コメント(10/1 コメント投稿終了予定)
感謝
(
yosi
)
2010-11-22 16:14:05
私は41歳です。幼い頃この病院へずっと通院していました。子供心には当然ですが、古い建物におっかなく見えた先生(本当は優しかったそうです)
おぼろげだった記憶がよみがえってきました。
有難うございました。
>yosi様
(
流一
)
2010-11-23 16:31:20
写真では「長田医院」ですが古い地図ではこの場所に病院のマークが付いているので、長田病院として建てられたビルなのかもしれません。yosiさんが幼い頃というと、昭和50年頃でしょうか。やはり長田先生だったのかもしれませんね。
私も子供のころ
(
kaz
)
2011-01-30 01:11:28
母親に連れられてこの医院にお世話になっておりました。この医院の目の前が都電の折り返し点になっており、待合室から車掌さんが電車の屋根のビューゲルをパターンとひっくり返して折り返していくのを見ていました。医院内の薬局で乳鉢の中の粉薬を薬包紙で五角形に折って包んだり、水薬(甘いのは子供の私も期待した)を調合しているのを見ていたりした記憶があります。
>kaz様
(
流一
)
2011-01-31 10:05:25
五角形に包んだ粉末の薬――私も覚えがありますがいつ頃まであったのでしょうね? それを入れる袋はあまり変わっていないような気がしますが。
都電のほうを調べてみると、厩橋停留所で折り返していた都電は39番の早稲田車庫行きですね。16番の大塚駅前から厩橋を渡る錦糸町駅前行きの都電もあったとか。39番は昭和43年9月28日、16番は昭和46年3月17日で廃止されています。
懐かしい・・
(
ねむたい
)
2011-07-28 23:48:27
実は、この長田医院は、もう23年も前に亡くなった私の祖父がしていた小児科です。
25年くらい前には、祖父は医者を引退してその後、このビルはなくなったのは知っていました。でもビルがなくなってから訪れたことがなかったので、とっても懐かしいです。
私は地方に住んでいるので、小さい時に親に連れられて祖上京したときに、確かに古めかしい医院の中をよく遊びに行っていました。
家には、戦前なのかこの医院の前で書生さんたちや看護婦さんたちと撮った写真が一枚残っているだけで、カラーでこのアングルでの写真はないので、なんだか嬉しいです。
ありがとうございます。
>ねむたい様
(
流一
)
2011-07-30 11:27:29
写真の医院のお孫さんですか! コメントをありがとうございます。
立派なビルを構えて医院を開業しているおじい様がいるのはうれしかったでしょうね。
ねむたいさん自身がこの医院の前で収まっている写真がないのは残念ですね。今のようにやたら写真を撮る時代ではなかったので、そういうことは普通にあったのでしょうが。
Unknown
(
ねむたい
)
2011-07-30 23:02:35
早速のお返事、ありがとうございました。何か、祖父の形跡がないかとネットで検索していたら、このブログを見つけて嬉しかったです。
父にこのビルのことを聞いてみたら、関東大震災後、昭和初期に建てられたそうです。そして、確かに、2階には印刷屋さんが入っていた記憶があります。うちはクリスチャンの家庭なので、「東京イエス・・・集会所」と地図に記載があったみたいですが、それもその通りです。ちゃんと、そういった記載もあるんだな~と、感心していしまいました。
Unknown
(
yosi
)
2012-02-02 15:30:51
久しぶりに写真を見にHPを開けてみたら、コメントが続々入っていてびっくりしました。
皆さん長田医院に思い出がある方ばかりなのですね。
私が通院していた時、長田医院に飾ってあった赤ちゃんのお人形で看護婦さんが遊んでくれたのを思い出しました(プラスチック製品で、今にして思えば製薬会社のマスコットだったのではないかと思います)。
当時の私は3~5歳でしたので、この長田医院を含めた病院と病気のエピソードが成長してから思い出せる唯一最初の記憶なのです。
甘い飲み薬や綿の先にルゴールの原液をつけて喉の奥に入れられる度に泣いていたそうです。でもその後は不思議とすぐに治るのです。
苦手だった薬の思い出も、飾ってあったお人形も懐かしい思い出です。
懐かしい!
(
ぐれぞー
)
2012-07-13 10:32:43
先日この近所の厩橋を撮った際に思い出してググったらこちらが出てきました。まさか先生のご遺族の方がいらしたなんて想像もしていませんでした。(情報の時代って凄いですね)
昭和50年代にこちらでお世話になりましたが、長田先生はたしか外国語(ドイツ語?)でカルテを書いてらして、診察の時、排便がないというと必ず浣腸するのでそれがイヤで(汗)、そのうち出ていないのに「出ました」と子供ながらウソをついた記憶があります(汗汗)
ピンク色のドロドロの飲み薬と石造りのひんやりした診察室が印象に残っております...。
>ぐれぞー様
(
流一
)
2012-07-14 09:54:25
古い病院だった建物の一角で続いている医院。大人なら重厚で権威があって頼もしいとも思える場合もありますが、子供にとってはひそかな恐怖の対象でしょうか。かなり強烈な印象だったかもしれませんね。コメントをいただいたyosiさんなどはこの医院が思い出せる最も古い記憶らしいです。しかしそういう体験は、現在ではしたくてもできない貴重なものだと思います。
便秘はあなどれませんが浣腸は子供でも恥ずかしい。よく分かりますがちょっと可笑しい。
厩橋長田医院
(
高見正治
)
2016-09-25 13:02:24
昭和30年頃通院した記憶があり、先日他界された永六輔さんも通院されたと永さんから聞きました。
家が近所で通院してました。
(
蔵前幼稚園卒
)
2017-05-22 21:26:23
現在、43歳なので都電はありませんでしたが、それ以外の思い出は全てが同じで、懐かしくて涙がこぼれそうになりました。
近くの交差点の角にあったお菓子や果物を売っている店でよくお菓子を買いました。
中華の新雅のラーメンもよく食べました。
お蔵前書房のコロコロコミックの古本はダニが出て来て、痒くなったのも懐かしい思い出です。
実は、最近、この近くに行きました。蔵前幼稚園は変わらず残っていましたが、後はすっかり変わっていました。長田先生のビルも無くなってて、ネットを探してたら、ここが見つかりました。
>蔵前幼稚園卒様
(
流一
)
2017-05-24 14:16:02
長田医院は「小児科」と看板にあるので、蔵前幼稚園卒さんが通院していたのは子供の頃ですね? 1986年の地図を見ると、新雅は長田医院の向かい。お菓子を買っていた店は、厩橋交差点の「大阪屋」でしょうか? あるいは河合商店か青木商店。地図では店名があるだけで商売の内容が分かりません。お蔵前書房は健在。厩橋交差点角の第一勧銀は改装されて昔の面影はなくなりました。
ありがとうございます。
(
流一様
)
2017-05-25 01:42:27
そうです。大阪屋です。店の左側は子供向けのお菓子。真ん中より右は果物。近所ではシンプルに「果物屋」と呼ばれていました。メガネをかけたお兄さんがいつも店番をしていました。
野村トーイのビルも近く、掃除のおじさんに捨てられる予定だった戦艦ヤマトのおもちゃをもらいました。
間もなく、蔵前神社のお祭りの季節です。
巨大な三社祭とそれなりに大きな鳥越祭の間に挟まれ、こじんまりとしていましたが、山車を曳いて周り、どうぶつビスケットをご褒美にもらうのが嬉しくて、子供にはちょうどいいお祭りでした。ここを見つけた事をきっかけに、今年は子供を連れて行きたいと思います。ちなみに今年は6/3.4との事。素晴らしいホームページ心より感謝致します。
Unknown
(
これです
)
2020-01-22 10:15:19
ふと あの医院なんだっけと思い出し やっとの思いで名前が浮かびました 台東区 医院名 で検索しこちらにたどりつきました ああ こんな外観 そうだったか サイト主様 写真控えていてくださったのですね ありがとうございます
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おぼろげだった記憶がよみがえってきました。
有難うございました。
都電のほうを調べてみると、厩橋停留所で折り返していた都電は39番の早稲田車庫行きですね。16番の大塚駅前から厩橋を渡る錦糸町駅前行きの都電もあったとか。39番は昭和43年9月28日、16番は昭和46年3月17日で廃止されています。
25年くらい前には、祖父は医者を引退してその後、このビルはなくなったのは知っていました。でもビルがなくなってから訪れたことがなかったので、とっても懐かしいです。
私は地方に住んでいるので、小さい時に親に連れられて祖上京したときに、確かに古めかしい医院の中をよく遊びに行っていました。
家には、戦前なのかこの医院の前で書生さんたちや看護婦さんたちと撮った写真が一枚残っているだけで、カラーでこのアングルでの写真はないので、なんだか嬉しいです。
ありがとうございます。
立派なビルを構えて医院を開業しているおじい様がいるのはうれしかったでしょうね。
ねむたいさん自身がこの医院の前で収まっている写真がないのは残念ですね。今のようにやたら写真を撮る時代ではなかったので、そういうことは普通にあったのでしょうが。
父にこのビルのことを聞いてみたら、関東大震災後、昭和初期に建てられたそうです。そして、確かに、2階には印刷屋さんが入っていた記憶があります。うちはクリスチャンの家庭なので、「東京イエス・・・集会所」と地図に記載があったみたいですが、それもその通りです。ちゃんと、そういった記載もあるんだな~と、感心していしまいました。
皆さん長田医院に思い出がある方ばかりなのですね。
私が通院していた時、長田医院に飾ってあった赤ちゃんのお人形で看護婦さんが遊んでくれたのを思い出しました(プラスチック製品で、今にして思えば製薬会社のマスコットだったのではないかと思います)。
当時の私は3~5歳でしたので、この長田医院を含めた病院と病気のエピソードが成長してから思い出せる唯一最初の記憶なのです。
甘い飲み薬や綿の先にルゴールの原液をつけて喉の奥に入れられる度に泣いていたそうです。でもその後は不思議とすぐに治るのです。
苦手だった薬の思い出も、飾ってあったお人形も懐かしい思い出です。
昭和50年代にこちらでお世話になりましたが、長田先生はたしか外国語(ドイツ語?)でカルテを書いてらして、診察の時、排便がないというと必ず浣腸するのでそれがイヤで(汗)、そのうち出ていないのに「出ました」と子供ながらウソをついた記憶があります(汗汗)
ピンク色のドロドロの飲み薬と石造りのひんやりした診察室が印象に残っております...。
便秘はあなどれませんが浣腸は子供でも恥ずかしい。よく分かりますがちょっと可笑しい。
近くの交差点の角にあったお菓子や果物を売っている店でよくお菓子を買いました。
中華の新雅のラーメンもよく食べました。
お蔵前書房のコロコロコミックの古本はダニが出て来て、痒くなったのも懐かしい思い出です。
実は、最近、この近くに行きました。蔵前幼稚園は変わらず残っていましたが、後はすっかり変わっていました。長田先生のビルも無くなってて、ネットを探してたら、ここが見つかりました。
野村トーイのビルも近く、掃除のおじさんに捨てられる予定だった戦艦ヤマトのおもちゃをもらいました。
間もなく、蔵前神社のお祭りの季節です。
巨大な三社祭とそれなりに大きな鳥越祭の間に挟まれ、こじんまりとしていましたが、山車を曳いて周り、どうぶつビスケットをご褒美にもらうのが嬉しくて、子供にはちょうどいいお祭りでした。ここを見つけた事をきっかけに、今年は子供を連れて行きたいと思います。ちなみに今年は6/3.4との事。素晴らしいホームページ心より感謝致します。