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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




白光堂。千代田区飯田橋3-1。左:1989(平成1)年5月4日、右:2004(平成16)年1月3日

目白通りの一角で、写っている建物はみな今もそのままだ。看板建築の白光堂は「飯田橋商店街振興組合」のサイトを見ると、「白光堂写真機店」の名称で「写植印画紙、薬品、材料、DPEの専門店」となっている。建物は特に特色があるとも思えないが、『日本近代建築総覧』に掲載されていて「白光堂カメラ店、飯田橋3-1、建築年=昭和3年、木造、設計=白土吉之助」となっている。



明治印刷。飯田橋3-4。左:2006(平成18)年3月31日、右:1988(昭和63)年1月15日

目白通りから横丁を入った東京区政会館の向かいに現存する建物。角の玄関の造りが目を惹く。三階の窓はただの飾りかと思う。なんの為なのかドアが二つ並んでいて、右のドアに「明治印刷株式会社」の文字がある。ネット検索では出てこないで今は廃業したのだろう。ストリートビューで見ると、今は右の柱が切り取られてドアは一つに造りかえられている。建物を支えていた柱ではないにしても、アーチが浮いてしまってなんとなく不安定な感じだ。

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日本医科大学第一病院。千代田区飯田橋3-5
上:1988(昭和63)年1月15日
左:1986(昭和61)年9月23日

目白通りの、JR飯田橋駅のそば(地下鉄東西線飯田橋駅の上)にあった大きな病院。建物は、『日本近代建築総覧』では「建築年=昭和6年(1931年1月)、設計=和田順顕、施工=清水組、地下室付き」である。和田順顕をネット検索したら当ブログの『 日本医師会館(神田駿河台2)』があって、そこですでに説明してあった。すっかり忘れていた。手抜きだがそこの記述をそのまま書き写しておく。「和田順顕は、ぼくは初めて聞く名前だったが、横浜郵船ビル(昭和11年)の設計者だった。ネット検索すると、銀座にあった足立ビル、品川区上大崎のタイ王国大使公邸(昭和9年)、飯田橋にあった日本医科大学第一病院(昭和6年)、新宿区信濃町にある慶応大学の信濃町メディアセンター(昭和12年)が和田順顕の設計した建物として拾えた」。

日本医科大学第一病院は、1924(大正13)年7月に、当時は「日本医学専門学校」だったが、「付属飯田町医院」として開院した。1926年、日本医科大学に昇格するとともに「第一医院」に改称した。「付属第一病院」の名称は昭和38年かららしい。
外観はスパニッシュの系統だろう。平面は中庭があるV字形。竣工時は左右対称だったようだが、すぐに東側の翼を倍に伸ばしている。昭和50年には中庭の周囲はビルで囲まれてしまっていた。
1997(平成9)年9月30日で閉院した。取り壊しは1・2年後に始まったと思われるが、ぼくは1階だけの姿になっていたのを目にしている。あれはなんだったのだろう? 現在は東京区政会館が建つ。


1989(平成1)年5月4日

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旧東京ビル。千代田区丸の内2-7。1985(昭和60)年11月10日

どうもひどい写真を出してしまったが、旧東京ビルの写真はこの1枚しか撮っていない。解体工事でも始まるかと、あわてて撮ったものかと思う。実際はこの後18年間存続したのだが、なぜか撮りなおしていない。当時の地図には主なテナントとして「東京証券本店、南都銀行東京支店、博報堂、三京カラー、日本航空、白洋舎」の記載がある。
『ウィキペディア<東京ビルディング』によると、ビルの土地は、「旧東京市との交換で三菱財閥が所有していたものを、大倉土木(現・大成建設)に譲渡していた」。戦後、「丸の内オフィス街の一元開発と戦後の企業分割で少なくなった賃貸物件を確保したかった三菱地所と、戦後経済による不況で受注建築物件を増やしたかった大成建設との間で交渉がまとまり、三菱が土地を買い戻し、大成建設ほかの施行で建設に至った」ということである。
着工は1950(昭和25)年6月28日(ぼくが小学校に上がった年だ)、1951(昭和26)年9月22日に南側の半分が竣工、全部が完成したのが1955(昭和30)年3月31日。現在の新しい東京ビルが竣工したのは2005(平成17)年10月17日。
このビルには3か所(2か所は西側が開いている)の明り取りの中庭がとられている。まだ戦前の慣習が残っていた感じがするが、当時の電力事情もあったのかもしれない。

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第一鉄鋼ビル。千代田区丸の内1-8。2005(平成17)年12月17日

第一・第二鉄鋼ビルはすでに解体が終わって、4月24日には新鉄鋼ビルの起工式が行われたそうだ。このビルが建っている場所は江戸城の外堀になる。戦後、周囲の瓦礫を放り込んで埋め立てたのが1948(昭和23)で、第一鉄鋼ビルは1949(昭和24)年11月に起工、1951(S26)年7月 に竣工した。戦後初の本格的な高層ビルと言われた。周囲はまだ焼け跡が目立っていたらしい。1954年には第二鉄鋼ビル、国際観光会館、鉄道会館(大丸デパート)といった東京駅八重洲口の主要なビルが完成する。今、そのままで残っているビルはない。
第一鉄鋼ビルは完成後2度の増築工事があった。1969(昭和44)年1月に西側にフロアを広げ、1969(昭和44)年1月に9階部分を増築している。
ビルを運営管理している『株式会社鉄鋼ビルディング』は、広島県呉市を本拠とする建設会社の『増岡組』の同族会社で、鉄鋼ビルを建設・運営するために設立されたものだろう。おそらく鉄鋼ビルの土地も取得していると思う。どういう経緯があったのか気になる。創業者は吉田茂や池田勇人と付き合いがあったようだが、なにか関係があるだろうか。




上:1986(昭和61)年1月
左:1986(昭和61)年6月22日

ビルの名称に「鉄鋼」とあるからには、最初からそういった関係の会社が入居を予定していたのだろうか、とネットで調べてみた。『東京駅周辺』に、「元々、このビルには八幡製鉄の本社や鉄鋼関連の諸団体などが多数入居しておりました。その後、八幡製鉄と富士製鉄の合併による新日本製鉄の誕生により、すぐ近くの新日本製鐵ビルに移りました。……神戸製鋼の東京本社(2枚目の写真に看板が出ている)は、このビルの2階-4階と6階の4フロアーを使っていましたので、……」とあった。竣工時は「鉄鋼ビル」の名前にふさわしいものだったのだろう。

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会計検査院。千代田区霞ヶ関3-2。1986(昭和61)年7月27日

設計=大蔵省営繕管財局、施工=竹中工務店で1935(昭和10)年に竣工した中央官庁庁舎。中央官庁の建物としてはわりと後期に建ったせいか、壁はもはやスクラッチタイルではなく、小さな白いタイルを張っているので、外観はかなりモダンに見える。玄関上部の付柱が文部省や旧自治省などにも共通する飾だが、それもあっさりしたものだ。上の写真ではそれがよく、というよりさっぱり判らないが、『近代建築散策>会計検査院』にすばらしい写真が掲載されている。
霞が関3丁目南地区の再開発により、2004年に解体された。会計検査院は現在、中央合同庁舎第7号館(霞が関コモンゲート)東館にある。



会計検査院の正面玄関。この玄関部分は霞が関コモンゲート東館に移築されているという。1986(昭和61)年7月27日


2004(平成16)年2月11日
すでに玄関は封鎖されていた。

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文部省。千代田区霞が関3-2。1986(昭和61)年7月27日

国土交通省>官庁営繕によると、設計=大蔵省営繕管財局、施工=大林組により、1931(昭和6)年に着工、1933(昭和8)年7月に竣工した中央官庁庁舎。大きな窓、スクラッチタイルの外壁、玄関上部のゴシック風の飾りなどが特徴。1階の石張りは伊豆長岡産の横根沢石という。平面は中庭のある五角形。
現在は再開発されて「旧文部省」のビルは桜田通りと三年坂側の部分が保存されたので、上の写真はそう大きくは変化していない。写真中央の白い建物は虎ノ門交差点の島にあった虎ノ門派出所。写真左端の第一銀行の入るビルは「虎ノ門第一ビル」。現在は「虎ノ門清和ビル」に建て替わって「みずほ銀行」が入っている。



1987(昭和62)年1月1日

上の写真には左に国立教育会館(虎ノ門ホール)が写っている。1964(昭和39)年に竣工した9階建てのビル。 文化庁月報平成24年7号によると、「国立教育会館は、全国の教職員の研修の場で、館内には虎ノ門ホールがあり、クラシック音楽の演奏会が数多く開かれていた」ということで、現在は解散し、建物は再開発により2005年に解体された。



西南に向いた後ろ側の5階建ての部分は取り壊された。1986(昭和61)年7月27日



三年坂側は保存された。奥の白いビルは会計検査院。1987(昭和62)年1月1日

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特許庁。千代田区霞が関3-4。1986(昭和61)年7月27日(5枚とも)

新聞で「特許庁が取り壊しに」という記事を見て、わざわざ出かけて撮影してきた。すでに業務は行われてはいないようで、敷地の西側から正面にかけて工事用のフェンスで囲まれていた。写真を撮っているおじさんがぼくの他に一人だけいた。
建てられた当時の特許庁は、商工省の外局で「特許局」だった。住所は東京市麹町区三年町一番地だったから、建物も「三年町庁舎」と呼ばれていたという(「特許庁写真集」)。1949(昭和24)年に通商産業省が設置されてその外局となり、特許庁となった。特許局が写真の新庁舎に移ったのは1934(昭和9)年8月27日。商工省の他の部局も一緒だったのかもしれない。昭和22年の地図では「特許標準局、石炭省」の記載がある。
『日本近代建築総覧』では「特許庁、建設年=昭和9年、構造=RC4、設計=大蔵省営繕管財局、施工=安藤組」。平面は中庭が二つある「日」の字形。外観はスクラッチタイルを張った、これという特徴もないような、官庁建築といったらいいだろうか。玄関上部にテラコッタの装飾を置いているのは、同時期に建った自治省(旧内務省)や文部省と同じで、外観も似ているような、そうでもないような……。







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日本工業倶楽部会館。千代田区丸の内1-4。1983(昭和58)年11月

1920(大正9)年に、横河工務所の設計で建てられたRC5階建てのビル。1918(大正7)年4月着工、1920年11月竣工である。施工は『日本近代建築総覧』や『近代建築ガイドブック』では「直営」となっているが、事実上は清水組らしい(『 清水建設200年史』)。
工業界の社交クラブとしての用途を中心に造られ、豪華な1階ホール、2階大広間、大食堂、3階談話室などを納めているという。それにしては外見は、色合いのせいかもしれないがかなり地味だ。ビルの外観デザインは横河工務所の松井貴太郎で、ゼツェッシオンという大正期に台頭してきた新様式を採用した。それでも玄関の前は古典様式のオーダーで飾っている。こういう重厚なところがないと承知しない偉い人がいたのかもしれない。日本建築学会が関係機関に出した『 保存に関する要望書』(1998年7月)には、「(松井は)正面玄関のオーダーのゼツェッシオン化を試みている」とあるから、ただとってつけただけではないようだ。また、「柱と梁の軸組構造を露出させるというアメリカの高層建築の形式も同時に取り入れており、まさにわが国のオフィス建築がアメリカから強い影響を受けていく過程を知り得る貴重な作品」ともいっている。



正面。左:1986(昭和61)年6月1日、右:1983(昭和58)年11月

正面屋上には石炭と紡績を象徴した坑夫と織女の像が置かれている。『 収蔵庫・壱號館>日本工業倶楽部会館(2010.01.29)』に、この小倉右一郎の彫刻の意義などが考察されている。



東面。1986(昭和61)年9月23日

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東京銀行協会。千代田区丸の内1-3。1986(昭和61)年1月

1916(大正5)年に、横河工務所の設計・施工で竣工した煉瓦造2階建ての洋館である。設計は横河工務所のチーフ・デザイナー松井貴太郎が担当した。当初の名称は「東京銀行集会所」で、『 全国銀行協会』によれば、1916年9月25日が落成式。また、1945(昭和20)年9月25日に「社団法人東京銀行協会(東銀協)設立」である。
『建築探偵術入門』(文春文庫、1986年、480円)の構造の解説では、「主体構造は確かに赤煉瓦ではあるが、・・・壁には縦横に鉄筋が入れられ、さらに鉄筋コンクリートの帯をまわしてコンクリートの床を支えるなど、耐震、耐火に対する周到な配慮」をしているという。
外観の特徴を『近代建築ガイドブック[関東編]』(鹿島出版会、昭和57年、2300円)から引用すると、「濃いあずき色の施釉煉瓦と御影石のにぎやかな配色といい、鋳鉄製の車寄せといい、充実した細部意匠を誇っている。明治期のような過剰な装飾や威圧感がなく、よく抑制された全体としてしゃれた細部の組合せは、やはり大正期ならではの上品さおだやかさをしめしている。見せ場の一つであった内部は改修をうけ、当初のセセッション様式の面影はうすれているが、上品さはあいかわらずである」。なるほど、もしかしたらこの建物は大正ロマンの反映?
『建築探偵術入門』には、「戦後の米軍接収中に火災によって上階を焼失し、昭和32年に復旧工事が行われたものの、当時の面影はやや失われている」という記述がある。接収期間は昭和20年9月から31年7月6日で、わりと長期にわたった。「American Red Cross Club(バンカーズ兵員クラブ)」という名称の米軍将校クラブとして使われたという。



左:1983(昭和58)年11月。右:1986(昭和61)年1月

建て替わった東京銀行協会ビルの「ファサード保存」は評判が悪い。建物をそのまま保存することと比較してしまうからだろうか。一方で、ビルの建替えに最も熱心なのが銀行で、建設費用を貸し付けることで、銀行の経営が成り立っているようなところがある。他人の建物は建替えさせて、この建物は保存するというのも変かもしれない。




上:1983(昭和58)年11月
左:建物の東面
1986(昭和61)年6月1日

東京銀行協会の旧ビルの写真をネットで探してみたが、あまり出てこない。『散歩やせんとて>昭和戦前古建築散歩 東京銀行集会所(2009.09.30)』を見つけた。

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霞が関合同庁舎第二号館。千代田区霞が関2-1。1986(昭和61年)7月27日(3枚とも)

写真の大通りは桜田通り(国道1号線)で写真右の高層ビルは江戸城桜田門前の警視庁・・・と説明の用はないだろう。合同庁舎二号館の旧庁舎を撮ったのはいいが、肝心の霞ヶ関一丁目交差点の角の丸くなっている部分が入っていない。
内務省の庁舎として1933(昭和8)年に完成したビル。設計は大蔵省営繕管財局、施工は清水組で、鉄骨鉄筋コンクリート造5階建。中庭が二つある「日」の字形の平面で、1階は石張り(伊豆の横根沢石)、2階から上はスクラッチタイル貼り。外観は同年に建った文部省のビルと同じ感じで、とにかく地味である。
内務省とは、本当のところは知らないのだが、地方行政を牛耳り、警察権を握って国民を監視し、国土計画から労働・衛生まで所管していた巨大組織だから庁舎も巨大だ。戦後、GHQによって廃止された。撮影時では自治省・警察庁・消防庁・人事院・国家公安員会などが入っていた。一般には「人事院ビル」の名称が広く使われたようである。



人事院ビルの南側の道路は「霞が関坂」でもある。その坂道沿いの面。



霞が関坂のほうの玄関上部。

――参考サイト: 『廃景録>合同庁舎第2号館』

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