどこかに追いやられてしまう。
楽しかった、面白かった、泣いた、驚いたなどたくさんの喜怒哀楽を感じてこその「鑑賞」をもっと楽しむべきじゃないのだろうか?
特に何か自分でも表現行為に携わっている人こそ、技術や思想と離れて感受性を最大限活かして楽しむべきじゃないのか?





近鉄八尾駅前
大阪府八尾市光町1丁目
撮影 2013年10月12日 土曜日 12時40分


飯沼観音
千葉県銚子市馬場町
撮影 2013年8月12日 月曜日 15時10分
コメント
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