ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




横浜海洋会館。横浜市中区海岸通1-1。1987(昭和62)年8月9日(2枚とも)

大倉商事横浜出張所として1929(昭和4)年に、設計施工=大倉土木によって建てられた。海洋会館になったのは1959(昭和34)年である。
正面はスクラッチタイル貼りの壁面に横長の枠をとって窓を並べ、中央に玄関を開けている。壁の面積が大きいのが特徴だが、特にどうということのないデザインである。それにしてはどうも目を引くのはなぜだろう。
袖看板は「海洋会館/3F海洋会横浜支部/2Fパイロットクラブ」と「船員サービスセンター」。玄関上の文字は読み取れない。現在、この玄関上の文字はなくなっている。
海洋会とは東京海洋大学海洋工学部(旧東京商船大学)と神戸大学海事科学部(旧神戸商船大学)の卒業生を会員とする同窓会組織。いつのまにか「商船大学」という名称はなくなっていた。



この写真には左に2000(平成12)年に取壊されてしまったキッコーマンビルが写っている。海洋会館との間は少し離れていて、ブロック塀で裏の東西上屋倉庫へは入れないようになっている。倉庫が機能していた時代には、ここからトラックが出入りしたのだろう。

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昭和ビル。神奈川県横浜市中区海岸通1-1。2000(平成12)年7月9日

海岸通りの開港資料館の向かいに3階建ての古いビルが並んでいる。写真のビルは一番西側にある、昭和ビルという1931(昭和6)年前後に建てられたビルで、このビルの右にもキッコーマンビルという同じ大きさデザインのビルがあった。同じビルが2棟並んだ写真は『神奈川の近代建築探訪>昭和ビル/キッコーマンビル』で見ることができる。設計者・施工者=不明、と書いた本もあるが、設計者=川崎鉄三、施工=戸田組、ということで確定したらしい。同サイトによると、キッコーマンビルが取壊されたのは2000年6月。上の写真は取壊された直後になる。黄色い日除けの「タイム」(弁当屋)は今も変わらず営業していると思う。



1987(昭和62)年8月9日

この写真で右上に煙突が見えているのがキッコーマンビル。そのキッコーマンビルを撮った写真が見当たらない。同日に撮った海洋ビルの端には「キッコーマン㈱横浜支店」の看板を出している姿が写っているのだが、そのビルを撮っていなかったようだ。たぶん同じビルが並んでいたのを知らずに、すでに撮りおえたと思ってしまったらしい。

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富士ビル。中央区京橋3-3。左:1987(昭和62)年10月25日、右:2008(平成20)年10月3日

当ブログ前回で、明治屋ビルを「京橋1~3丁目では唯一になってしまった戦前築のビル」などと言ってしまったが、最近解体されてしまった片倉工業ビルの南に写真の古いビルがある。さらにもう1棟、京橋3-7に橋本ビルもある。
写真の建物は『総覧』の「富士ビル。中央区京橋3-6。建築年=S2以前。設計者=不明。施工者=野村組」だろうと思う。「京橋3-6」は旧住所である。額縁のように奥まった窓が特徴。上げ下げ窓らしい。昭和30年頃の火保図では、京橋3-6-7に「旭ガラスK.K」となっている。
光芸社は今も盛業中らしく、そのHPによると、昭和33年12月の設立というかなりの歴史のある会社だ。昭和53年11月に本社を京橋3-3-2に開設、平成15年10月に本社を日本橋堀留町4-11-1に移転、ということだ。
最近撮った右の写真には「MAKOTOシアター銀座」「下町かぶき組」の幟が写っている。劇場、スタジオ、芸能プロの事務所などに使われているらしい。

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明治屋ビル。中央区京橋2-2。左:1985(昭和60)年4月14日、右:2009(平成21)年11月15日

中央通り沿いの京橋1~3丁目では唯一になってしまった戦前築のビル。もしかしたら中央通り沿いに限らず京橋1~3丁目で唯一かもしれない。すっきりとして全体のバランスもよく、見て気持ちのいいビルである。
設計=曽禰中条建築事務所、施工=竹中工務店、構造=SRC8階・地下2階、竣工=昭和8年。イタリアンルネサンス様式を下敷きにしたデザインという。1・2階は他の古いデパートにも見られるファサードだ。「アメリカ型オフィスビル」とも言われる。ニューヨークなんかもでよく見かける形なのだそうだ。
右写真は今、駐車場になっている空地からビルの北側を撮ったもの。正面と同じだった。


京橋千代田ビル
京橋2-1。1983(昭和58)年8月21日

明治屋ビルの北隣にあったビル。この大きなビルが明治屋ビルよりも先になくなるとは不可解である。『建築作品データベース>京橋千代田ビル』では「設計:大成建設本社設計部。施工:大成建設。発注者:千代田生命保険。竣工:1981年2月。着工:1978年6月。地上12階地下4階」。1986年の住宅地図では「千代田生命、千代田火災、中外製薬・郵便局、千代田ビルサービス」の記載である。
東京・大阪 都心上空ヘリコプター遊覧飛行(2009.02.01)』に「京橋2丁目西地区再開発」の記事がある。京橋千代田ビル(当サイトでは「京橋MTビル」)の写真が載っていて、ビルの解体が2006年末頃からであることが分かる。生保の大手だった千代田生命が倒産したのは2000年10月だった。この巨大なビルが完成してから25年で取壊してしまったわけだ。
京橋千代田ビルが建つ前は、『総覧』にある「千代田生命館。T12頃。4階建。設計=横河工務所。施工=大倉土木?」だったはずだが、火保図では千代田生命館は7階建て。目にはしているはずだがどんなビルだったのか記憶がない。
『総覧』には、同番地(中央区京橋2-2、現・京橋2-1)に「千代田生命2号館(旧須原屋書店)。S3頃。RC4。設計=山中節治。施工=高山組。備考=表現派風ディテール。「建築世界」23巻、山中節治画同建築のパースによる」が載っている。興味を引かれるが、火保図ではどの建物になるのか分からなかった。

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邦栄堂書店。神奈川県鎌倉市雪ノ下1-8。左:1989(平成1)年6月5日、右:2001(平成13)年11月4日

現在は「邦栄堂書店」が入っている若宮大路に面している建物だが、撮影時はなんだった分からない。看板も写っていないから空家なのかもしれない。
変わった意匠の看板建築である。角にある柱を立てたような装飾は洋風の看板建築として他にもありそうだが、正面の壁はボール紙をカッターで窓を切り抜いて貼り付けたようで、かなり斬新な感じがする。今は窓を白いボードで塞いでしまったので余計に紙細工に見えてしまう。いったい竣工時からこのデザインだったのだろうか。
1989年の写真ではまだ窓を塞いでないので窓枠が見えている。昔は大きな窓ガラスの製造が難しかったのだろう、たいてい桟で小さく区切っているのだが、この家の窓も戦前のデザインの桟である。この窓と平面を切り取ったような壁面とはけっこう似合っている。
左の写真は角の造作が電柱に隠れてしまった。今は、電線は地下に埋設したらしく若宮大路では電柱は見当たらない。写ってしまった2本の電柱と煩い電線も「記録」ということで……。

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東京都庁東3号庁舎。千代田区丸の内3-8。1991(平成3)年4月21日

丸の内の都庁はJRの線路を挟んで西と東にあった。東側の敷地には第2本庁舎、第3本庁舎、東6号庁舎、東3号庁舎があった。東3号庁舎は東側の敷地、南西角にあった戦前に建てられたビルである。『総覧』では「東京都東3庁舎(旧丸の内食堂)、建築年=1931(昭和6)年、構造=SRC6、設計=東京都、施工=中央土木」。設計は正確には「東京市」だと思う。
このビルを見て、誰も「丸の内食堂」という飲食店のビルとして建てられたとは思わないだろう。『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988)に、「「深川食堂」や、流線型の意匠で威容を誇った「丸の内食堂」が、公共の手での市民生活の向上をはかった所産……」とあるので、丸の内食堂は東京市が貧困層のために設置した食堂だったと分かる。昭和22年の地図では「都民生局」であり、「民生食堂」(「公衆食堂」とも)を運営管理する部局の市庁舎に丸の内食堂を設置したのかと想像できる。
「流線型」といわれる全体の形も、『廃景録>旧都庁東3号庁舎』で言っているように、アールの角を中心に両側面を見られればよりいっそう感じられるのだろう。同サイトでは1996(平成8)年頃に解体されたという。線路西側の都庁の建物が全てなくなってからも5年間ほどは存続したらしい。『ウィキペディア』では、解体前は「豊田通商本社」が使っていたと記されている。

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