ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




築地本願寺防空壕。中央区築地3-15。1988(昭和63)年10月9日

築地本願寺の正門は新大橋通りにある。そこを入ってすぐ左手に防空壕の入口があった。防空壕そのものは今もあるらしいが、入口はいつのまにか撤去されてしまった。別に邪魔になるわけでもないのに余計なことをするものだ。
『異都発掘』(荒俣宏著、集英社文庫、昭和62年)に少しばかり記載がある。それによると、旧陸軍が建造したもので、今は古木材置場にしているという。地下はかなり長い通廊形式で親鸞像の下まで伸びているそうだ。


防空壕入口跡
2010(平成22)年2月25日

「跡」というより、今はベンチの前の鉄蓋が防空壕の入口ということらしい。案内板とかはなくて、本願寺としてはあまり知られたくないような態度だ。軍のやったことで寺は関係ありません、ということだろうか。


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トラヤ薬局。中央区築地2-9。1986(昭和61)年5月11日

新大橋通りの築地四丁目交差点と平成通りの築地2丁目交差点を結ぶ間の通りの北側には、30年前だったら、大震災後に建てられた木造の家が立ち並んでいたようだ。それも次第に減ってきたが、今でも数軒が残っている。トラヤ薬局はその1軒。
戦前からの古い店らしい。建物正面は校倉造りを連想するが、あるいはアールデコだろうか。2階の窓と1階の欄間にはステンドグラスがはめられている。
写真右の日本家屋は「ロリータ」という喫茶店。撮影後じきにビルに建て替わっている。家の全景を撮っておけばよかった。



左:1986(昭和61)年8月31日
上:2010(平成22)年2月25日

1枚目の写真は建物の下が切れてしまっている。あまり構図などは気にしないで撮っていたようだ。左の写真はその補完として。

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キムラヤ、大野屋米店。中央区築地2-10。1986(昭和61)年5月11日

晴海通りの築地三丁目交差点を西へ入った横丁。水作果物店、福市だんごに続く家並みである。「築地名物 キムラヤのケシあんパン」の幟が出ている。「あんパン―木村屋」というと銀座の木村屋が有名だが、「築地木村屋」は「ケシあんパン」で勝負という具合らしい。HPを見ると、明治43年の創業で銀座木村屋総本店の分家に当たる、としている。



築地文具。現在はビルに替わったが、築地木村屋の隣は銅板貼りの長屋だった。1989(平成1)年11月5日

近影。2010(平成22)年2月25日

築地木村屋の隣がビルに替わった以外は1枚目の写真の25年前とあまり違わない。ただ、よく見ると看板が書き換えられたり、日除けのテントが付け替えられている。大野屋の店頭には「おにぎりコーナー」ができた。

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水作果物店。中央区築地2-10。2001(平成13)年2月10日

新大橋通りの築地三丁目交差点の北側である。晴海通りとの築地4丁目交差点はすぐ南にあり、東京メトロ日比谷線の築地駅もあるという繁華な場所なのだが、なぜか現在でも写真と同じで、大震災後に建てられた商店の家が10軒近く固まって残っている。
写真の看板から、交差点角が「水作果物店」その右、新大橋通り沿いに「理容サン」「タバコ店」「麻雀さんわ」。


左:福市だんご。2001(平成13)年2月10日。右:根岸家。1985(昭和60)年6月2日

左写真は水作の角を西へ入った横丁で、銅板貼りの家は水作の隣の「福市だんご」。和菓子屋だと思うのだが店を開いているのをみたことがない。あるいは製造だけしているのだろうか。
右写真は1枚目の写真を右へ行くと地下鉄の出入り口があり、その前に路地が入っている。その路地の奥を撮った写真。正面の家は半分も写っていないが、『乱歩と東京』(松山巌著、PARCO出版局、1984年)にほぼ全体が写っている写真が載っている。現在は写真左の銅板貼りの家を含めたクランク形の平面のビルになっている。

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築地4丁目交差点。中央区築地3-16。1986(昭和61)年5月11日

晴海通りと新大橋通りの交差する築地4丁目交差点の、築地本願寺がある築地3丁目側。交差点角の日本家屋から写真右の晴海通りに面する低層の建物は、今では全て建て変わっている。角の家は左の看板が「丸ワ商会」右が「喜楽鮨」。以下、右へ「京橋信用金庫本店」「関富」「伏忠商店」「築地ドラッグ」「三銀保証キャピタル」と並んでいるはずだ。右端のビルはたぶん「ビジネスホテルバン」。



丸ワ商会。1986(昭和61)年8月31日

丸ワ商会は『下町残照』(村岡秀男著、朝日新聞社、1988年)の写真を見ると陶器の店である。店主の談によると、最初は日本橋魚河岸のそばに開店し、市場の移転と共に移ってきたという。昭和7年の建築らしい。



ふくだ屋。1989(平成1)年11月5日

1枚目の写真の右端から本願寺の南の門までが写っている。1枚目の写真の伏忠商店を含めて3軒くらいがビルに変わったのが上の写真左端のビルだ。画面左端が「三銀保証キャピタル」、その右へ「難破輪業」「らくだ屋」「服部製作所」。
昭和25年頃の火保図には「丸和陶器店」「伏忠食品店」「サイクル難破」「服部木工所」の記載がある。

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万国橋ビル。神奈川県横浜市中区海岸通5。1987(昭和62)年8月9日

万国橋通りの万国橋の袂に建つ古いビルである。「1928(昭和3年)建築、施工=野村組」という。今も写真の状態とほとんど変わらず使われている。外見で変わったのはまず壁の色。現在はグレーに塗られている。屋上のフェンスが今では取り外された。また、煙突の上に鉄骨が伸びている。広告塔だろうか。



万国橋から見た万国橋ビル。1991(平成3)年7月28日

東側の側面だ。地下室付の3階建てということになっているようだが、構造的にはどうみても4階建てだ。万国橋の道路面を高くしているため、その道路から入る玄関が実質2階に造られている。
『みんなでつくる横濱写真アルバム』というサイトの『関東運輸万国橋ビル』で古い万国橋ビルの写真が見られる。浅野総一郎という実業家に関する写真を公開したなかの1枚である。

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日本海員会館。神奈川県横浜市中区北仲通6。1991(平成3)年7月28日(4枚とも)

帝蚕ビルの隣にあったビルで、その場所は今、横浜アイランドタワーの北の広い道路になっている。『日本近代建築総覧』では「建築名=日本海員会館、建築年=S11(1936年)、構造=RC4、施工=本田組(神戸)」。
帝蚕ビルに向いた正面には「連合神奈川(日本労働組合総連合会神奈川県連合会)」の看板がかかっている。





道路側ではあってもビルの裏側に「全日本海員組合京浜地方支部会館」の看板がある。写真右奥が帝蚕ビル。
全日本海員組合(JSU)は太平洋戦争終戦直後の1945年10月に結成された。戦前は1921年に結成された「日本海員組合」がその前身になるらしい。とすると、このビルは最初から「日本海員会館」だったのかもしれない。


2014.12.13追記

『暗黒街の美女』―1958(昭和33)年に公開、監督:鈴木清順―という映画に日本海員会館が「横浜十字病院」として登場する。当時の周辺の様子も少しばかり映し出される。
上の写真の左奥のビルは横浜銀行本店別館の裏側。
下の写真は日本海員会館の横の道路。奥に市電が通っているのが本町通りで、最近取り壊された本町ビル(旧帝国火災横浜支店)が写っている。左の空き地には横浜銀行の新館が建つことになる。

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帝蚕ビル。神奈川県横浜市中区北仲通5。1987(昭和62)年8月9日

帝蚕倉庫株式会社は生糸検所が北仲通に建設された時に設立されたが、その本社ビルとして建てられた。テナントとして関連する会社も入るオフィスビルだったのだろう。設計施工:竹中工務店、竣工:1928(昭和3)年である。装飾のほとんどない、すっきりとしたきれいなビルである。建設時ではけっこう目立ったデザインだったかもしれない。
『ミスティの虹いろ日記>旧帝蚕倉庫本社ビル』によると、解体されたのはつい最近の2008年6月だ。その前の数年間は「北仲WHITE」の名称で使われていた。



ビル右翼と東側側面。1991(平成3)年7月28日

解体される直前の姿を見たことがある。帝蚕ビルは本町通りから少し入ったところにあったが、見ると大通りに面している。横浜銀行の例があるから、移築したのだろうかと思ってしまった。後で地図を眺めたらビルの前に大通りが通されたのだった。

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