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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




共済ビル。千代田区富士見1-7
左:1985(昭和60)年8月4日、右:2004(平成16)年1月3日

現在、早稲田通りの日本歯科大の北に角川第3本社ビルがあり、その向かいに写真の共済ビルがある。右の写真が現在の様子。ごく地味なビルで、いつ建て替えになってもおかしくないような建物である。
左の写真はビル全体に網がかけられ、日が当たっている面は網が日を反射して白く飛んでしまっている。回転式の窓や水平に伸ばした窓の上下の縁、角に設けた入り口などが震災復興期のビルであることを示しているように思う。入り口周りはタイル張りにしているが、昔はビルの壁の全面がタイル張りで、入り口周りだけ修復したものだろうか。
1970年の住宅地図には共済ビルのテナントとして「国家公務員共済組合連盟、学陽書房」とあり、ビルの名称はそこからきているらしい。「学陽書房富士見営業所」の張り紙が今も窓に出ている。

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民家。千代田区富士見2-1。1988(昭和63)年1月15日

東京大神宮通りから横に入ったところで、早稲田通りのすぐ裏手になる。屋根つきの門のある屋敷は残っているが、その右のアパート風の日本家屋のところは、「プラース千代田富士見」(2009年3月築、9階建、65戸)というマンションが建った。
写真左に看板建築が2棟見える。その左の方は大神宮通りとの角にあるモルタル塗の看板建築で、撮影時はたばこ屋だったと思うが、建物は今も残っている。その右の銅板貼り看板建築は斉藤商店という雑貨店。今は4階建ての小さなビルに建て替わっている。

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民家。千代田区富士見2-1。1985(昭和60)年8月4日

東京大神宮の向かいの横丁で、写真奥に大松閣が写っている。大神宮通りの裏手になり、関東大震災後に建てられたと思われる木造の民家が密集していたようだ。写真左から、元二軒長屋、1戸建て住宅、庭付き1戸建て住宅、と並んでいて、現在はこの3軒の家のところは「プラース千代田富士見」(9階建、65戸)というマンションが建っている。その完成は2009年3月で、割と最近まで写真のような景観が残っていた。
都市徘徊blog>富士見の木造家屋群(2013.05.18)』で、以前の民家と現在のビルとが見比べられて興味深い。そのブログによると、民家は2008年4月頃から順次解体されていったという。道幅が拡げられて、その分は歩道になったようである。黒板塀を割って伸びている大木は今も残されて、歩道をふさぐように立っている。1・3枚目の写真では塀の中に納まっている。



民家。富士見2-1。1988(昭和63)年1月15日

写真左の家は元は二軒長屋だったもの。その右の路地の奥に見えているのは、1986年の住宅地図で「ダスキン中山」となっている二軒長屋。右後ろのビルは大神宮通りに面している。



民家。富士見2-1。1989(平成1)年5月4日





2004(平成16)年1月3日

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左:富士見会館、右:第2富士見ビル。千代田区富士見2-1。1986(昭和61)年9月23日

東京大神宮前の三叉路の角にあったレンガの外壁のビルとその隣にあった洋風のモルタル壁の建物。現在はこの2棟のところに「ジャイアンツチャリティテレカ事務局」というビルが建っている。
1986年の住宅地図では、2棟まとめて「富士見会館/伸和興業」で、写真では腰折れ屋根の建物に「第2富士見ビル」の看板が見える。富士見会館は4階かと見えるアーチの窓があるが、4階だとすると天井が低すぎるから3階の天井が高いのだろう。1階に「サンメイト」という店がある。「サクラカラー」の幟はこの店のものだろうか?
これらの建物は『 東京-昭和の記憶->富士見 大神宮通り>2』に載っていて、富士見会館の側面の写真もちゃんと出ている。

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大松閣。千代田区富士見2-4。1985(昭和60)年8月4日

左写真は大神宮通りの坂道の途中から大松閣を見たもの。右側に見えている家並みはすでにビルに建て替わっているのが多く、それらのビルは今も変わらない。「コクヨ製品」の看板は「南信堂文具店」で、現在は「キヤビル2」というビルに替わっている。写真右端の木屋酒店はキヤビル1からキヤビル2に移ったようだが、今は酒屋をやっているようには見えない。ビルの運営に業務転向したのかもしれない。「東芝カラーテレビ」の看板は「 田川電気商会」で、4階建てのビルに建て替わっている。
大松閣は東京大神宮の、結婚披露宴などを行う施設だったと思う。今は「朝日観光ビル」という名称のビルに替わったが、「東京大神宮マツヤサロン」の名で営業しているらしい。「大松閣」の名は、写真のビルと共に消滅したようだ。


大松閣。1988(昭和63)年1月15日

『日本近代建築総覧』には「建築年=昭和8年、構造=RC4階建・地下1階、設計=渡辺仁、施工=清水組」とある。帝冠様式になるのかよく分からないが、ビルのデザインは神社の意向が大きかったのだろう。「渡辺仁、帝冠様式」といえば、東京国立博物館(昭和12年)である。その有名な作品を手掛ける前に大松館があったことを押さえて置いてもいいかもしれない。
『帝都復興せり!』(松葉一清、1988年、平凡社、2400円)には、「渡辺の和風連作のひとつ。建物全体は得意の古典主義の禁欲表現で引き締め、屋根と軒裏の垂木で和風独特の雰囲気を作り出している。」と解説されている。goo古地図の昭和22年と38年の航空写真では屋根の形が異なるので、5階は戦後の増築だと思う。

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民家。千代田区富士見2-5。1986(昭和61)年9月23日

富士見2丁目の高台から飯田橋3・4丁目の低地へ下りる坂道の降り口辺りにあった家。わりと最近も見ているから今もあるかと思っていたが、ストリートビューを見たら建て替わっていた。
写真の家はモルタル塗の壁のせいでアパートのようにも見える。玄関の両開きのドアもアパートだか、あるいは医院にあるようなものに思える。この建物で面白いのは、通りに面した1階の半円窓と大谷石の門だ。門柱には「麹町區富士見町二丁目十番地一」の表札がかかっている。
1枚目の写真で工事用フェンスのところは、1986年の地図では「桜丘学園第一校舎」で、それを取り壊したところだろうか。つい最近まで駐車場になっていたのではないかと思うが、今は高層のオフィスビルが建ったようだ。


2009(平成21)年5月23日

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左:すし信。千代田区富士見2-3。1985(昭和60)年8月4日
右:学友書房。富士見2-3。2004(平成16)年1月3日

すし信は早稲田通りの青森県会館の隣にあった。現在はビルに建て替わって、その1階はドトールコーヒーだ。現在の青森県会館は撮影時の地図では「青森県職員東京宿泊所」で、今のビルの上階にはその宿泊所があるのかもしれない。
写真の建物はタイル張りの壁面にした看板建築になるのだろうか。かなり高級な店のように見える構えである。3階の窓の周りと軒の銅板によるものと思われる装飾で洋風の感じに受け取れるが、1階の造りや2階の引き戸の窓と庇などは和風である。

右写真の学友書房のビルはすし信と同番地だがそことはちょうど反対側にある。写真右奥のビルは日本歯科医大付属病院。学友書房をネット検索すると「東京朝鮮学園学友書房」という出版社があり、壁面の字を「学校法人朝鮮学園教科書出版所」と読めば符合する。建物は昭和38年の空撮写真に写っている。この辺りがビルに替わっていく、その最初期のものと思う。
写真では空き家のような感じもする。その後取り壊されて駐車場になっていたが、ストリートビューではビルの建設工事中のようだ。



富士印刷所。富士見2-3。1988(昭和63)年1月15日

1・2枚目写真と同番地の東南の角で、写真左へ行くと早稲田通り。角の富士印刷所から左へ、八百武、国際のクリーニング、区立富士見福祉会館。現在は看板建築の3棟はそれぞれがビルに建て替わった。八百武と国際のクリーニングはそのビルで今も営業している。

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洋館。千代田区富士見2-12。1988(昭和63)年1月15日

早稲田通りから東京警察病院(現在は移転)の方へ入った病院の向かいにあった家。周囲は病院や学校が立ち並んでいる地区だが、写真の家があったところは一戸建て住宅が100軒余りも集合していた住宅地だった。昭和22年の空撮写真では、そこが焼け野原になっている。ただ警察病院の南に焼失を免れたらしい家並みがあり、写真の家もその1軒になる。
外観は一応は洋館であるが本格的なものではないようで、中身は日本家屋で前面を看板建築的に洋風に造ったようにも見える。それだけにいたって親しみやすい感じがする。玄関の引き戸・外灯・欄間にあたるところのステンドグラスは和風な意匠と言っていいだろう。


1986(昭和61)年9月23日

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八百峰商店。千代田区富士見2-11。1985(昭和60)年8月4日

JR飯田橋駅の西口を出ると早稲田通りで、その通りを南に向かうと駅に近い辺りは商店街である。八百峰は東京警察病院の先にあった。『昭和の東京3千代田区』(写真:加藤嶺夫、発行:デコ、2013年、1800円)の写真を見るとかなりの間口である。出桁造りの日本家屋だが二階の高さがやたら低い。二階の床は一階の屋根の付け根より半間くらい下にあるはずだ。出桁造り商家のなかでも明治期など早期に建てられたものに見られる構造らしい。現在はビル(峰ビル―八百峰の「峰」?―、1階は東京厨房、1994年9月竣工)に替わった。


小池薬局。富士見2-11
1988(昭和63)年1月15日

写真右は木村ビルで八百峰の左にも写っているビル。その1階は飲食店のようだが、その店構えは現在の「YamiTuki」というカレー店でも使われている。
小池薬局はモルタル仕上げの洋風看板建築で、代表的なデザインの一軒。現在はビル(馬場ビル)に建て替わって、その1階で店は続いている。

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富士見町教会。千代田区富士見2-10
上:1982(昭和57)年4月
左:1985(昭和60)年8月4日

JR飯田橋駅西口の向かい側にある富士見町教会は、「飯田橋駅西口地区市街地再開発事業」によって建て替えられ、最近、南に隣接した東京警察病院の跡地に新教会堂が完成したようなので現教会堂(写真左)は取り壊されたかもしれない。写真の現教会堂の完成は1985年で、写真は建って間もない頃だ。30年もしないうちに建て替えられたのである。
上の写真は1984年頃に解体されたと思われる旧教会堂。木が邪魔で建物の外観はよく分からない。建物は塔屋右の中央部分が後ろへ伸びていたようだ。『日本近代建築総覧』では「建築年=1929(昭和4)年、設計=山本拙郎、施工=大倉土木」。山本拙郎(1890-1944年)は「あめりか屋」という住宅供給会社で住宅の設計をしたことで知られた人らしい(ウィキペディア)。
写真後ろのビルは東京警察病院で、2008年に中野区中野に移転した。

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