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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




岡三証券浅草支店。台東区雷門2-11。1987(昭和62)年4月4日

浅草の雷門から駒形橋詰の駒形堂に通じる並木通り西側の昭和末年の街並み。左から、岡三証券、並木のやぶそば、おりや、鈴木バルブ店、駐車場、12番地になって北陸銀行。
現在、並木通りの西側はほとんどが新しいビルに建て替わっているが、やぶそばと鈴木バルブ店は写真の建物のまま。岡三証券のビルは空き家のようだが残っている。周りを含めてビルを建てる計画なのかもしれない。
『東京の下町』(杉原残華著、昭和29年、住吉書店刊)という本に、昭和20年代末の「並木町通り」の様子が書かれていた。杉原残華は小唄や都都逸の作家だったらしい。
浅草のどこがさびれたといつて駒形堂から雷門に至る旧並木町通り程淋しくなつたところは一寸ない。中には立派になつたじやないかと言う人もあるかも知れない。成程建物は立派な洋風のものが沢山建つた。然しそのどれもが銀行か保険会社か証券会社の建物ばかりである。(中略)駒形堂のあたりから一丁あるかないかのこの区間と、雷門から田原町までの一停留場との間のL字型のところに一体こういう金融機関の建物がどの位あるか、数えて見たら第一銀行、東京銀行、埼玉銀行、三菱銀行、三井銀行、協和銀行、富士銀行その他を合せて二十一店あつた。

1986(昭和61)年10月26日

岡三証券ビルは『日本近代建築総覧』では「S10、設計・施工:日本鉄筋ブロック建築合資会社設計部」。
昭和26年の火保図では「埼玉銀行雷門支店」。それ以前のことはまだ調べがつかない。

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大東京火災海上保険浅草支店。台東区雷門2-4。1986(昭和61)年10月26日

江戸通りと浅草通りが交わる駒形橋西詰交差点のそばにあった。写真の前の通りは並木通りで、右に行くと雷門にぶつかる。
渡辺仁の設計で昭和2年の竣工。以前は第一勧銀駒形支店、さらにその前は第一銀行である。写真では正面の左が写っていないが、左右対称。外観では階数が分かりにくいが3階建てだ。
現在はあいおい損保台東ビルに変わった。撮影時には大東京火災のすぐ北にあった岡三証券もそのビルに入った。


浅草大栄ビル(埼玉銀行浅草支店)
雷門2-18
1987(昭和62)年4月4日

大東京火災から2ブロック北へいった向かい側にあった。昭和30年代の建築かと思う。

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東京クラブ。台東区浅草1-26。1986(昭和61)年10月26日

戦前から、すでに西洋物の2番館だったらしい。平面は三角形に近く、舞台になるところは三角形の鋭角になる位置で、舞台を置くには狭すぎるようだ。映画専門の劇場として建てたのかもしれない。スクリーンの大きさを売り物にする時代になっては、なんともならないだろう。
ファサード中央のベランダの張り出しは、下から見れば庇の張り出しになるわけだが、表現主義的な造形で、見ていて楽しい。メンデルゾーンのアインシュタイン塔を想起させる。アインシュタイン塔は殻から頭だか足だかを出したオウム貝を連想するのだが、東京クラブはベランダの張り出しの曲線が魚のエイみたいだ。曲線が有機的なものを連想させるだけのことだろう。表現主義が生物の形態をどうした、という話は聞いたことがない。


左:1985 (昭和60)年1月、右:1986(昭和61)年10月26日

枝川公一著『ふりむけば下町があった』(新潮社、1988)に東京倶楽部のことが書かれていた。枝松が館の事務員の女性(70歳)から聞いた話をまとめたものらしい。ここに載せた写真を撮った頃の話としていいだろう。
内容は「入場料700円は浅草で最も安い。17時からは500円に、20時からは300円と割引になる。2階の映写室にはフジ・セントラルの旧式映写機が。3階の客室からはスクリーンは、はるか下に小さく見える。ウチコミ(開場)は平日が10:30、土日が10:00。終了は21時で、1回目の上映は終了時間に合わせて途中から。馬券を買う人も早朝割引500円で入ってくる。1回だけは外出できる。」



横から見ると「芋虫のような」と形容される形である。建物の構造がそのまま現れている。今となっては中を見ておかなかったのがなんとも悔しい。700円払って入ってみればよかった。1985 (昭和60)年1月

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トキワ座。台東区浅草1-26。左:1987(昭和62)年4月4日、右:1985(昭和60)年1月

隣に建つ浅草松竹と東京クラブと同じく、設計は松成設計事務所で昭和6年竣工。松成設計事務所は劇場建築を専門に設計したという。この3館の他には浅草国際劇場がそうだった。それ以上のことは知らない。
ファサードの中央が膨れた壁面が意表をつくデザインで、表現主義的な雰囲気が感じられる。壁面の中央に寄せた3列の窓は古い洋式建築でよく見るようなものだ。
浅草常盤座は根岸興行部が建てた六区最初の劇場で、明治19年に歌舞伎を興行した。大正中期には根岸歌劇団の本拠、つまり浅草オペラの殿堂とされた。大震災後、写真の劇場になってからは演劇やストリップを見せていたらしい。永井荷風が楽屋によく顔を出したという話は有名だが、常盤座では桜むつ子がお目当てだったとか。ロッパの「笑いの王国」もここで旗揚げしたようだ。松竹系の常盤興行を経て松竹直営となり、戦後は森川信一座の軽演劇等が好評だった。1965(昭和40)年、中映に移管され「浅草トキワ座」と改称して邦画名画座になるが1984(昭和59)年に閉鎖された。ここにある写真を撮った後になるが、おかみさん会が松竹から賃借して演劇の定期興行を再開したこともある。(「ウィキペディア」及び「浅草六区」を参照)



トキワ座。1987(昭和62)年5月5日

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浅草松竹。台東区浅草1-26。左:1987(昭和62)年4月4日、右:1986(昭和61)年10月26日

『日本近代建築総覧』ではROXY(撮影時では浅草松竹)、東京クラブ、浅草トキワ座の3館は、設計は松成設計事務所――『ウィキペディア』では「成松設計事務所」。 『日本近代建築史』では国際劇場の建築家名を「成松勇」としてある(2011.04.30追記)――で昭和6年竣工、「外観はそれぞれ異なるが内部は1つの建物」としている。1つの建物ではなく、3館が廊下でつながっている、ということではないかと思う。
大震災の前も金竜館、常磐座、東京クラブの名前で映画や実演などをやっていた。金竜館といえば浅草オペラなのだそうだ。それ以前には明治44年の「ジゴマ」旋風、などというのもある。昭和40年頃にテレビで活動弁士の物まねを見たが、「花のパリーかロンドンか、月が鳴いたかほととぎす」のせりふはジゴマで演じられたものらしい。大震災以後は、浅草オペラはほとんど上演されなくなったようだ。
浅草松竹は、竣工時は金竜館の名前を引き継ぎ、戦後の昭和21年に「ロキシー映画劇場」と改名する。1983(昭和58)年に「浅草松竹映画劇場」として松竹封切館になった。
右の写真では「波光きらめく果て」と「離婚しない女」の看板がかかっている。『近代建築ガイドブック関東編』の写真は、昭和50年代末らしいが、「ROXY」の名でSTチェーン(松竹と東急レクリエーションが擁する劇場のチェーン)封切劇場としてポルノ2本立ての看板を掲げている。映画のタイトルも分かるが、変なTBを張られそうなので書かないでおく。



浅草松竹。1985(昭和60)年1月


2階前面の窓と入口上部のアーチ。1986(昭和61)年



新仲見世に側面を見せていた。1985(昭和60)年1月

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小笠原紙工。台東区浅草橋5-15。左:1986(昭和61)年4月6日、右:1987(昭和62)年頃

左衛門橋の通りの忍岡高校入口交差点のすぐそばにあった。その交差点の北側だったか南だったか記憶があやふやだが、住宅地図を睨んで北にある小笠原紙工としておく。写真左の家は酒屋のようだが、それが鈴木酒造という見当である。
古典様式のデザインをかなり忠実に表現した看板建築といえると思う。


一番館(中華料理)が入るビル
浅草橋5-4
1987(昭和62)年頃

忍岡高校入口交差点からはかなり離れている。清洲橋通りと、そこから東へ江戸通りへ通じる通りの交差点の角にある。
縦長の窓をつないでひとつの窓に改装しているが、装飾は残されているほうだろう。

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台東区立柳北小学校。台東区浅草橋5-1。1987(昭和62)年頃

総武線の北にそれと平行して、清洲橋通りと江戸通りを結ぶ通りがあり、柳北小はその通りに面している。写真の左右の道路がそれで、写真左奥へ行くと、校舎の切れた先が柳北公園、その先に都立忍岡高校がある。
柳北小は2001(平成13)年4月に育英小学校と合併して台東育英小学校になり、校舎は一部「柳北スポーツプラザ」という区の施設に建替えられたほか、まだ残っている古い校舎を「東京リセ・フランコ・ジャポネ」としてフランス大使館が借りているらしい。
写真の校舎は解体されて柳北スポーツプラザになった西側の校舎。1926(大正15)年の竣工である。機能を重視した合理的な建物のようだ。ただ、屋根の軒周りの3重の線はかなり特徴的だ。



旧・柳北小学校。2007(平成19)年6月7日

バス停は「台東区循環バス『めぐりん』」の「南めぐりん」路線の「柳北スポーツプラザ」停留所。100円で大江戸線蔵前駅、田原町、かっぱ橋道具街、入谷を巡って上野駅へ行く。

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蔵前橋通りの裏。台東区浅草橋5-28。2005(平成17)年4月8日

蔵前橋通りのすぐ南の裏通りで、写真右の横山ビルの西側の並び。横山ビルは当ブログ前回の2・3枚目の写真の左に写っているビルで、裏通りのこのブロックでビルになったただ1棟のビルである。その左の茶色のタイル張りの家が鞄金具の高橋製作所。



村義紙業。台東区浅草橋5-17。1987(昭和62)年頃

写真右の小さく写っている家が蔵前橋通りに面している。左手前の家が村義紙業。水色の看板建築の家は菅井電気工業所。銅板張りの二軒長屋が2棟くっついているのか、あるいは四軒長屋だかの家は2005年くらいまで残っていた。

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シバザキ眼鏡店、中川商店、亥来堂。台東区浅草橋5-28。2005(平成17)年4月8日(3枚とも)

今回の写真はごく最近のもの。
写真の家並みは蔵前橋通りの鳥越二丁目交差点を南に入ったところ。写真右の名刺・ゴム印の亥来堂(いらいどう)は蔵前橋通りに面している。写真の並びの斜め向かいに浅草消防署浅草橋出張所がある。中川商店は看板に「ビニールレザー及び附材料」とかいてあるが帽子の付属品なども扱う店。



シバザキ眼鏡店の横は蔵前橋通りの裏通りになるが、古い家が並んで残っている。



丸友商会(中央)も中川商店と同じく帽子に関係した会社らしい。1階をガレージにしてしまっている家が多い。

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東京三商
台東区浅草橋5-1
1987(昭和62)年頃

都立忍岡高校の北側を通る通りと、南に行って神田川の左衛門橋を渡る通りとの交差点が忍岡高校入口交差点で、東京三商の建物はその角にあった。
モルタルで洋風の外観にした木造3階建ての建物だろう。アルミサッシに変えられていない窓は上下に上げ下げする方式の窓のようだ。

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