ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




定兼米店。中央区日本橋蛎殻町1-38。1983(昭和58)年2月

写真左端が「てんとうむし」という、たぶん飲食店だと思う。この店が 小川歯科医院と同じ四つ角に面している。角地にある銅板張り看板建築で三軒長屋だろう。その家を中心に写真を撮っていないのが、我がことながら理解できない。1985年頃にはビルに建て替わった思う。タイル張りの家は定兼米店。銅板をタイルに張り替えている。その右は玄関を改装して住宅になっている。
写真右の出桁造りの家は、商売はだいぶ昔に閉じて、住居になっている家。昭和30年頃の火保図に「古着屋」の記載がある。3軒の古い家は今も残っている。



近影。2006(平成18)年9月30日


旧酒井木工所
日本橋蛎殻町1-30
1987(昭和62)年6月

定兼米店の向かいの3階建て銅板張りの看板建築。住居になっているようだが、昭和30年頃の火保図に「酒井木工」とある。壁を新建材で張り替えられたが、今も残っている。

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隅田荘
中央区日本橋蛎殻町1-29
1983(昭和58)年2月

写真右がつい最近まであった 小川歯科医院だった建物。その隣にあった、屋根裏部屋つき、モルタル塗の壁の洋風の家。2階の非常口の上に赤い外灯がついている。古い病院でごくたまに見られる赤ランプではないかと思う。ぼくは救急病院の目印のようなものではなかったかと思っている。昭和8年5月と作成日が入っている火保図では「甲賀病院」なので、その病院の建物の一部が残っていたと思える。
写真の側はもちろん、病院の裏側である。反対側の表側は新大橋通りのすぐ裏の路地に面していて、そちらのほうが道幅はずっと狭いが、建物はその路地に沿って裏側の何倍かの幅があった。
「隅田荘」は1970年頃の地図にあった名称。1986年の住宅地図では個人名になっている。現在は「ゼファー日本橋ビル」(1990年完成)。
1985年に撮った小川歯科の写真では、取り壊されて更地になっているように見える。

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小川歯科医院。中央区日本橋蛎殻町1-29。1985(昭和60)年4月28日

水天宮の向かいの横丁を入った四つ角に小川歯科の洋館がある。写真右奥が新大橋通り。現在は医院は廃業したようだが、建物は不思議と残っている。現在の日本橋蛎殻町1丁目の街区はその全域が空襲の被害を受けていないので、昭和50年くらいまでは戦前の木造の建物もかなり残っていた。今はすっかり減ってしまったが、小川歯科がせっかく残っているのだから、歴史的建造物として保存していくわけにはいかないだろうかと思う。
小川歯科の隣は小沢銅器。銅板貼りの看板建築で総3階建て。「銅長」の屋号とマークが壁についている。外から、店先で銅板をたたいている職人の姿を見ることができた。



左:小沢銅器。1985(昭和60)年5月5日
右:1987(昭和62)頃



右:小沢銅器の並びの民家。1992(平成4)年7月19日
左:近影。2006(平成18)年9月30日

2006年では1枚目の写真とあまり変わらない景観だが、「小川歯科医院」と「小沢銅器」の袖看板がなくなっている。たぶん廃業時に取り外したのだろう。
現在は小沢銅器から右の3軒は取り壊されて、4台分だが、コインパークになっている。

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七軒長屋。日本橋蛎殻町1-38。1984(昭和59)年5月5日

水天宮の境内から撮った向かい側の長屋。毎月5日は水天宮の縁日で、特に子供の日の5月5日が最も賑わう。安産祈願の神社ということになっているからだろう。昭和50年頃までは、毎月、新大橋通りの歩道に植木の露店が何十軒も並んだ。撮影日には植木屋は数軒、菓子や玩具の一般的な露店がかなり出ていたと思う。
写真の長屋は七軒長屋で、写真からは「大野屋(用品・足袋)」、喫茶店の「まりも」「古代煎餅」が認められるが、他の4軒は閉店したようである。その4軒の店名は分からないが、昭和30年頃の火保図では、左から「大谷セトモノ、戸田自転車、のみやカシマヤ、大野堂洋服、ロッカ(食堂)、堀田家具、菓子店」という記載。昭和8年の火保図に「足袋ヤ」と「カブキセンベイ」の記載があるので、大野屋と古代煎餅は戦前からの店なのだろう。
昭和40年頃には、前の通りには水天宮前電停があり、長屋の前にはいつも21番の北千住行や13番の新宿行の都電が待機していた。
1986年の住宅地図では長屋のところは「有馬ビル」(水天宮との関連でつけた名称だろう)になっていて、撮影後じきに取り壊されたようだ。現在の地図では「宮前ビル」となっていて、1986年9月の竣工。

写真右のマンションは「ハイツ水天宮前」で、戦前、マンションの通りの側には「安藤井筒堂」の店があった。『読んで歩いて日本橋――街と人のドラマ――』(白石孝著、2009.11.21、慶應義塾大学出版2009年、2000円)には、「むかし水天宮のはすむかいに安藤井筒堂という化粧品の店があった。明治30代から大正に、 久留米絣の呉服店があり、その隣に井筒堂があり、周りには菓子屋などが並んでいた。水天宮の一・五・十五日の縁日には万国旗や色提灯を飾りつけ、音楽隊が店頭をにぎわして、「象印歯磨」を景品にして、黒山の人だかり。」とある。井筒堂を引き継いだ「オリジナル」のHPには大正初期に建てた社屋の写真が載っている。レンガ造らしい3階建ての立派なビルだ。

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水天宮北辰ビル。中央区日本橋蛎殻町1-39。1983(昭和58)年10月

新大橋通りの水天宮前交差点の角に建つ「水天宮北辰ビル」の旧ビル。名称も同じである。このビルに関しては手元にほとんど資料がないので、「久留米屋呉服店」として昭和3年頃に建ったらしい、ということしか分からない。昭和30年頃の火保図では「小杉金属工業、ホワイト、合名K伊菱洋行」で、すでにパチンコ屋が入っていたようだ。
写真では2・3階は使っているようには見えない。1階のパチンコ「ホワイト」は、ガラスブロックから光がもれているので営業しているのだろう。建物左の袖看板は「民芸酒房・力」。現北辰ビルは1986年の竣工なので1984年には取り壊されたと思える。

『日本橋法人会報・第186号(平成18年11月)』という冊子に有田芳男氏(人形町在住で「横丁の郷土史家」を自称)が「四つ角の洋風建築」という記事を寄稿している。水天宮前交差点には、 三原堂 巴ビル(旧明治製菓)、そして北辰ビルの昭和初期に建ったビルが取り囲んでいた。「(三原堂の)南側に元久留米屋呉服店、郷愁をさそうアール・デコ、東京の街角から歴史が消えると建築学会からも惜しまれた、円弧を三つ重ねたような、大胆な正面が四つ角の顔でした」と記している。また、昭和59年4月22日撮影の写真が載っている。取り壊し直前の写真だろうか。久留米屋の写真も掲載されていて「元久留米屋総本店。昭和3年。」のキャプションがついている。

『東京路上細見2』(林順信著、平凡社、1987年、1900円)に、北辰ビルにあったキャバレー「ダット」のことが出てくる。新大橋通り側の2階の窓をふさぐように、電飾の「クラブ ダット」の看板があり、右の入り口にその文字を入れた日よけが出ていた。著者が「若いころ」というから戦後まもなくの頃らしい。「ここにかつてキャバレー「ダット」のグレーの建物があった。若いころ私は、よくここでダンスを楽しんだ。銀座や神田にない一風変わった穴場だった。そういえば、この「ダット」と同じ系列の喫茶店「プリンス」も甘酒横丁の東北隅の地下にあった。チャイナ服に身を包んだ飛び切りの美女たちが、両手を筒袖に入れて中国風のお辞儀をしては、客を楽しませてくれたものだ。」ということだ。

久留米屋の宣伝マッチ
(古川商店提供)

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神田消防署
千代田区神田淡路町2-12
2005(平成17)年4月1日

外堀通りの昌平橋の南の橋詰め(神田郵便局前交差点)にあった神田消防署。2004(平成16)年7月に、現在の外神田4丁目の神田青果市場があったところにビルを建てて移った。したがって、撮影時にはすでに引っ越しをした後である。
神田消防署は関東大震災後の1925(大正15)年7月に開設された。写真の庁舎がおそらく二代目と思われる。昭和40年代の建築かと思われる。3階建ての建物本体の倍ほどの高さの望楼が立ち上がっている。火事の発見を消防署自身がやろうとしていた時代があったのである。

下写真は神田郵便局の南、やはり外堀通りで、左から、大塩医院、フジモト(自然食品の店)、シャピロビル、東京グリーンホテル。現在は、東京グリーンホテルが撤退し、周囲の建物をもまとめて、新たなビルを建築した。大塩医院はそのままだが、その右に写っている建物はなくなった。2011年5月に竣工した「神田淡路町2丁目ビル」がそれらしい。
フジモト商店は壁をタイル張りにした看板建築。かつては「藤本牛乳店」だ。


フジモト商店。神田淡路町2-6。2006(平成18)年10月25日

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万世橋駅遺構。千代田区神田須田町1-25。2006(平成18)年4月18日

神田須田町にあった交通博物館が2006年5月14日で閉館したが、それに伴い、さよならキャンペーンの一環として「旧万世橋駅遺構特別公開」が行われた。その遺構公開の様子はネット上にたくさんの報告が公開されている。万世橋遺構の整備が完了しそうな今になって、ぼくが付け加えることもないのだが、前回の交通博物館に続いて、ということで。見学したのは2006(平成18)年4月18日、14時のツアー。
「万世橋駅」といえば、普通は1912(明治45)年に開業したときの、辰野金吾の設計した豪華な駅舎を指すが、その建物は関東大震災で焼失した。万世橋駅遺構として見られるのは高架のホーム下の空間とホーム、ホームに出る階段など。
万世橋側のアーチの2つが万世橋駅遺構として公開されている部屋。窓をふさいで看板がかけられている。




左:「平面図で見る万世橋駅の変遷」。『 aki’s STOCKTAKING 旧万世橋駅遺構』より転載。特別展示「万世橋・失われた幻の駅」のパネルと思われる。
右:左図の右下「3代目万世橋駅」の右部分に、下の写真の番号を推定して入れたもの。


1:特別展示室を通って奥へ。2:写真1の奥の突き当たりの右にドアがあって、入るとこんな廊下。写真奥の左から入った。


3、4、5:まずこの部屋に来る。ここがたぶん「3代目万世橋駅」の駅事務室だったと思われる。


6:改札口前の仕切り?
7、8:ホームへの階段。


ホームには出られない。ガラス越しに見るだけだ。ホームの両側の線路を中央線の電車が通る。

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交通博物館。千代田区神田須田町1-25
2006(平成18)年4月18日(2005.03.31の1枚を除いて全部)

須田町の、あるいは万世橋の交通博物館が2006年5月14日で閉館した。それに伴い、さよならキャンペーンの一環として「旧万世橋駅遺構特別公開」が行われ、見学を申し込んで4月18日に行ってきた。うまい具合に博物館の駐車場に車を入れることができて、それが500円、入場料が310円だった。
交通博物館は1936(昭和11)年4月25日に開業した。写真の建物はそのときに建った万世橋駅も入ったもの。東京駅の北側高架下の鉄道博物館が移転してきたもので、1946(昭和21)年1月に交通博物館と名称変更した。『日本近代建築総覧』では「建築年=昭和11年、構造=RC3、設計=鉄道省東京改良事務所、施工=清水組」。4階は増築によるが、その工事時期は分からなかった。戦後になってからだろうか。



玄関と屋外展示のD51と0系新幹線の頭部。閉館日が近づくにつれて混雑したようだが、その1か月ほど前。



半円形に突き出した階段室。右写真は別館と弁慶号。別館は休憩室のようで、椅子とテーブル、自販機などが置いてあったと思う。写真右下のワゴンが三菱のリベロという車で、我が家のもの。わりとかっこいいと思って買ったのだが、あまり売れなかった車である。



建物西側(2005年3月31日撮影)とその階段室内部。



吹き抜けの天井からはアンリ・ファルマン機が吊るされていた。『日本飛行機100選』(野沢正著、秋田書店、昭和47年、890円)によると、日本で初めて飛んだ飛行機である。1910(明治43)年12月19日、代々木練兵場において、陸軍の徳川好敏工兵大尉の操縦によるが、その飛行機が展示されていたものだ。その時のフライトは練兵場の上空を2周し、高度70m、速度53km/h、距離3280m、滞空時間約4分。同日、徳川大尉の飛行に続いて、日野熊蔵歩兵大尉がドイツのハンス・グラーデ単葉機で約700mを飛んだ。
この歴史的なファルマン機はその後、大正5年頃まで使われていたが、飛行不能になってからは分解されて所沢飛行場の格納庫に保管されていた。所沢に航空記念館ができると復元されて展示されたが、終戦直後、アメリカ軍に持ち去られ、ライトパターソンのアメリカ空軍博物館に収められた。昭和35年、日米修好100年、日本航空50年を記念して返還された。
元の機体は中央部分の一部と動力関係だけで、他は再製されているというが、ぼくはレプリカとばかり思っていた。もっとよく見ておけばよかった。

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