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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




左:八百栄、右:民家。千代田区飯田橋1-8。1985(昭和60)年頃

水色に塗った下見板の看板建築は目白通りにあった。「八百栄」の看板で八百屋と判る。同じ建物の隣は商店の構えだが看板がないから廃業しているのかもしれない。建物は二軒長屋になるのだろう。右の写真はその家の横を入ったところで、八百栄の裏の家。モルタル塗の看板建築のようだ。
撮影日が不明なのだが、1986年の地図では「飯田橋共同ビル」(現・ASKビル、1986年3月竣工)となっていて、すでに建て替わっている。そこから1985(昭和60)年頃と推定した。1985年8月4日にこの付近を撮り歩いているから、そのときかもしれない。



中華入船。飯田橋1-9。1988(昭和63)年1月15日

目白通りの裏通りにあったトタン貼り看板建築の商店長屋。写真左へ行くと目白通りで、南の方を見ている。飲食店のように見えるが看板は文字を消してあるので営業はしていないのだろう。1970年頃の地図では「中華入船」だが、その店だったかどうかは判らない。
現在は学陽書房のビル(1998年3月竣工)が建っている。

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左:民家。千代田区飯田橋4-3。2009(平成21)年5月23日
右:田川電気商会。飯田橋4-3。1989(平成1)年5月4日

東京大神宮の入り口の東側の横は大沢ビルだが、その横に大神宮通りから低地に下りる階段がある。飯田橋4・1丁目の低地と富士見2・1丁目の台地をつなぐ道で階段になっているのはここだけかもしれない。左上の写真はその階段の下にある民家。戦後まもなく建てた家だろうか。
階段の方へ曲がらずに大神宮通りを東に行くと角が千代田動物病院の金原ビルで、その隣に右上写真の「田川電気商会」の看板建築があった。1970年頃の地図では「皆川カメラ店」である。現在は4階建てのビルに建て替わっている。


民家。飯田橋4-4
1988(昭和63)年1月15日

写真左手前の家が1枚目の写真の民家。正面の家の裏は崖で、その上が東京大神宮。現在は正面の家は取り壊されて空地になっていて、コンクリートの護岸が見えている。

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平野東処堂。千代田区飯田橋1-12。1985(昭和60)年8月4日

東京大神宮通りと、東京ルーテルセンター教会の前を目白通りへ下りていく通りとの交差点角にあった家。日名タバコ店の向かいになる。写真右奥に教会、角の家の後ろの白いビルは太陽神戸銀行九段寮、その左は暁星学園国際部日仏科らしい。現在では写されている建物は教会が残っているだけだ。
建物の真ん中に「印舗 平野東処堂」の表札が下がっているが店舗の正面は右の側面の方のようである。そちらも写せるアングルで撮れば電柱が写り込まない写真になったわけだが、撮り歩いているときは対象物が写っていればいいというか、まあ、なにも考えていないようだ。



一心堂、大野屋。飯田橋1-12。左:1986(昭和61)年9月23日、右:1985(昭和60)年8月4日

1枚目写真の左に続く大神宮通り沿いの家並み。看板建築が並んでいるが、現在は全てビルに建て替わっている。東処堂の隣は住居だが東処堂とよく似た建物。大野屋菓子店はモルタル壁の看板建築、銅板貼りと洋風石造建築に見せた看板建築を「一心堂クリーニング総本店」が使っている。「伊藤パン」の看板はムラタパン店。

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伊藤菓子店。千代田区飯田橋1-11。1989(平成1)年5月4日

目白通りから東京大神宮通りへ入って120mほどのところ。二階に縦長の3列の窓がある看板建築が今も残っている。その特徴的な窓は、アルミサッシの窓に取り換える際に間の二本の仕切りを切り取ってしまって、見た目の印象がだいぶ変わってしまった。その右が伊藤菓子店だが写真では自販機を置いているだけのようだ。写真右端が中華料理の「宝華」。
写真では商店街と言っていいような家並みだが、今ではビルが立ち並んでいてこれという特徴のない通りである。


日名タバコ店。飯田橋1-10
1985(昭和60)年8月4日

1枚目写真の並びで1ブロック西のところ。この辺りまで来ると台地の上にある東京大神宮へ上がっていく坂道になる。写真左端の清水薬局は現在も変わらない。クラシックなビルに見える建物は、古い航空写真で見ると寄棟屋根のようで、あるいは木造なのかもしれない。昭和44年の地図に「日名タバコ店」となっているがどこかの会社が事務所として建てたように見える。写真右のビルは「源氏飯田橋ビル」。
現在は日名タバコ店と源氏飯田橋ビルがトライグループのビルに建て替わっている。

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下見板のアパート。千代田区飯田橋1-12
左:1982(昭和57)年4月、右: 1986(昭和61)年9月23日

目白通りの飯田橋二丁目交差点の辺りの裏通りにあった木造アパート。『都市徘徊blog>飯田橋の木造家屋(2008.08.30)』で紹介されている。そこで「…昔のままの下見板張りの外観だったため、2棟の建物はかなり黒ずんで、周辺の街並みの中で目立っていた。このため、派手なデザインではなかったが、かなり印象に残るものだった」と書いていて、ぼくもこの建物を見たときはやはり同じように驚いた。外壁を南京下見板にした建物は東京ではあまり見かけない。モルタルを塗りつけてしまう場合が多いのだろうか。
同じような建物が2棟並んでいる。同じ石垣の上にあり、外観も似ているので家主が同じで、施工者も同じではないかとも思ってしまう。写真では後ろでくっついているようにも疑えるが、裏には別の家が建っていて、表の2棟はそれぞれ独立している。
『加藤嶺夫写真全集 昭和の東京3千代田区』(デコ、2013年、1800円)には建物の間の階段とその奥の家が写っている写真が載っている。左の家の玄関がどうなっているかも判って貴重な資料である。その写真のキャプションには「左は入院もできる助産所だった」とある。昭和44年の地図では「九谷助産所」、右の家は「日報社」。

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上:東京大神宮通り入り口。千代田区飯田橋1-6
1986(昭和61)年9月23日
左:東専堂。飯田橋1-5。1985(昭和60)年8月4日

上の写真は目白通りの飯田橋二丁目交差点のすぐ北から斜めに、東京大神宮へ通じている通りの入り口。写真左のトクミヤ洋服店は建物もそのままで今も営業している。写真右の高砂屋洋品店はなくなって、そこには玉垣をめぐらした中に「東京大神宮」の大きな石標が立っている。「東京大神宮通り」のアーチは取り払われ、「大神宮通り」の道標が置かれた。
東京-昭和の記憶』というサイトの「富士見 東京大神宮通り」の1985年撮影の写真を見ると、アーチ横の松柏ビルに建て替わる前の鶏肉店の看板建築が写っている。
和菓子の東専堂は目白通りの、大神宮通りへ別れる手前にあった。現在は東専堂ビルに建て替わっている。目白通りを渡って向かいから撮ればいいわけだが、面倒なので近くで済ませたという写真である。



白菊稲荷神社入り口。飯田橋1-12。1988(昭和63)年1月15日

大神宮通りに入って100mほどのところ。銅板貼り看板建築の家は「プチ フロリスト」とあるがなにをしているのだろう? 写真左端は「魚政」だから魚屋だろう。この2軒が「飯田橋センタービル」に建て替わり、白菊稲荷はその横から入っていくようになっている。

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上:飯田町食堂。千代田区飯田橋4-1
1986(昭和61)年9月23日
左:スナック紅。2006(平成18)年3月31日

上の写真は目白通りから横丁を入ったところで、写真右奥の車が走っているのが目白通り。今は写真のような木造の古い家屋はほとんどがビルに建て替わったが、1980年代ならまだかなり残っていたようである。
かしわ屋の建物はモルタル仕上げの看板建築としてよさそうだが、他は木造の簡易店舗とでもいった感じだ。写真左端の「ジャンボ(中国料理)」は今も同じ位置で建て替わったビルで盛業中。飯田町食堂は住所が「飯田橋」と変わる前からあるのだろうか。ビルに建て替わった。茶色の縁取りの看板建築風の「スナック紅BENI」が今も残っていて、看板は写真と同じものを出しているから商売は存続しているらしい。紅の右、かしわ屋(パン、たい焼)の間に路地が入っている。その隣の看板は読めないが撮影当時の住宅地図では「丸美屋」、通りとの角が「棚平」。現在はこの3軒のところには「飯田橋ISビル」が建っている。

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飯田橋駅。千代田区飯田橋4-10。1985(昭和60)年8月4日

早稲田通りの牛込橋の上にある飯田橋駅の西口。JRの発足は1987年なので撮影時はまだ国鉄である。飯田橋駅は1928(昭和3)年11月15日開業なので、写真の駅舎もその時のものだと思う。関東大震災後の復興事業のひとつだと思うが、中央本線を複々線にするのに伴って、飯田町駅と牛込駅を統合したものだ。
『加藤嶺夫写真全集・昭和の東京3千代田区』(デコ、2013年、1800円)に昭和42年に撮影された、よりオリジナルに近い姿の写真が載っている。それを見ると、今は飯場のような増築部分で隠されてしまった側面が見られ、正面の壁の上部には窓が開いている。



牛込橋。富士見2-10。1986(昭和61)年9月23日

牛込橋の真ん中辺りから外堀通りの神楽坂下交差点のほうを見たもの。現在の橋は平成8年に架け替えられたものだが、1枚目写真にも写っている橋はその先代の橋。昭和初年の架橋かと思えるが、ネット上では資料が見つけられなかった。『東京の橋』(石川悌二、新人物往来社、昭和52年、3,800円)では「(牛込御門橋)現橋は鉄筋コンクリート桁長35.61m、幅11m」とあるだけで、もっぱら牛込見付についてのほうを力説している。

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福山商会、田中双輪社。千代田区飯田橋2-9
左:1986(昭和61)年9月23日、右:2004(平成16)年1月3日

目白通りのJR飯田橋駅から南の飯田橋2丁目交差点辺りまでは戦災の焼失を免れた場所で、今はほとんどがビルに替わっているが、戦前の看板建築が何軒か残っている。上の写真では3階建て看板建築が2軒並んで残っている。クリーニング店は今も営業中。自転車・バイク店はJYOTIというインド料理の店になっている。


ライオンクリーニング。飯田橋2-8
2013(平成21)年5月23日

福山クリーニング店の一つ南の街区。昔の航空写真を見るとライオンの左には横丁の角まで看板建築の四軒長屋があったらしい。1986年の住宅地図では「細江、山田、テスタ、冨里屋」である。ビルに建て替わる前の家並みが『加藤嶺夫写真全集・昭和の東京3千代田区』(株式会社デコ、2013年、1800円)の写真にある。目白通りを走る都電が写っていて、ライオンはなんの店だか判らないが、その右から、そばやの増田屋、床屋、純喫茶白鳳、西洋料理の花菱軒で、いずれも看板建築である。現在も増田屋はビルに入ったが盛業のようだし、花菱軒が建て替わったビルは花菱軒ビルという。

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飯田町変電所。千代田区飯田橋3-8。1988(昭和63)年1月15日

日本医科大第一病院(現・東京区政会館)の裏側(北)、中央線の高架沿いにあったJRの変電所。中央線から分岐する短い線路(飯田町貨物駅のものとは別)があって、保線作業用車両などを置いておく場所だったのではないかと思う。今はその支線を撤去した場所に変電所を移した。現在の地図では「東日本旅客鉄道㈱飯田町変電所」で、写真の建物と比べるとだいぶコンパクトになった。
撮影時の1986年の住宅地図では「東京西鉄道管理局飯田町変電所」、1969年の地図では「新宿変電区飯田町変電支区」という記載である。
撮影したときは変電所とは知らなかった。倉庫かなにかだと思っていた。上写真のネットの左、下写真の右奥に写っている「宝紙業第二ビル」が現存する。
写真の変電所があったところには「住友不動産飯田橋駅前ビル」(2008年5月竣工、13階建)と「辰巳ビル」が建った。



飯田町変電所。1988(昭和63)年1月15日

飯田町(いいだまち)とは旧町名で、旧飯田町1・2丁目は、だいたい現在の飯田橋1~4丁目にあたる。1966年の改変である。飯田町のままでよさそうなものだが変える理由があったのだろうか。橋の名称は飯田町に由来するが、その橋の名前を町名にするというのはなんだかまどろっこしい感じがする。飯田町は他県にもあり飯田市もあるからすぐ区別がつくことを考えたのだろうか。結局は、国鉄の飯田橋駅がある町、ということが大きかったのかもしれない。

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