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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




早川商店の並び。台東区浅草橋3-7。1987(昭和62)年頃

看板建築の商店が5軒並んで残っている。銅板張りの前面が残されている2軒の家はファサードのデザインがそっくりだ。左の家の看板の字は「川崎雑貨店」。
『東京路上細見4』(清水谷考尚・子守隆吉著、平凡社・1989年刊)には、『家は昭和3年の建築、明治からこの地で飴づくりと卸を営む、初代が創始した金太郎飴が同店の名物だったが現在は製造していない、その他は同店で製造した飴を売る』とある。

早川商店
1987(昭和62)年頃

看板の絵は金太郎が飴の塊を伸ばしているところだろうか? かすれている字は「梅干飴」「さらし飴」か?
現在も建物は現存しているが商売はいつのまにか辞めてしまっている。店の前にすわっているおばあちゃんは今も健在だろうか。

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関谷ビル。台東区浅草橋3-1。1987(昭和62)年10月4日

江戸通り沿いにあった小さなビル。忍岡高校の北を東西に通じる道路が江戸通りに出る角で、写真右方向が浅草の方向。
周辺は空襲で焼けた地域で、このビルも内部が消失したのを修復して使い続けていたわけだ。スクラッチタイルのような色だが、それより小さいようなので別のタイルだろう。

関谷ビル
1986(昭和61)年4月6日

関谷商店が家主で、シモジマと中山歯科が部屋を借りているらしい。

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左:福井ビル。右:山城屋。台東区浅草橋2-6。1987(昭和62)年頃

前回の小林酒店と同じ通りを少し東に行った辺りだ。
福井ビルの正面上部の壁面に装飾が剥がれたような跡がある。モルタルのレリーフでもあったのだろうか。3階の窓の上下に角だけ庇があるが、そこだけ残ったものかもしれない。
看板は「(株)エースボタン」「(株)フロンティア喜世分室」「ドレミ」。「ドレミ」は喫茶店らしい。
山城屋は店名の文字が一部剥がれているが「山城屋洋品店」と読める。商売はやめたようだ。

福井ビル
2005(平成17)年4月9日

福井ビルと山城屋の現状である。
この写真を撮ったときは、ビルの後ろから歩いてきたので古いビルを発見した気になっていた。正面から見ても以前撮影した建物とはしばらく気がつかなかった。

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小林酒店、ポリゴン理髪店。台東区浅草橋2-8。1987(昭和62)年頃
柳北小学校の南の道路を東へ行ったところ。看板建築が2棟並んでいた。


正面からの写真。1992(平成4)年5月2日


土田商店。浅草橋2-8。1992(平成4)年5月2日
1枚目の写真の右端に写っている民家が取り壊されて、路地に向いていた土田商店の家の側面が見えている。

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あずま床。台東区浅草橋2-23。1987(昭和62)年8月2日

「浅草鳥越あずま床」は井上ひさしの小説の題名そのままだ。1975(昭和50)年の刊行だが、写真の床屋のほうはかなり最近(撮影時の)の開店ではないかと思う。小説のほうの店は鳥越のおかず横丁にあるような印象だ。店名もすごいが「商い中」の表札も職人の腕を売る商売には合わないような気がする。「営業中」でも店名と合わないか?


山口ペニーサイクル。浅草橋2-19(推定)。1992(平成4)年6月6日

3軒長屋か、4軒長屋だったのものを右側の1軒を取り壊したものかもしれない。
撮影時には、この辺りには長屋や出桁造りの商家、簡素な看板建築などがまだけっこう見られた。商売は廃業してしまった家が多いから看板もなく、今になって写真を眺めてもどこの家だか分からない。


山路製帽。浅草橋2-24。1992(平成4)年5月2日

東京帽子倶楽部というサイトをざっと眺めただけだが、「東京帽子協会」の会員135社のうち浅草橋にある会社が多い。鳥越・小島・三筋を含めると約半分になる。協会も浅草橋5丁目にある。浅草に集まっていた馬具製造職人が、明治以後、帽子へ移行していったからだという。

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マルホー。台東区浅草橋2-21。1986(昭和61)年4月6日

写真左へ行くとすぐ忍岡高校入口交差点、さらに行くと蔵前橋通りの鳥越2丁目交差点に出る。右奥の白いビルは育英小学校。
建物は木造3階建ての構造で、モルタルで石張風に外壁を飾ったもののようだ。
マルホーはベルトのバックルを製造・卸をしている会社で昭和44年の創業という。


マルホー。1989(平成1)年9月1日


2014.10.14追記

先日、マルホーの建物で少年時代の一時期を過ごした榊氏からメールと左の写真をいただき、この建物の前身を知ることができた。以下、氏のメールの内容をまとめてみた。

建物は「榊製帽所」として榊氏の祖父によって、昭和初年に建てられたものだ。写真は氏の父上が出征するときのもので、昭和14年頃。建築時の上げ下げ窓の枠と桟がどういうものだったか判る。建物角、上部にあるのは「獅子羽印」のレリーフだか看板。玄関は左衛門橋通りの側にあり、横丁側には家族用の小さな内玄関があるだけだった。
戦後すぐに氏の祖父が亡くなり、父君が後を継ぐ。最初は五人が出資したので「株式会社五興」、後に「榊商店」として、婦人帽の材料や帽体(加工前の帽子)、木型、生地、装飾品を全国の洋裁学校や帽子屋に販売した。
住居は世田谷にあったが、しだいに事業がうまくいかなくなり、昭和28年にその家を売って、店の2階に住むようになった。榊氏は柳北小学校に転校する。学校は5・6軒先の間近だから、教室から祖母が窓を開け放って掃除をしている姿が見えたという。建物の後ろ側1~3階は以前から「内豊制帽」という帽子製造業の作業場や店が入っていた。3階は倉庫と貸間、婦人帽子教室などに使っていた。
榊氏が福井中学1年の昭和32年頃には、事業が行き詰まり、近くに住む父上の戦友で、ガラスの商品ケースを製作していた「佐々木硝子店」に建物を譲り渡す。昭和41年の住宅地図では「丸佐製作所、内豊制帽」であるが、そのへんの経過は不明。

このT字路で昭和27年に、松竹映画「あなたほんとに凄いわね」の鳥越神社の祭りの場面が撮影された。店を背景に黒山の人だかりの中を神輿が行くシーンがクレーンを使った大掛かりな撮影で行われた。監督の柳澤類寿は榊氏の伯父で、昭和26年頃まで「榊商店」の家に住んでいたというから、ロケ地の選択は監督の意向だったのだろう。後に脚本家に転出し、TVドラマ「地方記者」「七人の孫」「ずうずうしい奴」などの脚本を書いている。
ネットの情報によると、「あなたほんとに凄いわね」は宮城まり子の同名のヒット盤の映画化ということなので、ネットでその曲を視聴してみたが知らない歌だった。この年、ぼくは小学3年生だったが、公開された映画のリストを眺めると「キング・ソロモン」「ピノキオ」「原爆の子」を観た覚えがある。

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