三原堂。中央区日本橋人形町1-14。1983(昭和58)年5月
水天宮交差点の人形町1丁目方面。水天宮境内から撮った写真の遠景に写っていたものをトリミングしたものなので、前に街灯などが入り込んで邪魔になっている。三原堂の写真左には「だるま」という銅版貼りの建物の料理屋があったが写真では取り壊されている。
ビルの右は3階建ての建物が2軒並んでいるように見えるが、表側が改装されているだけで同じビルである。その左の方の店は「なかや」というみつまめ屋で、店名を知らずに「ふくふく饅頭」といっていたが、そこのアイス最中が懐かしい。
三原堂のビルは1987(昭和62)年には建て変わって「三原堂本店ビル」が竣工している。
福寿酒造、巴屋、松竹庵。日本橋人形町1-14。1983(昭和58)年10月
人形町通りの三原堂ビルに続く商店。『日本橋にんぎょうちょう』(人形町商店街協同組合篇、昭和51年刊)の付録の『人形町々並細見図』では、写真の建物が建った時と思われる大正15年では「ネル・セルいづみや、巴屋煙草店、松島屋食料品店」。巴屋は明治33年の地図から出ている。
昭和30年頃の火保図では、ビルに「三原堂菓子店、木島糸店、越前屋KK」続いて「伊藤靴店、巴屋タバコ、クツ店」。
巴屋の2階上のアーチの飾りの内側の英字は「CIGARS CIGARETTES」。
追記(2007.07.14)三原堂と三原堂喫茶部の昭和4・5年のマッチラベル。
人形町の古川商店(ハンドバッグ)の古川茂氏からお借りしてコピーしたもの。
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「公衆電話」http://www.ntt-east.co.jp/databook/2007/pdf/2007_27-01.pdf
によると、黄電話は100円玉が使用できる電話として昭和47年12月の登場でした。
巴屋の写真を撮って2・3年後、店先の写真も撮っておこうと思いついて出かけたら、すでに建物は替わっていました。この写真が唯一のものです。
妻は人形町の人間ですが、やはり店名などは知らず「ふくふく饅頭」と言っていますから、それが普通に通用していたようです。
たしか「なかや」とか。
椅子に座った顔の高さに鏡が張ってあった。
入口でふくふく饅頭の蒸かし器と、焼そばを焼いていた。
焼きそばはソースが若干薄めで上品なバランス。
ふくふく饅頭の肉まんは「旨煮」的な優しく捕らえ
どころのない味。小倉アイスは一切乳製品を使わない
片栗粉と小豆で作ったあっさりとした甘さ。
平成になる前に忽然と消えた。
消えた前後のいきさつと、小倉アイスを盛り付けて
いた薄緑色のプラスチックの皿については別に機会に。
泉麻人もこの件については詳しい。
何年か前に店名を知りたくて甘味処の初音さんにうかがったことがありましたが、店名は分かりませんでした。
ねっとりとした大きな黒餡のまんじゅうが懐かしいです。
ふくふく饅頭・ゼイタク煎餅・たい焼き屋さんと当時は店名も知らずに買い物に行く祖母におねだりしていました。