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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




都立日比谷高校講堂。千代田区永田町2-16。1989(昭和64)年1月4日

都立白鴎高校に続いて、やはり岡田信一郎が設計した都立日比谷高校だが、1982年には校舎は建替えが終わっていた。講堂は保存運動のためかどうかは知らないが残されていた。それでも1994年11月には解体されてしまった。
『総覧』では「日比谷高校(旧府立一中)、建築年=1928(昭和3)年、設計=岡田信一郎、施工=古島宮次郎」。『 日比谷高等学校』の「歴史」によれば、1929(昭和4)年5月24日に新校舎落成、同年10月20日に創立50周年記念式および新校舎落成式を行っている。
ぼくの世代では日比谷高校といえば、入ってしまえば次は東大から大蔵省というコースがイメージされるのだが、最近はどうなのだろう。そろそろ大蔵省という言葉が懐かしくなりつつある。
上の写真は左下に写りこんだコンクリートの護岸みたいなものが邪魔だ。もう少し撮影ポイントを考えればいいのに、残念である。建物の後ろは浅草六区にあった東京クラブのような、階段状に小さくなっていく外観だったが、それが分かるようなショットも撮っていない。




当記事を書くために調べている過程で知ったばかりなのだが、日比谷高校が建つ高台は村井吉兵衛(きちべえ)の邸宅だった。明治期に「煙草王」といわれた人物である。たばこが国家による専売制になったのは1904(明治37)年からで、日露戦争の戦費調達のためだった。このとき村井吉兵衛には1120万円の保証金が入った。その資金で村井銀行をはじめとする事業を展開して財閥にまで発展したらしい。
一方で京都丸山公園に別荘を建築する。長楽館である。この洋館は数年前に見ているが、煙草王の別邸だったことはやはり今知った。赤坂山王台に結びつくとは驚きだ。
本邸や長楽館に名士を迎えて得意だったろう吉兵衛は1926(大正15)年1月に63歳で逝去。その翌年、昭和の金融恐慌によって村井銀行は破綻した。山王台の本邸は東京府が買い取って府立一中を建てたという。
日比谷高校の南の校門が村井邸の遺構らしい。写真の煉瓦の塀は講堂の裏側にあったものと思うが、正確な場所は思い出せない。校門は移築されている可能性があるが写真の塀は元の場所にあったままだろう。今でもあるだろうか?

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山王ホテル。千代田区永田町2-11。1989(昭和64)年1月4日(5枚とも)

外堀通りの山王下交差点から山王ホテルを撮った写真だが、肝心の建物が白く飛んでしまった失敗写真だ。通り沿いの木立は撮影時の住宅地図では「山王ホテル月極駐車場」で、その後ろが山王ホテル、さらに後ろがキャピトル東急ホテル。写真右のビルは「星が岡ビル」らしい。山王ホテルの正面玄関は写真で正面を向けている面にあったが、そこを撮っていない。フェンスのために撮れなかったのかもしれない。
ネット上では2・26事件で撮影された写真が何枚か見られるが、『 御光堂世界~Pulinの日記 2009.11.16』で、当ブログの写真と同時期の、廃墟になっていたホテルの写真を公開している。




山王ホテルは『総覧』には「建築年=1933(昭和7)年、構造=RC、設計=小笠原鈅、施工=大阪豊田組」の記載。
小笠原鈅はネットでは兵庫県池田市の「旧池田実業銀行本店(現・いけだピアまるセンター)」の設計者として出てくる。「鉄道院出身で大阪で活躍した」人だという。( 『文化遺産オンライン>いけだピアまるセンター』




山王ホテルの裏側の道路から撮影。左の写真は山王日枝神社へ上がる階段の道からの撮影。

現在、この辺りがどうなっているかは、ぼくは実際に見ていないこともあってへたなことは言わないほうがいいので省略する。

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丸ノ内ホテル
千代田区丸の内1-6
1989(平成1)年10月15日

前の通りは永代通りで、写真左から交通公社ビル、丸ノ内ホテル、東京中央ビル。これらビルの裏手に国鉄本社ビルがある。現在は丸の内オアゾとして再開発されて丸の内1-6の地区で撮影時にあったビルはほとんどが建て替えられたようだ。
撮影したときは戦前築の建物という知識はあって撮っているのだが、これが?という疑問はあった。右の写真はネット上にあった戦前の絵葉書で、どこから拾ってきたのかは忘れた。 『清水建設200年作品集』にも竣工時の写真がある。その写真と比べると窓の配列が同じなのでやはり大正末に建てられたビルと分かる。『総覧』では「丸の内ホテル、建設年=T13(1924年)、構造=SRC9、設計=清水組(田中実)、施工=清水組、S13(1938年)改修(大林組)」。大正末に9階建てとはかなりの高層建築である。
戦後は占領軍に接収されて英連邦軍の宿舎となった。昭和20年12月から24年7月までだが、全館の接収解除は昭和27年6月で、営業を再開したのはその後だ。

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日本国有鉄道本社旧館
千代田区丸の内1-6
1986(昭和61)年9月23日

東京駅の北端の向かいに建っていた国鉄本社ビル。撮影時の住宅地図では西隣に新館があり、新館の日本工業倶楽部が向かいにある角が「国鉄PRセンター」である。旧館のほうは鉄道省の庁舎として1938(昭和13)年に完成した。設計=鉄道省公務局設計課、施工=飛鳥組・清水組、構造=SRC8階建て。戦前の竣工といっても震災復興も終わって様式建築の時代も終わったように感じるビルである。官庁の建物なので外観を考慮したり正面を飾ったりする必要がなく、もっぱら実用性を追求したのだろう。日中戦争が始まり余裕もなくなったに違いない。完成時は容積では日本一大きいビルだったようだ。
1998(平成10)年に取り壊される前年に一般公開され、見に行かれたk-kai氏が 『廃景禄>国鉄本社』で報告されている。興味深いのは屋上の「耐弾層」という爆弾から建物を守るための厚いコンクリートと鉄筋の補強。昭和16年、対米戦争が始まる前の工事らしい。対米戦争は必須、そうなれば帝都は空襲を受ける、と見ていたということだろうか。

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東京駅。千代田区丸の内1。1986(昭和61)年6月1日


誰もがご存知のように、現在、東京駅は1914(大正3)年に完成した姿に修復する工事のため、工事用のフェンスに覆われている。この大建築が取り壊されて無くなるというのも考えにくい話だったが、完成時の姿に復原されるとはうれしい話だ。どうせ保存するなら、とぼくも思ったものだ。しかし保存されるなら慣れ親しんだ現在の姿であってもかまわない。あるいは、東京空襲の記録として現在の姿をそのまま残す(今や東京空襲を目に見える形で残っている現物はほとんどない)というのでもいい。
とはいえ工事は始まっているのだし来年には復原された東京駅が見られるわけだ。霞が関の 法務省赤レンガ棟も近年、1895年に完成したときの姿に修復された。三菱1号館の場合はどう考えればいいのだろうか。



東京駅丸の内北口。1984(昭和58)年11月

東京駅は辰野金吾の設計によって1914(大正3)年に完成した。新橋-横浜間に鉄道が開通したのは明治5年だから、そこから40年以上も経っている。もっとも建設が決定したのは明治23年。工事の着工はまた18年経った明治41年。どうしてこうも工事が遅れるのかと思うが、完成したときは鉄筋コンクリート造も出てき始めて、赤レンガの建物はやはり明治の建築物である。

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新丸ビル。千代田区丸の内1-5。2003(平成15)年12月13日

正式には「新丸の内ビルディング(ビルヂング)」で、写真のビルは今では「旧新丸ビル」ということになるが、当ブログでは撮影時の名称を使うことにしている。
新丸ビルは戦前に起工されたが戦争のために工事は中断され、完成は1952(昭和27)年11月18日である。設計は丸ビルと同じ三菱地所、施工は清水建設。規模も外観も丸ビルとそっくりで、東京駅から見ると行幸通りをはさんで左右対称の景観を作っていた。たぶんそうなるように設計したのだと思う。



2003(平成15)年12月13日

ビルが完成した昭和27年というとサンフランシスコ条約調印の1年後で、この年に発効している。朝鮮戦争のおかげで戦後の復興が始まった頃だ。ぼくはすでに小学3年生で、まだ空き地のようだった建築現場を見たように記憶しているが気のせいだろうか。年表を見ると、木星号墜落、白井義男、ヘルシンキオリンピック、リンゴ追分、テネシーワルツ、君の名は(ラジオ、映画)、明神礁、水爆実験、コメット号(ジェット旅客機)、シーラカンスなどは覚えがある。



南側と西側。写真右奥に東京駅。前の道路は行幸通り。1986(昭和61)年頃

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丸ビル。千代田区丸の内2-4。1986(昭和61)年9月23日

霞が関ビルが1968(昭和43)年に完成するまでは丸ビルが日本を代表するビルだった。丸ビルは「丸の内ビルディング」あるいは「丸の内ビルヂング」の略表だが、『日本近代建築総覧』や『近代建築ハンドブック』では「丸ビル」で表記している。設計=三菱地所部(技師長=桜井小太郎)、施工=フラー社(ニューヨークの建設会社)で、1920(大正9)年7月に着工、1923(大正12)年2月に完成している。「東洋一」の規模の先進的なオフィスビルで、1・2階の誰もが利用できるビル内の商店街が話題を呼んだ。機械力を駆使した施工法は当時の日本の建設会社には衝撃だったという。工程表による進捗管理や厳格な労務管理も模範になったようだ。
完成半年後の関東大震災では倒壊はしなかったもののかなりの被害を出した。構造設計にもかかわったフラー社の責任らしい。その改修工事が終わるのは1926(大正15)年7月で、3年もかかっている。こちらの日をビルの完成日としている資料もある。その後、1935(昭和10)年にも外壁などの改修工事が大林組で行われている。ビル上部にあった庇状の出っ張りはこのときに取り去られた。



南側(写真右奥に東京駅)。1986(昭和61)年9月23日


上:正面玄関と階段
1997(平成9)年4月5日
左:正面玄関上のタイルのレリーフ
1985(昭和60)年11月4日

上の写真を撮った1997年4月5日は丸ビルが閉館したその日である。たまたま近くにいたので寄ってみた。翌日の新聞記事によると来館者は300人を越えたというが、少ないといっていい。
外壁のタイルは貼り替えて3・4年しか経っていないのできれいだ。

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電子技術総合研究所。千代田区永田町2-6。1989(昭和64)年1月4日(3枚とも)

外堀通りの溜池交差点の近く、首相官邸のある高台の麓といった場所である。写真左の道路は現在、東京メトロ南北線の溜池山王駅ができている。写真の建物はどうも総理大臣官邸の敷地になってしまっているようだ。
1986年の住宅地図には「鉱山分析課」。それと所在地から『日本近代建築総覧』の「電子技術総合研究所(旧東京鉱山監督局)、建築年=S4、構造=RC3、設計=大蔵省営繕管財局、施工=大倉土木」であろう。建物は使われなくなって何年になるのか判らないが、立派な廃墟である。廃墟というと入り込もうとする人がいるらしいが、場所が永田町では絶対に無理である。写真右の門扉には「国有地につき立入り及びゴミ類の投棄を禁ずる 大蔵省関東財務局 電話○○五三五一」と書かれたボードが貼ってある。





1枚目の写真の左に写っているビルかもしれない。だとすると1969年の住宅地図の「東京都交通局 パトカー富士基地」の記載があるビルだ。
廃景録>消えた近代建築>電気試験所永田町分室』の建物は、住所からすると電子技術総合研究所から道路を隔てた隣にあったようだ。

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東京都庁東3号庁舎。千代田区丸の内3-8。1991(平成3)年4月21日

丸の内の都庁はJRの線路を挟んで西と東にあった。東側の敷地には第2本庁舎、第3本庁舎、東6号庁舎、東3号庁舎があった。東3号庁舎は東側の敷地、南西角にあった戦前に建てられたビルである。『総覧』では「東京都東3庁舎(旧丸の内食堂)、建築年=1931(昭和6)年、構造=SRC6、設計=東京都、施工=中央土木」。設計は正確には「東京市」だと思う。
このビルを見て、誰も「丸の内食堂」という飲食店のビルとして建てられたとは思わないだろう。『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988)に、「「深川食堂」や、流線型の意匠で威容を誇った「丸の内食堂」が、公共の手での市民生活の向上をはかった所産……」とあるので、丸の内食堂は東京市が貧困層のために設置した食堂だったと分かる。昭和22年の地図では「都民生局」であり、「民生食堂」(「公衆食堂」とも)を運営管理する部局の市庁舎に丸の内食堂を設置したのかと想像できる。
「流線型」といわれる全体の形も、『廃景録>旧都庁東3号庁舎』で言っているように、アールの角を中心に両側面を見られればよりいっそう感じられるのだろう。同サイトでは1996(平成8)年頃に解体されたという。線路西側の都庁の建物が全てなくなってからも5年間ほどは存続したらしい。『ウィキペディア』では、解体前は「豊田通商本社」が使っていたと記されている。

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日本赤十字東京都支部。千代田区丸の内3-5。1985(昭和60)年11月4日

丸の内に都庁があった時代に、その敷地の北西角にあった。設計=岡田信一郎・岡田捷五郎(しょうごろう)、施工=清水組、1927(昭和2)年の完成である。円弧状の正面に10本の列柱を立てた古典様式のビル。重厚さはさすがで、実際以上に大きく見える。
『東京建築懐古録Ⅲ』(読売新聞社編、読売新聞社、1991年)によると、昭和19年1月に東京都防衛本部にされてしまい、戦後も占領軍に接収された。日赤が戻れたのは昭和22年10月だったという。
平成3年秋に現在の新宿区大久保に移転した。そこに、旧社屋の模型や玄関を入ったところにあった果物の柱の飾りなどが陳列されているそうだ。




上:1986(昭和61)年5月18日
左:1991(平成3)年4月21日

土木建築画報・昭和3年4月号』に岡田信一郎(肩書きは早稲田大学教授/美術学校教授)の名前で「建築工事概要」と、三浦元秀(工事主任)の「汽錘式杭打工事に就て」が載っている。それによると各階の主な間取りは、地階:食堂・倉庫・機関室、1階:玄関・受付・事務室・主事室・応接室、2階:貴賓室・御真影室、中2階:倉庫、3階:事務室・参考陳列室・会議室。直接、都庁に出る裏口がある。

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