Nonsection Radical

撮影と本の空間

閉じた空間

2013年10月03日 | Weblog
大阪府警の不審者情報のニュースを読んで、なるほどねぇと思った。
satoboは各地の街並みを記録しようと歩き回っているが、その際の実感と差がないので納得したわけだ。
自覚はしているが確かに不審者だ。
天下晴れての公道しか歩かなくても、あからさまに不審者扱いされる。
だって”よそ者”はみんな不審者なんだもん。
その意識は都会や田舎とかの区別はなく、どこでも多くが”閉じた空間”である限りは、外部からの侵入者は不審者で排除される立場にあるのだ。
”ムラ意識”とは言うが、村でなくても閉じた空間を人は望む。
そうする事によって外部からの脅威を排除出来るし、自分たちだけのルールで生きていける安心社会を築けるのだから。
それを自治と呼ぶのなら「閉じた自治」と言えよう。
一方で、閉鎖された社会では”進歩”は望めなくなってきた。
何百年も変わらない生活をおくってきた時代なら、進歩などせずとも喰っていければ何も問題はなかったのだが、喰うために米を作るのではなく、喰うための労働をし、その賃金で米を買うという生活スタイルになってからは、人も物も流通という行き来が重要になり、閉じた社会では流通が(つまりお金が)滞るワケだ。
まあ国内での開国状態になったわけだが、やはり”攘夷派”は存在するわけだ。
現在のように地方も疲弊し、お金の流れが少なくなっている昨今では、いかによそ者を呼び寄せ、お金を落としてもらおうかと考えるのが”観光”の目的になっているわけだが、それでいて一方ではよそ者が地域を歩き回るのを不安に思い、出来れば排除したいと思う気持ちが残ってはいる。
昔から人の行き来が盛んであった場所では、それでもよそ者を受け入れる余地は現在でもあるのだけど、つい最近まで閉じた空間であった地域では、いくら田圃がマンションに変わり、ショッピングセンターにクルマで外部からよそ者が来るようになっても、それに慣れてはいない。
自分たちがその変化を受け入れなければならないとわかっていても、不安心理は拭えないのだ。
だから都市部であっても、住民の移動が少なかった地域では、よそ者=脅威という気持ちはなくならない。
活性化とは外との行き来が盛んでなければ成り立たない。
商店街であれば、新旧のお店が入れ替わらなければ、来る人も変わらない。
地域であれば、新たな住人が住みつかなければ新たな地域社会が生み出せない。
それが現実なんだけど、どうしても受け入れる事に不安を感じる人はいて、たとえ沈没していこうとしても変化するよりはマシと殻に閉じこもろうとする。
その現れが、どうでもイイ情報であるにもかかわらず、その情報によってのみ外部からの侵入者を排除しようとする今回の「不審者情報」なのだと思った次第だ。




豊橋駅前
愛知県豊橋市花田町西宿
撮影 2013年9月7日 土曜日 12時40分


長崎町
千葉県銚子市長崎町
撮影 2013年8月12日 月曜日 13時40分
コメント
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