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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




鉄道会館(大丸東京店)。千代田区丸の内1-9。2005(平成17)年11月27日

つい最近まで、八重洲口といえば思い浮かぶのは写真のビルと決まっていた。ビルの名称は「鉄道会館」といったが、建ったばかりの頃は知らないが、誰もそんな名前は使わなかった。「東京駅八重洲口」というのが普通だった。JR東日本の子会社である「株式会社鉄道会館」が運営するビルで、そのHPによると、会社は1952年 9月の創立。鉄道会館(八重洲口の駅ビル)や東京駅名店街(現・東京駅一番街)を運営するために出来た会社らしい。
大丸はビル(鉄道会館八重洲本館)が6階建てで出来た1954(昭和29)年に開業。10月21日の営業初日には20万人が来店したとか。「行きも大丸、帰りも大丸」という宣伝文句は当時から使われた。1968(昭和43)年に12階建てに増築された。
大丸は2007年11月に、完成したグラントウキョウノースタワーに移転した。鉄道会館が解体されたのは2009(平成21)年。

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蜂谷ビル。千代田区九段北1-2
1986(昭和61)年9月23日

靖国通りの九段坂の下にあったビル。現在は「九段中央ビル」という10階建てのビルに建て替わっている。両側のビルは、右が「豊平ビル(現・九段北一丁目ビル)」、左は「グランドメソン九段」で、今も変わらない。昭和30年頃の火保図では九段1丁目4-1の住所で「清和会」。実は「峰谷ビル」と「蜂屋ビル」とした地図もあるのだが、後の文章の都合で蜂谷ビルに決める。
期待はしなかったが「蜂谷ビル」をネット検索したら、関連のありそうなサイトが2件あった。まずは『TSUTAYA DISCAS>佐野史郎』。佐野史郎が映画デビュー作の『夢見るように眠りたい』(1986年公開)を語ったなかに、「…今では見られない風景とか、都市のドキュメンタリーとしても良いよね。公開中に取り壊された“仁丹塔”とか、九段にあった探偵事務所の外観の蜂谷ビルとか、…」とあるから、その映画では探偵事務所があるビルとして登場するのだろう。
もう1件は『ウィキペディア>石川光陽(1904-1989)』だが、関連性は不明。石川光陽は「警視庁に所属していた警察官・写真家」で、「警視総監直々の命令を受けて東京大空襲の惨状などを撮影したことで知られる」という人。今までそれとは知らずに彼の撮った写真を見ていたのかもしれない。1919(大正8)年から2年間、「東京九段下の蜂谷写真館」で修業したそうだ。その建物は関東大震災で焼失したと思われ、その後建て直したのだかそのまま閉店してしまったのかもわからない。つまりは峰谷写真館と峰谷ビルが同じという保証はなにもない。ビルの外観は写真館だったといってもまあうなずける、という程度なのだが、言っておけば知っている人がなにか知らせてくれるかもしれない。

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都立九段高等学校。千代田区九段北2-2。1986(昭和61)年9月23日

調べてみたら九段高校はなくなって、2006(平成18)年に開校した中高一貫校である千代田区立九段中等教育学校に引き継がれていた。
写真は早稲田通り側の表に対して、裏側である。肝心の表側の校舎だが、撮影時にはすでに現在の校舎に建て替わっていたのかもしれない。上の写真は学校の敷地の西側に並んでいた講堂だか体育館などだったかと思うが、まだ残っていたもの。
YouTubeの『東京都立九段高校校歌』で古い校舎を取り壊している「1984年の夏」の写真が見られる。上の写真の建物を校庭側から撮った写真も載せている。



下見板の洋館。九段北1-15。1982(昭和57)年4月

現在の九段中等教育学校の早稲田通りの向かい側に西洋館のお屋敷がある。『日本近代建築総覧』に「山口万吉邸、建築年=大正14年、構造=RC2階建て、設計=内藤多仲、備考=設計協力木子七郎、今井兼次」とあるスパニッシュ様式の建物だ。その屋敷の敷地の早稲田通りに向いた角は駐車場になっている。写真の家はそこに建っていた。山口邸の塀の外であり、借家として建てたのだろうか。アパートだったのかもしれない。

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和洋女子大附属九段女子中・高校
千代田区富士見1-2。1986(昭和61)年9月23日

手前の道は冬青木(もちのき)坂で、上りきった辺りから正面を写したもの。右の塀はフィリピン大使館、左のビルはこれも和洋女子大附属九段女子中学校・高等学校。1992(平成4)年に「大附属」をとりさって「和洋九段女子中学校高等学校」と校名を変更している。大学は市川の国府台にあるが、実質は別の学校だと思い決したのだろうか。
写真の校舎は昭和22年の航空写真に写っている建物と思われる。もう何枚か撮影しないとどんな建物だったのか判らないのだが、撮影時はあまり興味を引かなかったらしく、この1枚しか撮っていない。

下の2枚は九段高校の早稲田通り向かいにあった隣り合った民家。右写真の右の塀は暁星学園。現在は三階建ての日本家屋は建て替わっているが看板建築の家の方は改装して使い続けているように見える。



九段高校前の民家。富士見1-2。左:1986(昭和61)年9月23日、右:1982(昭和57)年4月

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千代田区立富士見小学校。千代田区富士見1-10。2004(平成16)年1月3日

1877(明治10)年創立で、創立100周年がもうだいぶ昔の昭和52年だったという歴史のある小学校だ。富士見小のホームページの沿革では、現在の小学校の開設を1993(平成5)年としていて「学校設置条例の改正に伴い、東京都千代田区立千代田富士見小学校となる」時からと決めている。なにを意味しているのか分からない。
写真は早稲田通りから見えていた旧校舎の外観。戦後すぐは木造の仮校舎のような建物で始まったようで、写真の校舎は昭和30年代に建ったものかと思う。現在は2010(平成22)から、建て替わった「富士見みらい館」という複合施設の中に入っている。



鹿楼。富士見1-9。2004(平成16)年1月3日

日本歯科大学の早稲田通り沿いの北東角のところ。今は右奥で建設中のビルが前まで伸びているが、写真ではまだ古い建物が2棟残っている。右の看板建築は1階が飲食店風の造りで出入り口がないので、隣の鹿楼が使っているのではないかと思う。鹿楼は看板からエスニック料理の店だろう。鹿楼の左の薄いビルは武井ビル。
写真右の空き地は田中歯科器械店と仁木電気商会が取り壊された跡だ。田中歯科器械店は日本歯科大とも取引があり、業績も順調のようで、今は旧店舗の向かいの星和ビルを取得して田中ビルとしている。そのホームページの「会社概要」に看板建築の旧店舗の写真が載っていて、沿革に「昭和4年 現在の日本歯科大学脇の角地へ移転」とある。

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日本歯科大学。千代田区富士見1-9。1986(昭和61)年9月23日

写真のビルは日本歯科大学の校舎であるが、詳細はしれない。敷地の東北に建っていたもの。昭和22年の航空写真に写っているので戦前に建てられたもので4階建てらしい。現在の日本歯科大学生命歯学キャンパスには2棟のビル(本館と100周年記念館?)が建っていて、2004~6年の完成らしいが、1990年の航空写真では古い建物は取り壊されて工事が始まっているように見える。

日本歯科大といえば附属病院の建物が有名だ。『日本近代建築総覧』には「日本歯科大病院、建築年=昭和9年、構造=SRC5、設計=山口文象、施工=清水組」。
『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988年、2400円)では、竣工時の写真のキャプションに「日本歯科医学専門学校、現存、昭和9年/山口蚊象/富士見1-9-20 昭和戦前のインターナショナル・スタイルの代表的建築として喧伝された。…」とある。山口蚊象となっているが、1942年に文象と改名している。名称も建築時のもので、日本歯科大学になったのは1947年。著者は当書を執筆する際に現物を見て「…現況は、肌は黒ずみ、さまざまな改変の手を加えられ、今では見る影もない。…」と書いている。
下の写真左の工事用のボードで囲まれているのが附属病院だ。上の写真を撮ったときにはまだ外観が見えていたはずだ。ぼくは下の写真を撮ったときも、そんな歴史的建築物があるとはまったく気が付かなかった。


日本歯科大学。1988(昭和63)年1月15日

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栗林邸。千代田区富士見1-2。1989(平成1)年5月5日

当ブログ前回の1枚目写真のヒマラヤスギのある民家。早稲田通りの区立富士見小学校の向かいにあった。今はオフィスビルに替わってしまったから姓だけなら個人名を出してもいいだろう。K邸としてもたいした違いはない。車寄せのような立派な玄関のある洋館である。航空写真では切妻屋根に見え、木造ではないかと思う。
写真ではヒマラヤスギはだいぶ枝を刈りこんであって、割と建物がよく見えている。横丁側の奥に茶色の四角い建物があるが、たぶん倉庫だろう。


栗林邸。1988(昭和63)年1月15日

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河野タバコ店。千代田区富士見1-3。1986(昭和61)年9月23日

JR飯田橋駅西口の前を通る早稲田通りの富士見一丁目に並んでいた看板建築の商店。日本歯科大学と区立富士見小学校の向かい側だ。上の写真ではヒマラヤスギのあるのが栗林邸で、歩道の切れているところは横丁が早稲田通りを横切る四つ角。その角に緑の日よけを出しているのが河野タバコ店。写真手前の2棟の看板建築の家はだいぶ以前からしもた屋になっているらしく、古い住宅地図に当たっても社名や店名は出ていない。
下の写真は栗林邸の南。いずれも商売はやめて、空き家になっている家もありそうな様子だ。撮影時の地図では写真右の自販機を置いているのが「友林堂」その右が「一光」のようだ。1970年頃の地図を参照すると、一光は「一光写真商会」。
現在はもちろんこれらの木造家屋は一掃され、何棟かのビルが並んでいる。


有林堂。富士見1-2。1989(平成1)年5月4日

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二軒長屋。千代田区富士見1-5。1982(昭和57)年4月

東京大神宮の少し東の向かいの狭い横丁を入ったところで、奥へ行くと早稲田通りへ通じている。写真左端の家は大神宮通りに面した家で、モルタル壁の看板建築らしい。撮影日から4年後の1986年の地図では「アサヒエンタープライス」。その右に二軒長屋が2棟並んでいる。1986年の地図では手前の長屋は月極駐車場で、その先は「NTハイム富士見」(1985年4月築、8階建て42戸)で、現在建っているマンションの駐車場になってしまっている。


二軒長屋。富士見1-6
1988(昭和63)年1月15日

1枚目写真と同じ横丁で向かい側。これも二軒長屋になると思う。写っている車は、1枚目写真と同じ車かどうか分からないが、置いてある場所が同じかもしれない。長屋の前にコンクリート製の防火用水がある。絵が刻まれているが、富士見町二丁目を図案化したものだろうか。
現在は「富士見ビル」(1993年12月築、11階地下3階)というオフィスビルが建っている。

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大新京アパートメントハウス。千代田区富士見1-5。1985(昭和60)年8月4日

早稲田通りの飯田橋駅から南、日本歯科大学の手前の角を目白通りの方へ曲がったところにあったアパート。現在は「大新京ビル」(5階建て、1988年3月築)に建て替わっている。
手近に資料がないので詳細は知らないが、昭和初期に建てられた集合住宅だろう。外観のデザインが一般的な洋風のものとは少し異なるようで、和風の味も感じられる。「大新京」という言葉からはなんとなく中国に連想がいき、台湾や上海にあってもいいような感じもしてくる。「大新京」の名称は大家が3人いてその名前の漢字だったりして。
『乱歩と東京』(松山巖著、PARCO出版、1984年、2000円)の写真のキャプションに「RC造二階建て」とある。昔の航空写真では寄棟屋根のように見える。観音開きの窓がわりと珍しいかもしれない。共同便所と共同洗面所を備えて、25室ほどの規模かと思う。建物の平面はL字形で、角の玄関の上の塔屋が特徴である。ただの飾りだとは思うが、部屋にしていたのかもしれない。

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