ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




原田家住宅。埼玉県川越市松江町2-8。1984(昭和59)年5月4日

仲町通りを東へ行って松江町2丁目に入ると、蔵造りや出桁造りの古い商家はほとんどが建て替わっていて、駐車場になっている場所も多く、どうということもない町並みになってしまう。そんな中に原田家住宅の店蔵が目立っていて、観光客もここまでは見に行くだろう。
写真ではまだ出桁造りの商家が立ち並んでいるが、そんな中でも原田家住宅の店蔵がやはり異彩を放っている。写真右は「伊勢元(いせもと)酒店」、写真左の電柱に看板があるのが「青果問屋 加藤商店」だから八百屋だろう。原田家は「川越指定文化財 原田家」の表札を出している。



原田家住宅。1984(昭和59)年5月4日

カワゴエール>原田家住宅』によると、原田家がある通りには、江戸期から戦前まで米問屋が軒を連ね、その中でも取引高トップだったのが原田家の「足立要」(屋号)だった。いつ頃まで商売をやっていたのだろう? 店蔵は明治27年の建築で間口4.5間、奥行き3間。外観は「巨大な鬼瓦とカゲ盛。背の高い箱棟。重厚な6段の観音扉、土蔵壁で覆われた戸袋」が特徴。
店蔵の裏に母屋と文庫蔵、中庭を隔てて穀蔵が2棟あり、現在なら店蔵の両側が駐車場で、わりと見通しがいいからそれらの蔵を見ることができる。



原田家住宅。1989(平成1)年9月18日

この写真では伊勢元酒店の建物が取壊し中だ。街灯には「松江2商店会/原田定吉」の看板がついている。

追記(2022.10.15)
最近、『川越の建物 蔵造り編』(仙波書房、2022年9月、税込2,200円)が出版された。蔵造りの建物18点を取り上げて、きれいなイラストと共に解説されている。以下に「原田家 住宅」の米穀問屋ついて述べられた箇所を紹介する。
1924(大正13)年に川越商業会議所が発行した「川越案内」に「米国問屋 原田要吉」の広告が載っている。武州川越市志義町の本店の他に、南佐久間町の「原田肥料部」と、東京市小石川区水通町の「東京出張所」があったことが分る。肥料部は三久保町のゲストハウス「ちゃぶだい」になって建物が残っている。
1939(昭和14)年に「米穀配給統制法」が公布され、「足立要」は1943(昭和18)年に廃業した。建物は2021(令和3)年に川越市文化財保護課が管理するようになる。

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追記 (流一)
2022-10-15 10:16:57
『川越の建物 蔵造り編』から得た知識を、追記しました。
 
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