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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




東京小間紙製造所。台東区浅草橋5-17。1987(昭和62)年頃

蔵前橋通りの南に、昭和通りから江戸通りに抜ける通りがある。当ブログでこの通り沿いの建物は何件か紹介しているが、東京小間紙製造所はこの通りの都立忍岡高校の向かいにあった。
小間紙(こまがみ)というのは辞書によると、「趣味や装飾用に加工した紙のことで、千代紙・折り紙・包み紙・祝儀・儀式用の紙など」。和紙と決まったものでもないらしい。小間紙製造所という名前から、紙を印刷して包装用紙や千代紙などを製造していたものかと思う。



東京小間紙製造所。1988(昭和63)年12月31日

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新月堂。台東区浅草橋5-14。1987(昭和62)年頃

武蔵屋酒店の長屋の向かい。住宅地図では右から、小林広告、新月堂、富士そば、関製本で、ビルは都立忍岡高校。お祭りは鳥越神社の例大祭。



八木野商店(新月堂の角を南に入ったところ)。1988(昭和63)年4月10日


新月堂
1987(昭和62)年頃

2・3階の雨戸の戸袋には日本の伝統的模様が施されている。上は麻の葉と網代、下のは亀甲だろうか。

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浅草教会向かいの長屋。台東区浅草橋5-19。2005(平成17)年4月9日

手前はカトリック浅草教会で写真左手へ行くと蔵前橋通りに出る。当ブログでは珍しくごく最近の撮影である。昭和末年頃にもこの前は歩いているはずだが写真を撮っていなかったようだ。こうなってからでは商店名などは不明になってしまう。写真右手後ろのマンションは当ブログ前回のタマオキ薬局があった長屋の跡に建った「ムサシノコート浅草橋」。現在もこのままになっているかもしれない。板でふさがれた4軒が1棟の長屋のように見える。



兼松電機。2005(平成17)年4月9日

1枚目の長屋を北側から撮ったもの。写真右端が兼松電機で、まだ営業しているのだろうか。


2014.12.09追記
まだ空き家になる前の様子をとらえた写真が見つかったので追加する。撮った場所が判らなくなっていたのが、最近やっと判明した。1987(昭和62)年6月7日、鳥越祭の日の撮影。1986年の地図で「前田、鈴木、吉田、村田、栗谷、根岸、兼松電気、小林、桜井、車庫、豊田、タマオキ薬局」という記載。
現在はTimesの駐車場で、写真右のほう、蔵前橋通りの裏通りとの角に「ムサシノコート浅草橋」(1枚目写真に写っている)というマンションである。


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武蔵屋酒店。台東区浅草橋5-19。1988(昭和63)年12月31日

前の通りは都立忍岡高校の北側の通りで、写真左手に浅草教会がある。看板建築の商店長屋で、まったく同じ四軒長屋が2棟並んで建っていた。写真では壁面や戸袋が白く飛んでしまっているが、下の写真のように薄い茶色である。
現在は「ムサシノコート浅草橋」という1995年2月竣工のマンションになっている。



タマオキ薬局。浅草橋5-19。1988(昭和63)年4月10日

1枚目の写真の左側(西側)の棟。

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カトリック浅草教会・正門。台東区浅草橋5-20。1988(昭和63)年12月31日

蔵前橋通りと清澄通りが交差する鳥越1交差点から南東に入ったところ。浅草教会は20番地のほとんどを占めているが、西側、北側、東側は商店や住宅が取り囲むように建っていて、南側に門を開けている。
現在は、教会は同じ場所に建て変わっているが、CSタワーという商業ビルに敷地を譲ったかしたらしく、以前の半分くらいになった。
上の写真は建物の配置がなんとか分かるので、まず出しておく。写真右手の2階建ての家が司祭館、その前の平屋の建物はなんだか分からない。門柱の間の奥に礼拝堂(としておく)、写真左が聖パウロ聖堂。写真では露出過多で読めないが、左の門柱に「浅草カトリック教會」と書かれたタイルの表札がある。



司祭館。1988(昭和63)年頃



聖パウロ聖堂。1988(昭和63)年12月31日



聖パウロ聖堂。1988(昭和63)年頃

1988年12月撮影の3枚目の写真では入口や窓が板で塞がれている。解体直前ということだ。このときは当然正門は閉まっていただろうから、ぼくは工事用車両が出入りするらしい東側の塀の切れ目から侵入したらしい。4枚目の写真は、イチョウの葉が茂っているから同じ1988年の夏かと思うが、あるいはその1年前かもしれない。
関東大震災後に間に合わせに建てた仮建築が今まで残ってしまった、という感じがする。聖パウロ聖堂が大きい教会なら大聖堂に当たるのだろうが、お寺が併設している幼稚園のように見える。


礼拝堂。1988(昭和63)年12月31日
教会とは縁がないから、この小さなお堂がどういうものなのかは知らない。中にマリア像でも祭ってあるのかもしれない。


教会から見た清洲橋通り沿いの商店の裏側。教会の敷地の西側で、 加島酒店の並びを裏から見たもの。(2011.08.16追記)

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加島酒店。台東区浅草橋5-20。1988(昭和63)年12月31日

清洲橋通りの鳥越1交差点の少し南で、写真左の商店の裏は浅草カトリック教会がある。写真右にその門が見えている。現在は1991年竣工のCSタワーという18階のビルに変わった。
角が加島酒店で左が「はらた」というてんぷら屋らしい。次がオザキ時計店。



三洋冷熱。浅草橋5-20。1988(昭和63)年12月31日

蔵前橋通りの1本裏の通りにあった。加島酒店と同じブロックだが浅草教会をはさんで対角線の反対側だ。

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柳水鮨。台東区浅草橋5-21。1986(昭和61)年4月6日

蔵前橋通りの鳥越1丁目交差点。写真左手が蔵前橋の方向、右手が清洲橋通りで神田川・美倉橋の方向。現在、写真の21番地は3棟のビルに変わっている。
交差点角に柳水鮨の料亭のような日本家屋があり、そこから写真左へ、光田(看板の文字は「マフラー・スカーフ・ショール」などの文字が読み取れる)、銅版張りの民家、小林不動産、民家、純喫茶エンゼル。柳水鮨の右はニューエンゼルという喫茶店、駐車場、埼玉銀行鳥越支店である。エンゼルとニューエンゼルとはなにか関係があるのかも知れない。



三倉産業。浅草橋5-22。1988(昭和63)年頃

1枚目の写真の左に写っている3軒長屋。右にあった家がなくなって「建設予定地」の看板が立っている。長屋の建物はすでに空き家になっているのかもしれない。長屋の真ん中の赤い日よけの店は、住宅地図では「ニューセブン」で、ほとんど消えてしまっている文字がそのように読み取れる。

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浅草消防署。台東区浅草橋3-10。1986(昭和61)年4月6日

浅草消防署
1986(昭和61)年4月6日

現在の浅草消防署は駒形に移り、こちらは建て変って浅草橋出張所になった。
東京消防庁浅草消防署の「沿革」によると、昭和4年6月4日に当時の住所で向柳原に新しく設置されたこの消防署を「第五方面向柳原消防署」として発足したのが浅草消防署の始まりだという。昭和61年11月から駒形に新庁舎を建てて移転し、平成3年4月に「浅草橋出張所」と名称変更した。
建物は昭和4年の竣工、設計は警視総監官房会計課営繕係。
塔屋下の玄関には「東京消防庁浅草消防署」の他に「浅草消防団本部」「消防相談所」の看板が架かる。

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渡辺電化商事。台東区浅草橋3-33。1987(昭和62)年6月7日

店の正面に金文字が残っている。東京海上火災保険の代理店だったようだ。
写真右の道を奥へ行くとすぐ蔵前通りの鳥越神社前交差点に出る。
左右の道は蔵前橋通りの1本南の裏通りで、現住居表示になる前は浅草向柳原2丁目と浅草鳥越2丁目との境だった。町境になっていたのはここを三味線掘から来る鳥越川が流れていたためで、これらの堀川は大震災後に埋め立てられた。この道は渡辺電化商事の辺りから南のほうへカーブしていて、周辺の直線の道路とはパターンが違っている。鳥越川の名残としては、江戸通りの須賀橋派出所という交番の名称と甚内橋遺功の碑(ぼくは確認していないが渡辺電化商事の向かい側らしい)とがある。

菱川印刷所
浅草橋3-33
1987(昭和62)年6月7日

蔵前橋通りから狭い路地を入った所。

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板根商店。台東区浅草橋3-8。1987(昭和62)年頃
忍岡高校入口交差点の北西角にあった店。写真左手へ行くとすぐ浅草消防署で、蔵前橋通りに出る。


サンライトの並び。浅草橋3-8。1986(昭和61)年4月6日
写真右端の家の右が1枚目の写真の板根商店になる。喫茶店の右の3階建ての家は住宅地図では「サンライト」だが、見たところ商売しているようには見えない。総3階建てに見える日本家屋がある。その構えから、そばやなどの食べ物屋だったのではないか。

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