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ゆずりぶし

 夜半から降り続いた雨が昼過ぎに上がり、
陽射しとともに路面も乾き始めた15時頃。
3時間も持たない陽だと知りながらも、100kmほど走ってきました。

・・・・という写真付き日記のつもりだったのですが、
あまりにもがっかりな出来事があったので、
すっかり意気消沈しまして、予定を変更して(?)お送り致します。
 
 
 
 譲る。

 私は実によく譲ります。
過去触れ合った様々な人々の中の一部には、
「なんでそこで譲るの?損じゃん。」「馬鹿らしいと思わないの?」
などと、時には学校の教師にも言われたような気もしますが、
一瞬『そうなのかなぁ』とは思うものの、
そんな事は意に介さず、
そこに”正義”と”道理”と”人の情”が存在する限り譲って来ました。
 
 ですが、そこに打算はあってはなりません。
厚意の中に打算が存在しては、その意義そのものが否定されると考えます。 
 
 
 
 例を挙げると、交通状況下で言うのなら、
”強引に割り込んでくる””待つべき所で待たない”などの、
道理と正義が通らない相手の場合には、極力譲らないように努めています。

”自分がそこで譲ると後続の意識の低い四輪に追突され、周囲に迷惑が掛かる”
などの場合は、
道理としての周囲への配慮を優先してやむなく譲らない事もあります。
 
 
  
 先日、某閉鎖的SNSで
【髪の入った料理が出たらどうする?】との話題がありました。
そこで私は、”サービス業としての心構えはまったく別の話だが”、
「髪の毛程度では交換の要求もしないし、怒ったりしない」と答え
「例えお金を払うものでも、無駄な廃棄に繋がるような事はしたくない」
と答えると、即座に

「外食産業なんてみんな廃棄すごいやってるじゃん、
    なのに自分だけ我慢するの馬鹿らしいと思わないの?」

との問いが、あるユーザーから寄せられました。
この反応には実に驚いたものですが、
世の中の現状を具に観察するに、さもありなんとも感じました。

 無論私の答は
「思いませんね。
 みんながやってるから自分だけ損するのは馬鹿らしいなどと絶対に思いません」
そう応じたものですが、
これには”正義”と”道理”が存在しないので譲る気はありません。
 
 勿論、”健康を害するもの”などについてはその限りではありませんし
先述のように”サービスを提供する側”は己を厳しく律し仕事にあたるべきです。 
 
 
 
 
 ざっとこのような思考で生きておりますが、
今日のツーリング中でも何度か、道理のある相手には道を譲り
困っているであろう歩行者(当然のように道を遮る不心得者は違います)にも譲り、
それでも尚、
信号待ちでは自分本位で発進までウィンカーを出さない四輪や
曲がり始めるまでウィンカーを出さない下手クソな四輪に憤りつつ
目的地まで、ドライバーの目線や挙動から思考を読むことで
その類を適当に処理しながら無事に到着しました。

 当然ですが、ウィンカーはできるかぎり早期に
”周囲の人間に自分の【人を殺せる装置】が動く方向を示す”もの。
相手に認識させてこその装置なのですが・・・なぜそれが理解出来ないのか。
他人の命を奪う悲しい事故が一向に減らないわけですよね。
 
 
  
 そんな中、ふと立ち寄った本屋でのある出来事。
これがとても印象的で、残念な出来事だったのです。
 
 レジで本を購入し終え、
隣の列の中学生ぐらいの子達の間を抜けるのに「すみません」と頭をさげつつ、
2人程が並んで通れる、2重の自動ドアと防犯ゲートがある入り口まで至ると、
外から家族連れが入ってこようとしていました。

 タイミングとしては、出る私も、入る彼らも同じようでしたが
”密閉空間からの出入りでは、基本的には出る人が優先”という不文律を破り
(電車や混雑した建物などでは、中の人が早く出ないと迷惑になります)
彼らに道を譲るべく、店内側の入り口側方に一歩退いて『どうぞ』と合図。

 もちろん、店内が空いており、
私の後ろには待っている人が居ないことを確認した上での行動です。
 
  
 そこで、2列になった家族が私の前を通過するのを待つと・・・

・前列の2人(小学校高学年と中学年の姉妹か)なんの反応もなく通過
・中列の2人(40歳ぐらいの母と、幼稚園ぐらいの娘)一瞥して通過
・後列の2人(70歳ぐらいの祖母と、中学生ぐらいの娘)訝しげに通過

『あーあー・・・こんなもんか。』もはや呆れてなにも。
 
 先にも申し上げた通り、
”差し上げる厚意”に”打算”は含まないつもりで行動していますので
決して「お礼を言え」などとは考えてもおりません。

 
 私の出るタイミングと、
彼らの入るタイミングはほぼ同時だったわけですから、
相手目線で”目の前から入ってこようとした人が、横に避けて待っている”
というのを理解するのは、並の知能があればさほど難しくないと思います。
 
 もし、それを認識しても尚
『なんでこの人横に突っ立ってんの?おかしいんじゃないの?』
とでも考えているとすれば、それはもう最悪以外のなにものでもありません。
彼らの表情を見ると、
強ちその想像が間違ってもいない気がするのが恐ろしいです。

 70歳の祖母も、40歳の母も、中学生の娘も・・・この親にしてという事。
もはや「最近の若い者は」などという程度の話ではないわけです。
そしてこのような事例は、大変残念な事にこの一家に限った事ではないのです。 
 
  
 仮に私の子供がそのような行動を取ったら、
首根っこ捕まえてひっぱたくなり、怒るなりして修正させると思います。
”誰かが自分の為を思ってしてくれた事”を軽視、或いは無視するような事は
ひととして絶対にあってはならないと感じるからです。
 
 
 
 
 ・・・なんだかとても悲しいです。うーむ。

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